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新潟県の偉人:大倉喜八郎 — 「死の商人」と罵られながら、日本を近代化に導いた豪胆なるベンチャー王

「新しいこと、人のやらない事に完全と挑む冒険心」

この精神を生涯貫き、明治・大正期の実業界を牽引したのが、大倉喜八郎(おおくら きはちろう)です。

越後国新発田町(現在の新潟県新発田市)の商家の三男として生まれた彼は、18歳で江戸へ飛び出し、乾物商から鉄砲商へと転身。戊辰戦争で巨利を得て、大倉財閥という巨大なコンツェルンを築き上げました。「稀にみる士魂の持ち主」と評された一方、「死の商人」と嫌悪されながらも、その私財を公共、教育、文化財保護に惜しみなく投じた、明治のメセナ(文化支援者)の元祖でもあります。

幼少期の聡明さと、乾物店からの脱皮

大倉喜八郎は、1837年(天保8年)、新発田藩の検断役を務める格式高い商家の三男として、幼名・鶴吉(のちの喜八郎)として生まれました。幼少期から漢籍を学び、陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたとされます。

18歳の時、故郷を出て江戸へ上り、狂歌仲間を頼って乾物商の丁稚見習いとして奉公。この丁稚時代に、後に安田財閥を築く安田善次郎と親交を結んでいます。その後、自ら貯めた資金を元手に独立し、乾物店「大倉屋」を開業しました。

📌 幕末の動乱と「鉄砲商」への転身

しかし、喜八郎は乾物商に満足しませんでした。横浜で黒船を見たことを契機に、時代の大きな動乱を予見し、乾物店を廃業。慶応3年(1867年)に鉄砲店「大倉屋」を開業しました。

  • 信用第一の商売: 開業当初、店頭に現物を置く資金がなかったため、注文を受けてから横浜の外国人居留地で鉄砲を購入するという、直貿易に近い商売を行いました。良品を「早く、安く」納品することを心がけた大倉屋は、厚い信用を博しました。
  • 戊辰戦争での巨利: 明治元年(1868年)、新政府軍の官軍御用達となり、奥州征討軍の兵器や食糧の供給を一手に担い、巨利を得ます。以後、日清・日露戦争でも軍需品調達の御用商人として巨富を積み重ね、これが大倉財閥の礎となりました。

実業家としての冒険と「大倉コンツェルン」

明治維新後、大倉は「新しいこと、人のやらない事」に完全と挑む冒険心を胸に、日本の近代化に不可欠な様々な事業を興しました。

📌 日本初の海外進出とインフラ建設

喜八郎は、私費で3度にわたり欧米を視察し、西洋の先進的な商売と産業を徹底的に学びました。

  1. 貿易事業の開始: 帰国後の明治6年(1873年)、大倉組商会を設立し、貿易事業を開始。その後すぐにロンドンに日本企業初の海外支店を設置しました。
  1. インフラ事業: 渋沢栄一らと共に、日本初の電力会社東京電燈東京瓦斯(ガス)帝国ホテル帝国劇場などを設立。また、大倉土木組(後の大成建設)を設立し、銀座復興建設工事や新橋駅建設工事など、日本のインフラ整備の多くを手がけました。
  1. 中国・朝鮮への進出: 日露戦争では、朝鮮龍巌浦に製材所を設立するなど、いち早く中国大陸へ進出。製鉄、繊維、食品、保険など、多岐にわたる企業を設立し、大倉財閥という巨大なコンツェルンを築き上げました。

📌 「死の商人」の汚名と、文化への傾倒

軍需品調達で巨富を築いた大倉は、庶民からは「死の商人」と揶揄(やゆ)されましたが、その一方で、文化、教育、公共事業に惜しみなく私財を投じる「明治のメセナ(文化支援者)」としての顔も持っていました。

  • 大倉集古館の創設: 明治維新後の美術品流出を嘆き、多くの古美術品を収集。1917年(大正6年)、自邸内に日本初の私立美術館「大倉集古館」を開設し、一般に公開しました。
  • 育英事業: 大倉商業学校(現・東京経済大学)を創設し、商業界を担う人材育成に尽力。
  • 公共事業: 郷里の新潟県新発田市に水道敷設工事への寄付、諏訪公園(東公園)の寄贈、そして神戸市に別荘地を寄付し、大倉山公園が誕生しました。

晩年と「蔵春閣」への思い

大倉は、92年の生涯を通じて、常に「新しい時代」と「故郷」を意識していました。

📌 豪壮な迎賓館「蔵春閣」の里帰り

明治45年(1912年)、東京・向島(現・墨田区)の隅田川のほとりに迎賓館「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」を竣工しました。これは、日本の伝統的な和風建築でありながら、寄木造の床や、西洋風の内装を取り入れた、国内外の要人を招くための特別仕様の建物でした。

彼はこの迎賓館を、渋沢栄一や孫文(そんぶん)ら国内外の要人との交流の場としました。彼の死後、一度は解体されましたが、彼の故郷への強い思いが実を結び、令和4年(2022年)、故郷の新潟県新発田市に移築・復元されました。

📌 最後の事業と精神の継承

昭和に入っても、大倉の精力的な活動は衰えず、晩年は狂歌や書道、美術品収集に没頭。狂歌では生涯で1万首以上を詠み、自らを「六無斎(ろくむさい)」と号しました。

昭和3年(1928年)、91歳で死去。彼の死は、政界・実業界に大きな衝撃を与え、葬儀には1万人以上が参列しました。

📍大倉喜八郎ゆかりの地:冒険と文化の足跡を辿る旅

大倉喜八郎の足跡は、彼の故郷である新潟県新発田市から、東京、神戸、そして世界へと繋がっています。

  • 大倉喜八郎生誕之碑・下町わ組会館(新潟県新発田市大手町1-3-12):1916年(大正5年)、銅像の除幕式のために新発田を訪れた喜八郎が「ここが私の生まれた場所だ」と語ったという伝承をもとに、2001年(平成13年)に石碑が設置。石碑の正面にある「下町わ組会館」には、喜八郎の所蔵品や資料などが展示されています。
  • 大倉喜八郎の別邸「蔵春閣」(新潟県新発田市諏訪町1-9-20・東公園内):1912年(明治45年)に東京の向島、隅田川沿いに建てられた大倉喜八郎の別邸。当時は、政財界の大物や、海外からの賓客をもてなすための迎賓館として、歴代首相や渋沢栄一も訪れた事があるといわれている。建築面積254.50平方メートル、延べ床面積398.50平方メートルの二階建。2022年、(公財)大倉文化財団から新発田市に寄贈され、大倉喜八郎翁ゆかりの東公園に移築されました。
  • 大蔵喜八郎胸像と双子の石碑の一つ(新発田駅前公園(大倉記念公園)・新発田市本町1-14-6):1919年(大正8年)喜八郎が建設、操業を開始した㈱大倉製糸新発田工場は、新発田の産業発展に大きく寄与した。現在、その跡地には県立新発田病院が建っており、病院前の公園には喜八郎を記念する胸像と大倉集古館より移設された双子の石碑の一つが設置されている。
  • 大倉集古館・大倉喜八郎銅像(東京都港区虎ノ門2-10-3・オークラ東京前)喜八郎が設立した日本初の私立美術館。竣工以来50年が経過し老朽化が顕著となったホテルオークラ東京本館のThe Okura Tokyoへの建て替えに沿って、集古館もリニューアルされ、谷口吉生の設計と大成建設の施工で、2019年(令和元年)9月12日にリニューアルオープンした。
  • 大倉喜八郎像・東京経済大学(国分寺キャンパス・東京都国分寺市南町1-7-34):喜八郎が設立した大倉商業学校を前身とする大学で、2014年、国分寺キャンパス・大倉喜八郎 進一層館 Forward Hall建物正面に台座と立像あわせて4mの大倉喜八郎像が建てられた。
  • 大倉喜八郎 進一層館 Forward Hall・東京経済大学(国分寺キャンパス・東京都国分寺市南町1-7-34):2014年3月に旧・東京経済大学 図書館から生まれ変わった建物で、1階には多目的ホールと本学の歴史や大倉喜八郎にまつわる史料展示コーナーがあるほか、地下2階には学生の資格取得支援を行うCSC(キャリア・サポートコース)の専用研修室等が設置され、学生と卒業生がともに大倉喜八郎を顕彰できる場所となっている。
  • 大雲院書院・祇園閣・大倉喜八郎別荘(京都市東山区四条通大和大路祇園町南側594-1):大雲院書院は大倉喜八郎の京都別邸として建てられた近代和風建築で、設計は祇園閣と同様に伊東忠太で、八角形屋根の応接室など、独特なデザインが見られる。同時期に建てられた祇園閣は、書院からの景観要素としての意味もあり、昭和48年(1973) に大雲院が当地に移り、別荘は書院として、祇園閣は阿弥陀如来を安置する楼閣として残された。内部は非公開だが、通りから外観を見ることができる。
  • 大倉山公園(兵庫県神戸市中央区楠町4丁目ほか):明治43年に当時の大実業家大倉喜八郎の別荘であった土地の寄贈を受け整備されたもの。
  • 大倉山展望台(北海道札幌市):喜七郎が札幌市に寄贈したことから、1932年の開場時に「大倉シャンツェ」と命名されたジャンプ競技場。1972年の冬季オリンピックに向けた大改修の際に「大倉山ジャンプ競技場」と名称が改められた。標高307mにある展望ラウンジからは、札幌市街や石狩平野の大パノラマを一望。冬は辺り一面が雪で覆われた“真っ白”な景色を楽しめ、競技がない日にはスタート地点裏にある「展望ラウンジ」からジャンパーの目線を疑似体験できる。
  • 電気灯柱記念碑(東京都中央区銀座2-6-12・大倉本館ビル):明治15年(1882年)日本初の電力会社「東京電燈」(東京電力)設立に伴う宣伝の一環として、仮事務所が置かれていた銀座大倉組商会前で日本初のアーク灯を点火。驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけて、現在、その場所に記念碑が設置されている。
  • 大倉喜八郎墓所(護国寺・東京都文京区大塚5-40-1)

💬大倉喜八郎の遺産:現代社会へのメッセージ

大倉喜八郎の生涯は、私たちに「リスクを恐れぬベンチャー精神」と「文化への責任」の重要性を教えてくれます。彼は、既存の商習慣やリスクを恐れず、常に新しい分野(建設、電力、ビールなど)に果敢に挑戦し、日本の近代産業の基盤を築きました。

彼の「士魂」は、単なる利益追求に終わらず、美術品の保護、教育機関の設立、公共事業への寄与といった、公的な使命を帯びていました。彼の精神は、現代の経営者に求められる、社会に対する責任感と、文化を支えるメセナの重要性を示しています。

大倉喜八郎の物語は、一人の人間が、その豪胆な冒険心と知恵によって、国家の近代化に貢献し、ビジネスの力で文化と公共の利益を守ることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、挑戦する勇気と、社会への貢献という真の豊かさを追求することの大切さを、力強く語りかけているのです。

(C)【歴史キング】

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