北海道の偉人:シャクシャイン — 差別と圧政に立ち上がったアイヌの英雄、その悲劇的な最期
「シサム(隣人)として信頼しあうことができた」
かつて和人との間にあった平和を奪われ、松前藩の厳しい支配と交易の不平等に苦しんだ蝦夷地(現在の北海道)のアイヌ民族。その尊厳と独立のために、命を懸けて立ち上がったのが、シブチャリ(現・新ひだか町静内)の首長シャクシャイン(沙牟奢允)です。
1669年(寛文9年)に彼が起こした戦いは、アイヌ民族史上空前の大規模な蜂起となり、和人による支配の歴史における一大転換点となりました。彼の勇気と信念は、300年以上の時を超え、今もなおアイヌの人々の心に生き続けています。
英雄の誕生と、アイヌ民族の窮状
シャクシャインは、1606年(慶長11年)頃に、シベチャリ(北海道日高地方)のアイヌ一部族の惣乙名(そうおとな、有力首長)として生まれたとされています。彼の城(チャシ)は、現在の新ひだか町静内地区にありました。彼の生きた17世紀は、松前藩によるアイヌ民族に対する交易の独占と経済的支配が確立されていく時代でした。アイヌは、自らの土地である野山や川、海の資源を和人に乱獲され、交易では圧倒的に不利なレートを強いられました。春から秋まで和人のために働かされ、自分たちの食料さえ確保できず、冬には飢えと、和人から持ち込まれた病に苦しむという窮状にありました。
📌 部族間の抗争と首長への道
この窮状は、アイヌ民族間の部族対立をも深めました。シャクシャインが属するメナシクル(東の集団)と、オニビシが率いるシュムクル(西の集団)は、シベチャリ川流域の漁猟権をめぐって、根深い抗争を続けていました。1653年、メナシクルの先代首長カモクタインがシュムクルとの抗争で殺害されるという事件が起こります。副首長であったシャクシャインが、この報復合戦の渦中で惣乙名(首長)の座を継ぎました。1668年4月、ついにシャクシャインは、対立相手であったシュムクルの首長オニビシを殺害します。この報復をきっかけに、オニビシ側は松前藩に武器の援助を求めますが拒否され、その使者が帰路に急死すると、「松前藩による毒殺だ」という風説が広まりました。この誤報は、和人に対するアイヌの長年の不満を一気に爆発させる引き金となったのです。
シャクシャインの戦い:民族の尊厳をかけた蜂起
シャクシャインは、敵対していたシュムクルを筆頭に、蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への蜂起を呼びかけました。
📌 空前絶後のアイヌ連合軍
1669年6月、シャクシャインの指導のもと、アイヌ軍は松前藩に対する大規模な一斉蜂起を起こします。この「シャクシャインの戦い」(寛文蝦夷蜂起)は、アイヌ民族史上空前絶後の規模となり、東は釧路から西は天塩まで、広範囲の部族が結集しました。
- 和人の襲撃: 蜂起した2,000人にも上る軍勢は、蝦夷地各地で和人の砂金掘りや交易商船を攻撃。女性や子どもを含む356人以上の和人を殺傷しました。
- 松前藩への進軍: シャクシャイン軍は勢いそのままに松前を目指し、7月末には、函館近くの国縫(くんぬい)まで攻め進み、松前藩を追い詰めました。
松前藩は、幕府に急報し、津軽・南部・秋田の東北諸藩から鉄砲や兵糧の支援を受け、徹底抗戦の構えをとりました。しかし、松前藩は、親松前的なアイヌ集落を利用した分断工作や、鉄砲を多数装備したことによる火力差で、戦いはシャクシャイン軍の劣勢となります。
📌 和睦の酒宴での謀殺
戦いの長期化を恐れた松前藩は、和睦を申し出ます。シャクシャインは、「これ以上の流血は避けるべきだ」という思いから、越後出身の和人の娘婿であった庄太夫(庄太夫鉱夫説)など、徹底抗戦を主張する仲間の反対を押し切り、和睦に応じることを決意しました。1669年10月23日、シャクシャインはピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営に出向きます。和睦の酒宴が開かれましたが、これは松前藩による謀殺でした。シャクシャインは、その場で酒に酔わされ殺害されます。指導者を失ったアイヌ軍は戦意を喪失し、翌日にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落。戦いは終結しました。松前藩は、この勝利により、蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握り、アイヌ民族の経済的・政治的支配を強化しました。
シャクシャインの遺産:平和への願い
シャクシャインの戦いは、アイヌ民族にとって悲劇的な結末を迎えましたが、その精神は、彼らの心に深く刻み込まれました。
📌 像と供養祭に込められた「平和」
シャクシャインのチャシ(砦)のあった新ひだか町・真歌(まうた)の丘には、1970年(昭和45年)に、シャクシャイン像が建立されました。
- 和合の象徴: この像は、アイヌの人々と和人の有志が、人種差別をなくす教育の一環として、寄付を出し合って建てたものです。台座には、全道から集められたアイヌにとって貴重な黒曜石が埋め込まれました。
- 平和への願い: 像は、松前藩に向かって怒りを表した姿ではなく、「神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現しています。この像の前では、毎年アイヌの伝統的な供養祭「シャクシャイン法要祭」が開かれています。
この像に込められた「人間平等と平和協調」の願いは、シャクシャインが最期に求めた「和人との信頼関係」の回復を象徴しているのです。
シャクシャインゆかりの地:歴史の現場を辿る旅
シャクシャインの足跡は、彼の本拠地であった日高地方を中心に、戦いの歴史を伝える各地に残されています。
- シャクシャイン像・記念館・シャクシャイン城址・シベチャリチャシ跡(北海道日高郡新ひだか町静内真歌・真歌公園):アイヌの北海道における文化遺産の保存と文化の交流。アイヌのコタン(集落)を再現したコーナーなど、北海道の先住民族の文化財を豊富に展示。わかりやすく紹介しています。城跡があったことにより、昭和53年に建立。
- 国立アイヌ民族博物館(北海道白老郡白老町若草町2-3):ウポポイ(Upopoy)は、北海道白老郡白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称。主要施設として国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設を整備しており、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンター。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(大勢で)歌う」を意味している。
- シャクシャイン古戦場跡碑(北海道山越郡長万部町国縫30):激戦地となった場所に設置された記念碑です。
■碑文
「シャクシャインの戦争」クンヌイ古戦場跡
一六六九(寛文九)年、和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのおさシャクシャインが、アイヌモシリ全域に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川をはさんで、松前軍と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終息に向かった。クンヌイ川をはさんだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。それは十九世紀初頭から二度の幕府直轄を経て、明治期からの近代法体系の中で漸次形づくられたものである。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない。この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。
二〇一六(平成二十八)年九月建立 長万部町長 木幡正志
シャクシャインの遺産:現代社会へのメッセージ
シャクシャインの生涯は、私たちに「人間の尊厳と権利」の重要性を教えてくれます。彼は、経済的支配と差別に苦しむ同胞を救うため、自らの命を懸けて、巨大な権力に立ち向かいました。彼の物語は、いかなる人種や階層にも差別があってはならないという、普遍的な人間平等の思想を訴え続けています。シャクシャインの精神は、現代に生きる私たちに、歴史の中で埋もれてしまいがちな弱者の声に耳を傾け、真の人間愛と平和を追求することの大切さを、力強く語りかけているのです。