佐賀県の偉人:副島種臣 — 「正義の人」と世界が称賛した外交官、明治天皇が最も信頼した師
「夷(い)も亦(また)人国なり」
これは、奴隷同然の扱いを受けていた中国人苦力を救うため、国際法と人道主義を貫いた副島種臣(そえじま たねおみ)の信念を表す言葉です。
佐賀藩士の家に生まれた彼は、「佐賀の七賢人」の一人として明治維新政府の中枢を担い、初代外務卿(外務大臣)として日本の外交的地位を確立しました。また、独自の書風を確立した書家「蒼海(そうかい)」としての顔や、明治天皇に学問を講じた侍講(じこう)としての側面も持ち、その高潔な人格は多くの人々を魅了しました。
国学者の家に生まれ、尊王の志を抱く
副島種臣は、1828年(文政11年)、肥前国佐賀城下(現在の佐賀市鬼丸町)で、藩校・弘道館の教諭であった国学者・枝吉南濠(えだよし なんごう)の次男として生まれました。幼名は龍種(たつたね)、通称は次郎。
兄には、後に「義祭同盟」を結成し、佐賀藩の尊王運動を指導した枝吉神陽(えだよし しんよう)がいます。幼い頃から父と兄の影響で国学と尊王思想に触れ、7歳で弘道館に入学。当初は出来の良い兄や弟に挟まれ劣等感に悩みましたが、一念発起して猛勉強し、21歳で弘道館の内生寮首班(トップ)を務めるまでになりました。
32歳の時、父が亡くなると同藩の副島利忠の養子となり、副島姓を名乗ります。
📌 フルーベッキとの出会いと脱藩
幕末、長崎が開港されると、佐賀藩は長崎警備を担当していたこともあり、西洋の知識吸収に熱心でした。副島は大隈重信らと共に、長崎の致遠館でアメリカ人宣教師グイド・フルベッキのもとで英語を学びました。ここで得た語学力と国際法(万国公法)の知識が、後の外交官としての彼を支える強力な武器となります。
尊王攘夷の志に燃える副島は、1867年(慶応3年)、大政奉還を勧めるために大隈重信と共に脱藩して上京を試みますが、捕らえられて佐賀に送還され、謹慎処分を受けます。しかし、この行動力が新政府の目に留まり、明治維新後すぐに徴士・参与として登用されました。
「政体書」の起草と明治外交の確立
明治新政府に出仕した副島は、福岡孝弟と共に、新政府の組織大綱である『政体書』を起草。これはアメリカ合衆国憲法などを参考に、三権分立の考え方を導入した画期的なものでした。
その後、参議を経て、1871年(明治4年)、岩倉具視の後任として外務卿(現在の外務大臣)に就任します。ここで彼は、日本の外交史に残る大きな功績を次々と挙げていきます。
📌 「マリア・ルス号事件」と人道外交
1872年(明治5年)、横浜港に停泊中のペルー船「マリア・ルス号」から、清国人苦力(クーリー)が逃げ出し、救助を求めました。彼らは過酷な環境で労働を強いられる、奴隷同然の扱いを受けていました。
当時の日本は、ペルーとは条約を結んでおらず、清国との関係も微妙でした。多くの閣僚が国際問題になることを恐れて不干渉を決め込む中、副島は「人道上の正義」と「日本の主権独立」を主張し、断固として介入を決断します。
彼は特設法廷を設置し、神奈川県令の大江卓に裁判を行わせ、清国人231人を解放しました。ペルー側は日本を提訴しましたが、副島は国際法の知識を駆使してこれに対抗。最終的にロシア皇帝による仲裁裁判で日本の正当性が認められました。この事件により、副島の名は「正義人道の人」として世界中に轟き、日本の国際的な地位を高めました。
📌 対等外交の実現
マリア・ルス号事件の解決により、清国からも深い感謝を受けた副島は、日清修好条約の批准交換のために特命全権大使として清国へ渡ります。ここでも彼は毅然とした態度を貫き、皇帝(同治帝)との謁見において、清国側が求めた三跪九叩頭の礼(土下座のような礼)を拒否し、西洋諸国と同様の立礼を通すことに成功しました。これは、東アジアにおける伝統的な冊封体制を打ち破り、対等な外交関係を構築した画期的な出来事でした。
下野と自由民権運動、そして中国漫遊
外交の頂点にあった副島ですが、1873年(明治6年)、西郷隆盛らと共に征韓論を主張するも、大久保利通らとの政争に敗れ、下野(明治六年政変)します。
その後、板垣退助らと「愛国公党」を結成し、日本初の政党による『民撰議院設立建白書』を提出。自由民権運動の先駆けとなりました。
しかし、政治の表舞台から離れた副島は、世俗の栄達を捨て、不思議な行動に出ます。霞ヶ関の自宅を売り払い、約3年間にわたって中国大陸を漫遊する旅に出たのです。李鴻章ら清国の要人や文人と交流し、詩文を通じて親交を深めました。この時期の経験が、彼の東洋的な教養と人格にさらなる深みを与え、独自の風格を形成していきました。
明治天皇の師、そして「蒼海の書」
帰国後、副島はその高潔な人格と深い学識を買われ、宮内省御用掛一等侍講として、明治天皇に『大学』や『中庸』、『尚書』を進講する役目を任されます。
📌 天皇からの絶大な信頼
副島は、形式にとらわれず、君主としてのあり方を熱心に説きました。ある時、周囲の妬みや自身の病気から辞職を申し出ようとした副島に対し、明治天皇は侍従を通じて宸翰(しんかん、直筆の手紙)を送り、慰留しました。
「卿の教えを十分に吸収するには至っていない。(中略)私は生涯にわたって学んでいこうと思っているゆえ、嫌がらずに指導をしてほしい」
この手紙を読んだ副島は落涙し、生涯天皇に仕えることを誓ったといいます。天皇から金銭的な援助を打診された際も、「名君は万人に平等であらねばならぬ」としてこれを辞退するなど、その清廉潔白な態度は天皇の敬愛を集めました。
📌 書家「蒼海」としての芸術
副島は、「蒼海(そうかい)」の号を持つ書家としても超一流でした。その書は、従来の型にはまらない独創的で奔放なもので、文字というよりは絵画のような躍動感にあふれています。「帰雲飛雨」などの作品は、見る者を圧倒する力強さを持っています。同じく佐賀出身の中林梧竹と共に、明治の書道界に大きな影響を与えました。ちなみに、現在も使われている「佐賀新聞」の題字は、副島の揮毫によるものです。
晩年と遺産
晩年は枢密顧問官や内務大臣を歴任しましたが、権力に執着することはなく、常に国家と国民のことを第一に考えました。1905年(明治38年)、脳溢血のため78歳で死去。
彼を尊敬していた西郷隆盛は、死の直前に日本の未来を託す遺言状の宛先として副島を選んだといわれています。また、勝海舟も「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」と語った後、副島についても深い敬意を表しています。
正弘は、老中首座を堀田正睦に譲った後も、外交問題への対応に追われ続け、積年の心労により体調を悪化させました。安政4年(1857年)、39歳の若さで老中在任のまま急死。もし彼が若年で亡くなっていなければ、その後の日米修好通商条約締結や将軍継嗣問題といった幕末の混乱は、違った形で展開していたかもしれない、と言われています。
副島種臣を深く知る「この一冊!」
出版: 佐賀県立佐賀城本丸歴史館

副島種臣: 1828-1905 (佐賀偉人伝 12) / 森田 朋子 (著), 齋藤 洋子 (著)
単行本 – 2014/3/1

「佐賀の七賢人」の一人である副島種臣の生涯を、豊富な資料とともに分かりやすく解説した一冊です。外務卿としての華々しい外交手腕、明治天皇の師としての姿、そして書家「蒼海」としての芸術的側面まで、彼の多面的な魅力を余すところなく伝えています。郷土の偉人を知る書としても最適です。
📍副島種臣ゆかりの地:正義と芸術の足跡を辿る旅
副島種臣の足跡は、故郷の佐賀から、外交の舞台となった横浜・東京、そして中国大陸へと広がっています。
- 蒼海伯副島種臣誕生地(佐賀県佐賀市鬼丸町・佐賀県社会福祉会館前):佐賀城南堀沿いにあった枝吉家の屋敷跡。現在は社会福祉会館の駐車場で、その石碑の揮毫(きごう)も見事。
- 弘道館跡(佐賀県佐賀市松原2-5):裏手には松原川が流れ、寄宿舎時代に多くの仲間と共に過ごした生活が想像される。2022年5月14日にくすかぜ広場「ARKS」の愛称でリニューアルされている。
- 義祭同盟之碑・龍造寺八幡宮(佐賀県佐賀市白山1-3-2):義祭同盟の地。境内社の楠神社と関わり深い義祭同盟の結成150周年を記念し、当時の志士の労苦や偉大な功績をたたえ2000年(平成12年)に建立された。
- 佐賀県立美術館(佐賀県佐賀市城内1-15-23):「蒼海(そうかい)」の名で残した多くの書の作品が収蔵され、常設展示も数点。展示会なども企画される。
- 與賀神社(与賀神社)(佐賀県佐賀市与賀町2-50):副島の「神降百福」の直筆が社務所に、木額が本殿の拝殿正面に掲げられ、いつでも気軽に副島の書を拝める。
- 副島種臣墓所・高伝寺(佐賀県佐賀市本庄町):副島種臣の墓所がある、鍋島家の菩提寺。兄・枝吉神陽の遺徳碑と並んで副島の墓がある。墓石の文字は友人の書家・中林梧竹によるもの。
- 副島種臣墓所・青山霊園(東京都港区南青山2-32-2・1種イ21号1側)種臣の号である「蒼海伯副島種臣先生墓」と書かれた碑がある。種臣の家は、原宿にあったが、遺言により力士達が棺を担いで、多くの行列が続き、先頭が青山墓地に着いても後の方はまだ家を離れていなかったという。
- 大倉山公園(兵庫県神戸市中央区):かつて副島の別荘があった場所で、現在は公園として市民に親しまれています。
💬副島種臣の遺産:現代社会へのメッセージ
副島種臣の生涯は、私たちに「正義を貫く勇気と、教養の力」を教えてくれます。マリア・ルス号事件で見せた、大国の圧力に屈せず人道を優先する姿勢は、現代の国際社会においても普遍的な価値を持っています。
また、政治家でありながら、詩文や書画に通じ、中国の要人と心を通わせた彼の姿は、真の国際人とは、語学力だけでなく、自国の文化と相手国の文化を深く理解する教養人であることを示しています。
副島種臣の物語は、一人の人間が、その信念と知性によって、国の独立を守り、世界から尊敬を集めることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、困難な状況でも正しい道を選ぶ勇気と、生涯学び続けることの尊さを、力強く語りかけているのです。
(C)【歴史キング】