×

滋賀県の偉人:杉浦重剛 — 昭和天皇の師として「帝王学」を進講した国士

郷土博士

滋賀県

「人を待つに寛(かん)、身を持するに厳」

この言葉は、近江国膳所(ぜぜ)藩(現在の滋賀県大津市)に生まれ、日本の教育と精神のあり方に大きな影響を与えた思想家、杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)がその生涯の座右の銘としたものです。彼は、明治から大正にかけて、激動する社会の中で、西洋の科学と日本の伝統を融合させた「日本主義」を唱え、東京大学予備門(後の第一高等学校)の校長や東宮御学問所御用掛を歴任しました。特に、若き日の昭和天皇に倫理を進講し、その人格形成に多大な影響を与えたことで知られています。

幼少期の学びと英国留学:科学と伝統の融合

杉浦重剛は、1855年(安政2年)、膳所藩の儒者である父・杉浦重文の次男として生まれました。幼い頃から藩校「遵義堂(じゅんぎどう)」で漢学や洋学を学び、15歳で藩の貢進生として上京。大学南校(後の東京大学)に進学しました。彼の学問への情熱は、1876年(明治9年)に文部省派遣留学生としてイギリスへ渡ったことで、さらに燃え上がります。当初は農業を修めるつもりでしたが、英国の農業が日本の風土に合わないことに気づき、化学へと専攻を変更。マンチェスター・オーエンスカレッジで化学や物理、数学などを学びました。この留学中に、彼は「凡そ生物進化の根本は、蛋白質の複雑なるイソメリズムにある」という画期的な論文を科学雑誌『ネイチャー』に投稿。この論文は、ドイツの著名な生物学者・ヘッケルの著作にも引用されるほど高く評価され、杉浦が単なる儒学者ではない、科学者としての才能も持っていたことを示しています。

教育者としてのキャリアと「日本主義」

帰国後、杉浦は教育者の道に進み、27歳で東京大学予備門長に就任。文部省の学校行政を担いながら、私塾「称好塾(しょうこうじゅく)」を開き、自ら学生たちと起居を共にしながら教育に尽力しました。彼の教育観は、単に知識を詰め込むことではなく、人間形成そのものにありました。彼は、「人を待つに寛、身を持するに厳」という座右の銘を掲げ、自分自身を厳しく律することで、学生たちの模範となろうとしました。しかし、明治政府が推進する西洋化に盲目的に追随する風潮に危機感を覚えた杉浦は、官職を辞し、在野の言論人として活動を始めます。三宅雪嶺(みやけ せつれい)らと共に雑誌『日本人』や新聞『日本』を発刊し、日本古来の美風や精神を重んじる「日本主義」を主張しました。彼の日本主義は、単なる排外的な思想ではなく、和漢洋の学問を修めた彼だからこそ提唱できた、普遍的な倫理観に基づくものでした。

昭和天皇への「帝王学」進講

杉浦重剛の生涯の最大の功績は、若き日の昭和天皇(迪宮裕仁親王)に「帝王学」を進講したことです。1914年(大正3年)、13歳になられた皇太子殿下の教育を担う「御学問所」が開設されるにあたり、東郷平八郎元帥、浜尾新東宮大夫、小笠原長生幹事らが、御用掛(教師)の人選に苦慮していました。彼らが求めたのは、和漢洋の学問に通じ、科学的知識も豊富で、人格的にも高潔な、唯一無二の人物でした。そして、その人選は難航を極めましたが、彼らはついに杉浦重剛をその適任者として見出しました。当初、辞退を申し出た杉浦でしたが、友人たちの熱心な説得と、「この最難事を人に譲るのはいかん」という使命感から、御用掛を拝命。彼は、命をかけてこの大役に臨む決意を固め、家族に「杉浦は御学問所御終了まで死なぬ」と語っています。

杉浦は、将来天皇となられる親王の人徳や見識を育むことを目指し、以下の3つを基本方針としました。

  • 「三種の神器」に則り皇道を体現すること。
  • 「五条の御誓文」を将来の標準とすること。
  • 「教育勅語」の趣旨を貫徹すること。

彼は、古今東西の歴史や偉人伝、花鳥風月など、森羅万象を教材として、親王に「倫理」を進講しました。その講義は、親王の好奇心を刺激し、後のご成婚やご即位に際しての道徳的判断の礎を築きました。

杉浦重剛ゆかりの地:教育者の足跡を辿る旅

杉浦重剛の足跡は、彼の故郷である滋賀県大津市から、教育と政治の拠点となった東京へと繋がっています。

  • 杉浦重剛旧宅(滋賀県大津市杉浦町):膳所藩の儒者であった父の家であり、彼が生まれ育った場所です。
  • 杉浦重剛生誕地碑(滋賀県大津市):彼の生誕地を示す石碑が建っています。
  • 滋賀県立琵琶湖文化館(滋賀県大津市):杉浦重剛関係資料http://www.biwakobunkakan.jp/db/db_06/db_06_011.html
  • 日本学園中学校・高等学校(東京都世田谷区):杉浦が創立の中心となった東京英語学校の後身です。
  • 杉浦重剛銅像(東京都世田谷区松原):日本学園の敷地内に、杉浦の銅像が建っています。
  • 杉浦重剛墓所(東京都文京区小石川 伝通院):彼が眠る墓所です。

杉浦重剛の遺産:現代社会へのメッセージ

杉浦重剛の生涯は、私たちに「真の教育とは何か」を教えてくれます。彼は、単に知識を伝えるだけでなく、人格を形成し、倫理観を育むことこそが教育の目的であると考えました。彼の「日本主義」は、自国の文化と歴史に誇りを持ち、それを土台として西洋の学問や文化を吸収することの重要性を示しています。これは、グローバル化が進む現代に生きる私たちに、自らのアイデンティティを確立することの大切さを問いかけています。杉浦の物語は、一人の教育者が、その情熱と知性によって、時代の流れを動かし、国家を担う多くの人材を育てることができることを証明しています。彼の言葉と精神は、現代に生きる私たちに、学びと実践の大切さを力強く語りかけているのです。

PAGE TOP