「殖産興業の父」たち2️⃣│父と呼ばれた日本人
「養蚕の父」と「製糸業の父」
開国後の横浜では、外国商人たちが日本の生糸を買い求め輸出が急増します。当時、ヨーロッパで生糸の生産に必要な蚕の伝染病が流行し、また生糸産出国の中国は内乱により生産が激減したことから、日本の生糸が注目されたのです。ところが生産が追いつかず、質の悪い生糸が大量に出回り、日本の生糸の評判が下がるという事態が起こります。
そこで政府は、生糸の品質改善・生産向上と技術指導者の育成を目指し、最新式製糸器械を備えた官営模範工場をつくります。1872年(明治5)に操業を開始した日本初の器械製糸工場・富岡製糸場です。
大蔵省の官吏として建設に尽力した渋沢栄一は、「日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と述べています。彼の言う「民間人」の代表は、古くから生糸産地として名高い、上州(現群馬県)の出身者たちです。中居屋重兵衛、吉村屋幸兵衛(こうべえ)、茂木惣兵衛(そうべえ)など、横浜で成功した「生糸売込商」の多くが上州商人でした。彼らは地元で買い付けた生糸によって、甲州財閥に匹敵するほどの莫大な利益を手にしたといわれています。
🟣若尾逸平(1820~1913)│「甲州財閥の父」
ちなみに甲州財閥とは、明治から昭和にかけて横浜の生糸相場を動かした甲州(現山梨県)出身の生糸業者のグループで、「甲州財閥の父」と呼ばれた若尾逸平(1820~1913)を筆頭に、雨宮敬次郎、小野金六、根津嘉一郎(かいちろう)などを輩出しています。
生糸の生産には原料である繭が欠かせません。繭の生産にとって最大の難題は蚕病(さんびょう)です。当時、「蚕は火が嫌い」といわれ、これにヒントを得て火をたいて蚕の病を克服する「いぶし飼い」という画期的な飼育法が生まれました。これを考案したのが永井紺周郎(こんしゅうろう・1836~1887)です。
🟣永井紺周郎(1836~1887)│「養蚕の父」
永井は全国各地で飼育法を広め、永井没後は妻いとが指導に当たります。永井夫妻から飼育法を伝授された人は数千人に達するといわれ、群馬県内には、夫妻の指導を受けた村人たちが感謝を込めて建てた「謝恩碑」が残っています。養蚕従事者たちを蚕病に対する不安や不作の苦しみから救った永井は「養蚕の父」と称されています。
🟣木村九蔵(1845~1898)│「養蚕発展の父」
上州ではその後も、高山長五郎による「清温育」や田島弥平による「清涼育」などの養蚕法が考案されます。特筆すべきは、高山長五郎の実弟木村九蔵(1845~1898)が1872年(明治5)に公開した「一派温暖育」です。これは、蚕室を暖め蚕の飼育日数を短縮して良質の繭を得る活気的な飼育法でした。また、病気に強い新蚕種「白玉新撰」を生み出すなど、生涯をかけて養蚕に取り組んだ木村は「養蚕発展の父」と称されています。
近代化のエネルギーが製糸業(生糸)に向けられたこの時期、日本の繊維業(生糸・織物・紡績)の生産額は全製造業上位100社の合計資産額の約7割に達し(1896年)、一国の一産業の占有率としては、日本史上、また世界史上でも類を見ないといわれます。
それはまた、全国至るところに繊維業の従事者がいたことを物語っています。たとえば、「奥州生糸」と呼ばれた東北産の生糸は品質の高さが認められ、横浜開港直後(1861~1863)は、横浜に出荷される生糸の約四割を占めました。この奥州生糸の産地で製糸業における「父」の称号を得たのが、山田脩(おさむ・1841~1921)と高橋長十郎(1849~1933)です。
🟣山田脩(1841~1921)│「製糸業の父」
岩崎弥太郎から「君の故郷には蚕糸という天賦の業があり、その事業こそ君の為すべき天命だ」と言われた山田は、陸奥国安達郡二本松(現福島県二本松市)出身、個人経営としてはわが国最初の民間機械製糸工場「双松館」を操業し、近代的製糸工場によって地域産業の発展に尽くしました。1918年(大正7)の大火で1000円もの援助金を投じて町民から「八幡様か山田様」と尊敬され、「製糸業の父」といわれました。
🟣高橋長十郎(1849~1933)│「製糸業発展の父」
一方、陸奥国本吉郡志津川村(現宮城県本吉郡南三陸町)出身の高橋は、アメリカ製ボイラーの輸入を計画し、わが国最初の機械座繰り製糸工場「旭製糸」を創立しました。最新式の機械を備え、従業員450人を抱えたこの工場で生産された生糸銘柄「金華山」は、1889年(明治22)のパリ万国博覧会でグランプリを受賞するなど、世界最高品質を誇りました。近代的製糸工場を舞台に大量の製糸従事者の雇用を生み出した高橋は、「製糸業発展の父」と称されています。
日本近代紡績業の父――山辺丈夫
製糸業が明治日本の主要輸出産業になりえたのは、原料である蚕、繭、生産器械をすべて国産で賄えたためです。「男軍人、女は工女、糸を引くのも国のため」と唄われたように、政府は内務卿・大久保利通の下で殖産興業政策を推し進め、これによって富国強兵を堅持したのです。
繭を生糸に加工する製糸に対し、紡績は、綿花や羊の毛などの短い原料をつなぎ合わせて撚(よ)りをかけ、綿糸や毛糸をつくります。江戸時代には畿内や東海地域の基幹産業として綿花栽培と手織りの紡績が発展しますが、開国後はイギリスからの輸入品によって日本の紡績業は圧迫されます。そこで、大きな役割を果たしたのが渋沢栄一です。すでに大蔵省を辞し、第一国立銀行を設立して財界の重鎮となっていた渋沢は、民間資本によって国際競争力のある紡績会社を創設するのです。
結論から先にいうと、日清戦争(1894~1895)後、綿糸の生産量は急増し、1897年(明治30)には輸出量が輸入量を上回ります。その先駆けとなったのが、1883年(明治16)の大阪紡績(現東洋紡績)の開業でした。
ピーター・ドラッカーは日本における明治維新の変革に着目し、「大阪に紡績工場をつくったときにも、そこには、近代的な蒸気機関を稼動させたり、商品を売ったり、デザインしたりすることのできる人びとが必要でした。そういう人材はどこからやって来たのでしょうか。……大阪の紡績工場は、大成功をおさめました。これは、ひとつの奇跡であり、私の知る限り誰にも説明のつかない明治のできごとのひとつです」と述べています(『NHKスペシャル 明治1―変革を導いた人間力』NHK出版)。
なぜ渋沢は、大阪紡績を成功に導くことできたのでしょう。ドラッカーがいうように、どうやって経営者を探し当てたのでしょうか。
実は、ロンドン大学で経済学を学んでいた28歳の青年に紡績技術の習得を依頼し、驚いたことに、面識のないその青年に研究費1500円を送金したのです。当時の1500円といえば、銀行頭取や東京商法会議所会頭に就く渋沢でも、「清水の舞台から飛び降りたように思われた」と語るほどの大金でした。
大阪紡績の経営者を探す渋沢に、この青年を紹介したのは第一国立銀行の行員津田束(つかね)でした。青年の名は、山辺丈夫(やまのべたけお・1851~1920)。津田と同じ津和野藩出身です。

🟣山辺丈夫(1851~1920)│「日本近代紡績業の父」
渋沢から依頼を受けた山辺は、ロンドン大学を辞め、紡績工場で一職工として働きながら、紡績技術から製品の販売方法に至るまで習得して帰国します。そして、イギリス製の最新紡績機械を輸入し、蒸気機関を採用した動力、電灯を利用した昼夜二交代制のフル操業などで成果を上げ、大規模経営による日本初の紡績会社を成功させるのです。
山辺と、彼を見出した渋沢によって、大阪紡績は近代工場に飛躍し、これに続く紡績工場が全国各地に建設されます。こうして日本製の綿糸は主要輸出品目へと成長し、世界市場に進出していくのです。山辺が「日本近代紡績業の父」と呼ばれるゆえんです。
そして、渋沢が「近代日本資本主義の父」と呼ばれた最大の理由は、山辺を発掘し育てたように、意欲ある有能な人材の後ろ盾になって500を超える会社の創設にかかわったことにあるのです。
毛織物の父――井上省三と片岡春吉
明治政府は、外国産の羊毛製品の輸入を阻止する一方で、洋服の需要を増加させるため日本初の毛織物工場を設立します。1879年(明治12)に開業した千住製絨所(東京都荒川区)です。初代所長の井上省三(せいぞう・1845~1886)は、技術の導入や工場の運営を一手にこなし、それまで輸入に頼っていた洋服など羊毛製品の国産化を実現しました。
🟣井上省三(1845~1886)│「日本毛織物工業の父」
長州藩出身の井上は、山口兵学校で蘭学を学び、木戸孝允に従って上京しドイツ語を習得します。その後、ドイツ・ザガンの毛織物工場で職工として働きながら技術を習得し、四年後に帰国して内務省に出仕します。官営千住製絨所の建設が決まると再び渡独、後の日本の繊維工業の発展に先鞭をつけた井上は「日本毛織物工業の父」と称されています。
千住製絨所は操業後、技術を一般公開します。これを契機に、日本最初の民間毛織物会社・東京モスリン紡織(現大東紡織)、日本毛織などが設立されました。

🟣片岡春吉(1872~1923)│「毛織物の父」
東京モリスン紡織で技術を習得した片岡春吉(1872~1923)は、1898年(明治31)、愛知県津島に片岡毛織工場を設立します。しかし、モスリン製造に失敗し、セル(梳毛糸・そうもうし)を使った和服用の織物)製織の研究を始めます。片岡のセル製織は品評会で高い評価を得るようになり、1903年(明治36)の内国勧業博覧会で脚光を浴びました。
その後、セル製織は日露戦争の軍用服地となり生産量を増やします。片岡のセル製織も工場機械の近代化によって大量生産を図り、輸出されるようになりました。片岡は製造技術を公開し、地域の人々を指導・援助して愛知県の毛織物生産高を日本一へと導いたことから、郷土の人々から「毛織物の父」と呼ばれました。
近代足利織物の父――近藤徳太郎
古くから織物の町・染物の町として知られ、『徒然草』でも取り上げられる足利(栃木県)。その特産物である足利織物の近代化、技術向上に努めた近藤徳太郎(1856~1920) は、明治時代の織物技術の第一人者です。
🟣近藤徳太郎(1856~1920) │「近代足利織物の父」
京都生まれの近藤は、内務省勧農局東京試験場で養蚕、製糸、撚糸を研究した後、1877年(明治10)、フランスのリヨン織物学校に留学します。留学生のなかには、後にカーキ色の発明で名を馳せた稲畑勝太郎もいました。
絹織物の近代的技術を習得して帰国した近藤は、京都府技師、京都織物会社、川嶋織場(現川島織物セルコン)などを経て、1895年(明治28)、栃木県立工業学校(現栃木県立足利工業高校)の初代校長に招かれます。
当時、足利織物は、輸出用の生産が盛んに行われていましたが、旧来の方法では品質改良に限界があり、新技術の開発が急務でした。足利織物業者たちは、新技術を習得するため足利織物講習所を創設し、これを前身とする同校で、当時の日本で「織り・染め・撚り・意匠」に関する最先端技術を擁する近藤の指導を仰いだのです。
以後22年をかけて足利織物の技術は著しく向上し、足利織物と共に近藤の名は全国に知れ渡ります。足利地域の産業界に与えた影響の大きさや、いまなお脈々と受け継がれる工業学校での人材育成への尽力によって、近藤は「近代足利織物の父」と称されています。
製茶の父――多田元吉、杉山彦三郎、高林謙三
開国後の日本の主要輸出品としては、生糸の次に茶を挙げることができます。現在、日本で生産量の約半分を占める静岡県の茶は、古くは鎌倉時代の高僧・聖一国師(しょう いちこくし)が宋(中国)から持ち帰った茶の実を植えたのが始まりといわれます。そして今日の茶王国静岡の基礎は、旧幕臣たちによって築かれました。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、大政奉還後、戊辰戦争で恭順し、駿府(現静岡県静岡市)で謹慎します。この時、慶喜を警護する目的で同行した精鋭隊(後に新番隊と改名)らが1869年(明治2)の版籍奉還によってその職を失い、刀を捨て、茶園開拓に携わったのが第一歩とされています。
🟣多田元吉(1829~1896)│「近代茶業の父」
多くの幕臣が慶喜に従いますが、そのなかに、上総国富津村(現千葉県富津市)出身の多田元吉(1829~1896)がいました。多田は40歳の時、丸子(まりこ・静岡市駿河区丸子)で茶栽培に取り組み、茶畑を開拓した実績が明治政府に評価され、内務省勧業寮に出仕すると、1875年(明治8)、茶業観察のため中国とインドに派遣されます。彼は、初めてセイロンやヒマラヤ山脈のダージリン、アッサムなどの地に足を踏み入れた日本人です。
紅茶の種子や製茶機械の設計図などを手に入れた多田は、帰国後、紅茶の原木を栽培し、日本で初めて紅茶製造を開始します。そして、国産紅茶を普及させるため、種子を持って全国各地を回り、近代的な紅茶栽培の指導に当たります。この製法を応用して緑茶栽培は大量生産が可能となり、日本製の茶は世界各地へ輸出され、明治の主要産業へと成長していきます。
また、多田がインドから持ち帰り改良を重ねた製茶機械は完成度が高く、現在も当時のものが使用されています。多田が、「近代茶業の父」と称されるゆえんです。
その後活躍した製茶指導者の多くは、多田の門下生たちです。そのなかに、日本の茶の香りを決めた男がいました。
現在、日本人が親しんでいる茶のほとんどは「やぶきた」品種で、日本で植栽される茶品種の約8割を占めています。この品種を発見したのは、駿河国安倍郡有度村(現静岡県静岡市駿河区)出身の農民杉山彦三郎(1857~1941)です。

🟣杉山彦三郎(1857~1941)│「やぶきたの父」
杉山が茶生産を始めた頃の静岡は、茶業の勃興期を迎えていました。当時はまだ品種という概念がありませんでしたが、杉山は茶の樹にも早中晩生の差異と優劣の種があることを発見します。よい茶の樹を求めて沖縄や朝鮮半島まで足を延ばし、品種改良に没頭する杉山は、異端児扱いされたそうです。
そんな杉山に救世主が現れるのは、50歳を過ぎた1909年(明治42)のことでした。茶業組合中央会会頭の大谷嘉兵衛が静岡を訪れ、私財を投じて試験地2.7ヘクタールを購入し杉山に提供したのです。
大谷は伊勢国飯高郡(現三重県松阪市)出身の製茶貿易家で、輸出振興策の波に乗って巨利を得て、「製茶王」「茶聖」と称された人物です。ところが、喜んだのも束の間、大谷が没すると、提供された試験地は県に接収され、杉山は再び孤立します。それでも彼は諦めず、私財を投じて試験地を手に入れ、百余に上る品種を育成します。
杉山が1908年(明治41)に選抜した二本の茶の樹は、茶畑の北側の樹が「やぶきた」、南側が「やぶみなみ」と命名されます。このうち「やぶきた」が農林省の登録品種に選定されたのは、杉山の死後、1953年(昭和28)のことです。
現在、杉山の試験地のあった静岡県立美術館近くにつくられた記念茶畑のなかに、「やぶきた原樹」が植えられています。私たちが口にする日本茶のほとんどは、この原樹の子どもたちです。記念茶畑には、杉山が日本各地から集めた茶の原木13種類も植栽されています。杉山が「やぶきたの父」と称されるゆえんです。
もう一人、多田から直接指導を受けた製茶機械発明家がいます。明治初期、伝統的な手もみ製法で年々増えていく需要に追いつけず粗悪な茶が出回り始めたことに危機感を募らせ、大量生産のための機械化に私財を投じた高林謙三(1832~1901)です。
🟣高林謙三(1832~1901)│「製茶機械の父」
高林は武蔵国高麗(こま)郡平沢村(現埼玉県日高市)出身、狭山茶の主要産地である川越で開業医のかたわら茶を栽培していましたが、製茶機械の開発に専念します。1884年(明治17)、回転円筒式焙茶機械、生茶葉蒸機械、製茶摩擦機械の製作に成功し、翌年「専売特許条例」が施行されると、民間の発明家としては日本で初めて特許を取得しました。この時、農商務省で特許の鑑定を行ったのが多田でした。
これらの機械は不評でしたが、1892年(明治25)に粗揉機(そじゅうき)を、1897年(明治30)には茶葉揉乾燥機を完成させました。この「高林式茶葉粗揉機」は、日本の産業に貢献した最初の発明といわれ、製茶業の形態を一新します。その原理や構造は、現在も全国の製茶機械に使われており、高林は「製茶機械の父」と称されています。
📍「殖産興業の父」2️⃣│12人の墓所
若尾逸平墓所(長禅寺・山梨県甲府市愛宕町)
永井紺周郎墓所(群馬県利根郡片品村針山)
木村九蔵墓所(埼玉県児玉郡神川町新宿)
山田脩墓所(大隣寺・福島県二本松市成田町)
高橋長十郎墓所(不明)
山辺丈夫墓所(大阪市営南霊園阿倍野墓地・大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋)
井上省三墓所(海蔵寺・静岡県熱海市水口町)
片岡春吉墓所(津島市営元寺霊苑・津島市元寺町)
近藤徳太郎墓所(長林寺・栃木県足利市西宮町)
多田元吉墓所(長源寺・静岡県静岡市駿河区丸子)
杉山彦三郎墓所(桃原寺・静岡県静岡市駿河区国吉田)
高林謙三墓所(喜多院斎霊殿・埼玉県川越市小仙波町)