宮城県・東京都の偉人:高橋是清 — 奴隷から総理大臣へ、ケインズを先取りした「ダルマ宰相」の奇跡
プロフィール
高橋 是清(たかはし これきよ)│ 幼名:和喜次
1854(嘉永7年/安政元年閏)年9月19日生│1936(昭和11)年2月26日(81歳)
「内閣総理大臣」「ダルマ宰相」「日本の特許の父」「二・二六事件」
- 出身地:江戸 芝中門前町(現在の東京都港区)/ 仙台藩(現在の宮城県)ゆかり
- 職業・肩書き:第20代内閣総理大臣、大蔵大臣(計7回)、日本銀行総裁(第7代)、立憲政友会総裁(第4代)、特許局長
- 異名:ダルマ宰相、日本のケインズ、日本の特許の父
- 代表的な功績:
- 日本の特許制度の創設(専売特許条例の起草)
- 日露戦争における外債募集(戦費調達)の奇跡的成功
- 昭和金融恐慌におけるモラトリアムと200円札による沈静化
- ケインズに先駆けた昭和恐慌からの経済回復(高橋財政:積極財政・円安政策)
- 最期:二・二六事件にて青年将校らにより暗殺される
「人事を尽して天命を待つ。自分は人力のあらん限りを尽した。この上は天の指図を待つのみである。こうなると成敗利鈍は人間の眼中にはなくなる」
幕末の激動期に生まれ、アメリカで奴隷として売られるという絶望的な境遇から這い上がり、幾度もの挫折を乗り越えて日本の頂点にまで上り詰めた人物がいます。それが、第20代内閣総理大臣であり、計7回もの大蔵大臣を務めた高橋是清(たかはし これきよ)です。
ふくよかな体つきと愛嬌のある丸顔から「ダルマ宰相」と呼ばれて国民に広く親しまれ、日露戦争では日本の命運を賭けた戦費調達を奇跡的に成功に導きました。さらに昭和恐慌の際には、イギリスの経済学者ケインズよりも早く積極財政政策を打ち出し、「日本のケインズ」と世界中から称讃されました。また、日本の特許制度をゼロから築き上げた「特許の父」でもあります。
持ち前の圧倒的な楽天主義と深い人間愛、そして「頼まれたら断らない」という義理堅さで激動の時代を駆け抜け、最後は凶弾に倒れた悲劇の政治家。その波乱万丈でスケールの大きな81年の生涯に迫ります。
幕府御用絵師の庶子から、アメリカでの「奴隷」生活へ
1854年(嘉永7年/安政元年)、高橋是清は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)で、幕府の御用絵師・川村庄右衛門と、奉公人であった「きん」の間に私生児として生まれました。幼名は和喜次(わきじ)。生後すぐに仙台藩の江戸詰足軽・高橋覚治の家に里子に出され、のちに正式な養子となります。このため、是清は仙台藩(現在の宮城県)ゆかりの人物として歴史に名を刻むことになります。
高橋家では、養祖母の喜代子から武士としての厳しい教育と深い愛情を受けて育ちました。是清が13歳で藩命によりアメリカへ留学する際、喜代子は「堪忍の二字を忘れるな」と諭し、万が一、義のためや恥をかいた時のためにと家宝の短刀を授け、切腹の作法まで教えました。
1867年(慶応3年)、勝海舟の息子らとともに意気揚々と渡米した是清でしたが、現地で世話役のアメリカ人商人ユージン・ヴァン・リードに騙され、なんと年季奉公(奴隷労働)の契約書にサインさせられてしまいます。カリフォルニアの農場で牧童や葡萄園の労働者として酷使されますが、生来の楽天家であった是清は「これはきつい勉強だ」と思い込み、労働の傍らで生きた英語を貪欲に吸収していきました。 ある時、同じ使用人の中国人と仕事の分担をめぐって喧嘩になり、是清は祖母から貰った短刀を、相手は斧を持ち出して殺し合い寸前になるなど、壮絶な日々を過ごします。その後、周囲の尽力もあってようやく契約破棄にこぎつけ、1868年(明治元年)に辛くも帰国を果たしました。
芸者の箱屋から官僚へ、そして「特許の父」に
帰国した日本はすでに明治維新を迎えており、仙台藩は朝敵となっていました。身の危険を感じながらも、是清は持ち前の英語力を武器に生き抜きます。森有礼の書生、大学南校(東京大学の前身)の教官手伝いなどを経て、一時期は放蕩にふけり、芸者の三味線持ち(箱屋)までやって糊口をしのぐどん底も味わいました。 その後、唐津藩の英語学校(耐恒寮)の教師として赴任し、アメリカの捕鯨船の船長に頼み込んでビールを振る舞ってもらい、生徒たちと外国人船員との異文化交流を図るなど、型破りな教育を行います。
やがて文部省や農商務省に出仕し、官僚としての頭角を現します。ここで是清は、日本の近代化に不可欠な制度の構築を命じられます。それが「特許制度」でした。 1884年(明治17年)、商標登録所の初代所長に就任し、翌年には「専売特許条例」を起草して専売特許所(現在の特許庁)の初代所長となりました。制度を学ぶために欧米を視察し、アメリカ特許庁で審査の仕組みや事務手続きを徹底的に学び、日本の知的財産保護の基礎をたった一人で築き上げました。この功績から、是清は現在でも「日本の特許の父」と呼ばれています。
無一文への転落と、日露戦争を救った「運命の晩餐会」
順風満帆に見えた官僚生活ですが、1889年(明治22年)、先輩の勧めでペルーの銀山開発事業の責任者として南米へ渡ります。しかし、それは巧妙な詐欺であり、鉱山はすでに掘り尽くされた廃坑でした。 ここで是清の真価が発揮されます。見事に騙されたことに気づいた彼はパニックにならず、これ以上の被害拡大を防ぐために相手のドイツ人資産家オスカル・ヘーレンと巧みに交渉し、見事な「損切り」を行って帰国したのです。全財産を失い無一文にはなりましたが、この危機管理能力の報告を聞いた当時の日本銀行総裁・川田小一郎は是清を高く評価します。「玄関番でもやります」と笑って答えた是清は、建設中だった日本銀行本店の建築事務主任として採用されました。ここで猛勉強をして金融の実務を吸収し、またたく間に日銀副総裁にまで昇り詰めます。
1904年(明治37年)、日露戦争が勃発。大国ロシアとの戦争には莫大な戦費が必要でしたが、是清は特命を帯びてイギリスへ渡り、外債(国債)の募集に奔走します。当初は「小国日本が勝つわけがない」と全く相手にされませんでしたが、イギリス人銀行家アーサー・ヒルの邸宅で開かれた晩餐会で、たまたま隣の席に座ったのが、アメリカの巨大ユダヤ系投資銀行のトップ、ジェイコブ・シフでした。是清が流暢な英語で日本の窮状と必勝の覚悟を誠実に語ると、シフは激しく心を動かされ、翌日には巨額の引き受けを申し出たのです。この劇的な「天祐(てんゆう)」により資金調達は成功し、日本は勝利へと導かれました。
ダルマ宰相と「高橋財政」、そして二・二六事件
その後、日銀総裁を経て政界へ進出。1921年(大正10年)には暗殺された原敬の跡を継いで第20代内閣総理大臣に就任します。
彼の真骨頂は、大蔵大臣としての手腕でした。 1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌では、全国の銀行が取り付け騒ぎに見舞われる中、モラトリアム(支払猶予)を断行。さらに、裏面が白い片面印刷の「急造200円札(乙二百円券)」を大量に刷って銀行の窓口に山のように積み上げ、預金者を視覚的に安心させるという前代未聞の心理的作戦で、見事に恐慌を鎮静化させました。
さらに1931年(昭和6年)からの世界恐慌下では、金輸出の再禁止(金本位制からの離脱)、低金利・円安政策の推進、そして「日本銀行による国債の直接引き受け」という赤字国債を発行した積極財政を打ち出します。これは、本家であるイギリスの経済学者ケインズが『一般理論』を発表するよりも「4年も早く」、有効需要の創出という現代マクロ経済学の極意を経験的に実行したものでした。この「高橋財政」により、日本は世界で最も早く恐慌からの脱出に成功したのです。
しかし、景気が回復したのち、是清は悪性インフレを防ぐために財政の引き締めを図り、肥大化する軍事予算の削減を断行しようとします。「国防のみに偏り国家財政を破綻させれば、真の国防は成り立たない」という正論でしたが、これが軍部の強い恨みを買うことになります。 1936年(昭和11年)2月26日、雪の降る未明。赤坂の私邸の二階寝室に押し入った反乱軍の青年将校らによって、胸に3発の銃弾を受け、凶刃に倒れました(二・二六事件)。享年81(満年齢)。波乱に満ちた生涯は、国の財政を命がけで守ろうとしたがゆえの壮絶な最期でした。
【知られざるエピソード:五十円紙幣の肖像】
高橋是清は、日本の復興期を支えた日本銀行券(紙幣)の肖像画に選ばれています。1951年(昭和26年)に発行が開始された「B五拾円券」の表面には、立派なひげを蓄えた是清の顔が描かれています。実はこの肖像画は、是清の孫が所有していた写真を元に作成されたもので、元の写真では燕尾服を着ていましたが、国民に親しみやすいようにと、デザイナーの手によって一般的な背広姿に描き直されて採用されたという逸話が残っています。
高橋是清を深く知る「この一冊!」
近代日本史の第一級の傑作

高橋是清自伝(上) (中公文庫 た 5-3) / 高橋 是清 (著), 上塚 司 (編集)
文庫 – 2018/3/23

高橋是清自伝(下) (中公文庫 た 5-4) / 高橋 是清 (著), 上塚 司 (編集)

「事実は小説よりも奇なり」を地で行く高橋是清本人の口述による自伝。アメリカでの奴隷体験から、芸者屋での生活、ペルーでの無一文への転落、そして日露戦争でのアーサー・ヒル邸での運命の晩餐会の裏側まで、明治人の破天荒な生き様と、どんな逆境でも明るく前を向く強靭な精神力が生々しく語られる、近代日本史の第一級の傑作です。
📍【完全網羅版】高橋是清の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
奴隷から総理大臣まで上り詰めた高橋是清の足跡は、生誕の地である東京都を中心に、彼が設立に関わった各機関に今も静かに保存されています。
【東京都・神奈川県】 誕生の地と、国家の中枢を担った軌跡
- 高橋是清翁記念公園(東京都港区赤坂7-3-39):
- 翁の本邸があった場所であり、二・二六事件で暗殺されたまさにその現場です。死後の1938年に邸宅跡地が東京市に寄贈され、1941年に公園として開園しました。日本庭園の趣を残し、園内には高橋是清翁の銅像が静かに佇んでいます。
- 江戸東京たてもの園 高橋是清邸(東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内):
- 赤坂にあった本邸の母屋部分が移築・復元されています。二・二六事件の現場となった2階の寝室や書斎なども見学でき、歴史の重みと当時の和風建築の粋を感じることができます。(※スタジオジブリのアニメーション映画『千と千尋の神隠し』の作画の参考になったことでも知られています。)
- 特許庁(高橋是清胸像)(東京都千代田区霞が関3-4-3):
- 【超重要史跡】 専売特許所(現在の特許庁)の初代所長を務め、日本の知的財産制度をゼロから創り上げた「特許の父」としての功績を称え、特許庁舎の1階ロビーには高橋是清の胸像が設置されています。
- 日本銀行本店本館(東京都中央区日本橋本石町2-1-1):
- ペルー事業で無一文になって帰国した是清が、川田総裁に拾われて「建築事務主任」として工事を監督した国指定重要文化財の建物です。設計は唐津時代の教え子である辰野金吾。この建物から彼の金融家としてのキャリアが始まり、のちに総裁としてこの場所のトップに立ちました。
- 日本銀行金融研究所貨幣博物館(東京都中央区日本橋本石町1-3-1):
- 金融恐慌の際に是清が発行を指示した「裏面が白い片面印刷の急造200円札(乙二百円券)」や、彼が肖像となった「B五拾円券」など、高橋財政に関連する数々の歴史的資料が展示・収蔵されています。
- 旧横浜正金銀行本店本館(現・神奈川県立歴史博物館)(神奈川県横浜市中区南仲通5-60):
- ペルーの銀山事件の後に日銀に入行した是清は、後に国際金融を担う国策銀行「横浜正金銀行」の支配人、副頭取、頭取を歴任しました。日露戦争時の外債募集において、この銀行のネットワークと信用が極めて重要な役割を果たしました。現在は神奈川県立歴史博物館として、当時の荘厳な姿を残しています(国指定重要文化財・史跡)。
- 多磨霊園 高橋是清 墓所(東京都府中市多磨町4-628 / 9区1種1側8番):
- 日本の財政を命がけで守り抜いた高橋是清が静かに眠る墓所です。かつて赤坂の母屋は、東京大空襲の戦火を逃れるために一時的にこの霊園内に移築され「仁翁閣(じんおうかく)」と呼ばれていました(後に現在の小金井市へ再移築)。
- ヘボン博士邸跡(神奈川県横浜市中区山下町39 横浜地方合同庁舎敷地内):
- 是清が11歳の時に英語を学んだ「ヘボン塾」(宣教師J.C.ヘボンが開設)の跡地記念碑です。ここでの学びが、のちに世界を舞台に活躍する彼の語学力と交渉力の原点となりました。(※ヘボン塾はのちに現在の明治学院大学へと発展しました。)
- 明治学院大学 白金キャンパス(東京都港区白金台):
- 上記「ヘボン塾」の後身です。
- 開成学園(旧・共立学校)(東京都荒川区西日暮里):
- アメリカから帰国後、廃校寸前だった進学予備校「共立学校」の初代校長を務め、正岡子規や秋山真之らを教え導きました。
【佐賀県・岩手県】 教師としての足跡と、政治家としての原点
- 耐恒寮跡の碑(大名小路児童公園内)(佐賀県唐津市大名小路1-54付近):
- 明治4年、18歳の時に英語教師として赴任。辰野金吾や曽禰達蔵らに英語を教え、捕鯨船の船長を招いてビールを用いた異文化交流を行った地です。かつての旧唐津東高校の敷地でもありましたが、現在は学校が移転したため、大名小路の児童公園(早稲田佐賀中高の隣接エリア)内に「耐恒寮跡」の記念碑が静かに建てられています。
- 原敬記念館(衆議院議員選出の地)(岩手県盛岡市本宮):
- 1924年(大正13年)、是清は立憲政友会総裁として、暗殺された盟友・原敬の旧選挙区(岩手1区・盛岡)から衆議院議員選挙に出馬し、見事当選を果たしました。盛岡は政治家・高橋是清が国民の負託を受けた重要なゆかりの地です。
💬高橋是清の遺産:現代社会へのメッセージ
「順境はいつまでも続くものではなく、逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る」
高橋是清の生涯を振り返るとき、最も驚かされるのはその「圧倒的なまでの楽天主義」と「人間への信頼」です。 騙されて奴隷にされても「厳しい勉強だ」と受け入れ、投資詐欺に遭って無一文になっても「玄関番からやります」と笑って日銀に入行する。彼の強さは、エリートコースを歩んだからではなく、人生のどん底を何度も味わい、泥水をすすりながらも決して腐らなかった点にあります。
経済政策においても、机上の空論ではなく「生きた経済」を見つめていました。緊縮財政下でお金を使わないことが美徳とされた時代に、「個人が節約しても社会は潤わない。お金が天下を回り、二十倍にも三十倍にもなって働くことで国は豊かになる」と、現代のマクロ経済学の本質を直感的に見抜き、実行に移しました。
先の見えない不安な時代にあって、私たちはつい縮こまり、責任を他人に押し付けがちです。しかし、ダルマ宰相は、何度転んでも笑顔で起き上がり、頼まれた仕事には全身全霊で応え、最期は自らの命を懸けて国の財政(信用)を守り抜きました。「人事を尽くして天命を待つ」。その明るくも覚悟に満ちた生き様は、困難な時代を生きる現代の私たちに、何度でも立ち上がる勇気と希望を与えてくれます。
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