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兵庫県の偉人:高田屋嘉兵衛 — 北前船で巨富を築き、日露の国難を救った「海の巨人」

郷土博士

兵庫県

「江戸時代を通じて、一番偉かった人物は高田屋嘉兵衛だろう。世界の舞台の中で、今生きていても活躍できる」

これは、歴史小説家・司馬遼太郎が、一介の船乗りから身を起こし、日露の国際紛争を解決に導いた高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)を評したものです。淡路島(現在の兵庫県洲本市)の百姓の家に生まれた彼は、北前船交易で巨万の富を築き、箱館(函館)の発展に貢献。そして、運命のいたずらからロシアに拿捕(だほ)され、ゴローニン幽囚事件という国難の解決に奔走しました。その卓越した交渉手腕と人間的な魅力は、絶望的な状況を平和的な和解へと導き、彼の名を歴史に刻みました。

幼少期の夢と海への道:淡路から兵庫津へ

高田屋嘉兵衛は、1769年(明和6年)に淡路島津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)の百姓の家に、6人兄弟の長男として生まれました。幼名は菊弥。幼い頃から海に親しみ、近くの川に浮かべた玩具の船を使って潮の満ち引きを調べるなど、船乗りとしての才能の片鱗を見せていました。22歳になった1790年(寛政2年)、嘉兵衛は郷里を離れ、叔父を頼って兵庫津(現在の神戸市)へ出ます。ここで、彼は大坂と江戸の間を航海する樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となり、船乗りとしてのキャリアをスタートさせました。持ち前の度胸と才能はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕(おもてし)、沖船頭(雇われ船頭)へと昇格していきました。

北前船交易と「辰悦丸」

寛政7年(1795年)、27歳になった嘉兵衛は、和泉屋伊兵衛のもとで北前船の船頭として働き始め、兵庫から出羽の酒田まで廻船するようになります。彼は、酒田で当時国内最大級の千五百石積み(約230トン)の廻船「辰悦丸(しんえつまる)」を手に入れたといわれています。この船の入手方法は、当時の嘉兵衛の財力からすると謎とされていますが、彼が「一流の品で勝負しよう」という強い気概を持っていたことは間違いありません。辰悦丸を手に入れた嘉兵衛は、弟たちと力を合わせ、廻漕業「高田屋」を立ち上げます。当時、未開発であった蝦夷地(現在の北海道)に目をつけた彼は、箱館(函館)を商売の拠点としました。嘉兵衛は、兵庫で酒や塩、木綿を仕入れて蝦夷地で売り、蝦夷地では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を始め、巨額の富を築いていきました。

北方開拓と「高田屋外交」:国難に立ち向かった商人の魂

嘉兵衛の活躍は、国防の観点から北方を重視していた幕府の目にも留まりました。

択捉島の開拓と箱館の発展

1799年(寛政11年)、嘉兵衛は択捉島開拓の任に就いていた幕臣・近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)に協力を求められ、国後島と択捉島間の航路を開拓しました。翌年には、択捉島に17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えるなど、北方の開拓者としても大きな功績を残します。享和元年(1801年)、33歳になった嘉兵衛は、これらの功績が認められ、幕府から「蝦夷地定雇船頭」を命じられ、苗字帯刀を許されるという異例の栄誉に浴しました。高田屋は、箱館を拠点に、井戸掘り、道路改修、植林、造船所建設など、私財を投じて公共事業を積極的に行い、寂しい漁村に過ぎなかった箱館を、松前を凌ぐ蝦夷地第一の商港へと発展させました。

ゴローニン事件の解決

しかし、嘉兵衛に国難が降りかかります。 文化8年(1811年)、千島列島を測量していたロシア軍艦「ディアナ号」の艦長ヴァーシリー・ゴローニンが、国後島で幕府に捕らえられました。翌年、ゴローニン救出のため、ディアナ号副艦長ピョートル・リコルドが国後島に来航。そこでリコルドは、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を拿捕し、嘉兵衛をカムチャツカに連行しました。拿捕という異常事態にもかかわらず、嘉兵衛は冷静さを失いませんでした。彼は、カムチャツカの宿舎でリコルドと同居する中で、ロシア語を学び、リコルドに事件の真相を説きました。嘉兵衛は、日本がゴローニンを捕らえたのは、フヴォストフ(フヴォストフ事件)の蛮行への報復であり、ロシア政府がその事件は本国の命令ではないと証明すれば、ゴローニンは釈放されるはずだと説得しました。リコルドは嘉兵衛の説に従い、ロシア政府高官名義の謝罪文を携えて、嘉兵衛と共に日本へ戻ります。嘉兵衛は、日露間の交渉の間に立ち、事件解決に尽力。1813年(文化10年)、ゴローニンは無事に釈放され、ゴローニン事件は、戦争という最悪の事態を避けて、円満に解決しました。この功績から、嘉兵衛は幕府から賞賜を受けるとともに、リコルドからは「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶに相応しい人物がいる」と称えられ、その名は海外にまで知れ渡りました。

晩年と高田屋の没落

ゴローニン事件の心労からか、健康を害した嘉兵衛は、1818年(文政元年)、故郷の淡路島に帰郷し隠居します。その後も、港の改修や道路の修築など、故郷の公共事業に私財を投じ、その功績から、藩主から武士の身分を授与されました。1827年(文政10年)、嘉兵衛は59歳でその生涯を閉じました。彼の死後、高田屋の事業は弟の金兵衛が引き継ぎましたが、ロシアとの密貿易の嫌疑をかけられ、財産を没収されるという悲劇に見舞われ、高田屋は没落しました。

高田屋嘉兵衛ゆかりの地:海の男の足跡を辿る旅

高田屋嘉兵衛の足跡は、彼の故郷である兵庫県洲本市から、事業の拠点である函館、そして国際紛争の舞台となったカムチャツカへと繋がっています。

  • ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園・高田屋顕彰館(菜の花ホール)(兵庫県洲本市五色町都志1087):北前船「辰悦丸」の2分の1模型や、嘉兵衛愛用の遠眼鏡(望遠鏡)などが展示されています。また、墓所や日露友好の像が建てられています。
  • 高田屋嘉兵衛翁記念碑・高田屋翁像・高田屋嘉兵衛旧居跡(兵庫県洲本市五色町都志241)
  • 高田屋嘉兵衛像塩尾港改修記念碑(兵庫県淡路市塩尾)
  • 高田屋嘉兵衛本店の地記念碑(兵庫県神戸市兵庫区西出町1-5-12)
  • 高田屋嘉兵衛記念碑(竹尾稲荷神社・兵庫県神戸市兵庫区七宮町1-3-18)
  • 高田屋嘉兵衛像・日露友好の碑(護国神社・北海道函館市宝来町9)
  • 高田屋屋敷跡(北海道函館市宝来町24(グリーンベルト内))
  • 高田屋本店跡(北海道函館市大町9-7)
  • 箱館高田屋嘉兵衛資料館(北海道函館市末広町13-22):嘉兵衛が箱館で事業を営んだ高田屋本店の跡地にあり、嘉兵衛の関連資料を展示しています。
  • 高田屋の松(函館公園・北海道函館市青柳町17):函館公園内には高田屋嘉兵衛の屋敷内にあった松があります。
  • 高田屋恵比寿神社(北海道函館市末広町23-2):開港通り(二十間坂通り)を函館山方向に歩き、電車通りを右に曲がった少し先(旧北方歴史資料館隣)に小さな神社があります。神仏の信仰に厚かった高田屋嘉兵衛が、守護神として屋敷に祀っていた恵比須神に由来。外観のみ見学可能。
  • 高田屋嘉兵衛一族の墓・顕彰碑(称名寺・北海道函館市船見町18-14)
  • 高田屋嘉兵衛像(金刀比羅神社展望台・北海道根室市琴平町1)

高田屋嘉兵衛の遺産:現代社会へのメッセージ

高田屋嘉兵衛の生涯は、私たちに「困難な状況を力に変える不屈の精神」を教えてくれます。彼は、一介の船乗りから身を起こし、豪商となり、拿捕という絶望的な状況を、外交交渉という新たな舞台へと変え、平和的な解決を成し遂げました。彼のこの精神は、現代のビジネスマンやリーダーにも通じる、困難な状況を前にしても、決して諦めず、知恵と勇気をもって立ち向かうことの大切さを示しています。高田屋嘉兵衛の物語は、一人の商人が、その誠実さと人情味、そして先見の明によって、国際紛争を解決し、国と国との間に信頼の絆を築くことができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、ビジネスの力で社会をより良くしていくことの可能性と、真の勇気とは何かを、力強く語りかけているのです。

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