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奈良県の偉人:富本憲吉 — 「模様から模様をつくらず」「作品こそ我が墓」。美に殉じた第一回人間国宝

プロフィール

富本 憲吉(とみもと けんきち)

1886(明治19)年6月5日生│1963(昭和38)年6月8日没(享年78・満77歳)
「陶芸家」「人間国宝」

  • 出身地:大阪府平群郡安堵村(現在の奈良県生駒郡安堵町)
  • 死没地:大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)にて肺癌のため死去。
  • 職業・肩書き:陶芸家、東京美術学校教授、京都市立美術大学学長
  • 称号・受章:重要無形文化財保持者(人間国宝 / 色絵磁器)、文化勲章
  • 主な功績
    • 近代日本において、個人作家としての陶芸芸術を確立。
    • 「模様から模様をつくらず」の信念のもと、曲る道、竹林月夜、羊歯(しだ)、四弁花など独自の図案を創作。
    • 色絵に金と銀を同時に焼き付ける「金銀彩」技法の完成。
    • 新匠工芸会(現・新匠会)を結成し、新たな工芸運動を牽引。
    • ウィリアム・モリスの影響を受け、量産可能な「日常のうつわ(安価な陶器)」のデザインと普及にも尽力。
  • 親族・交友:妻は『青鞜』同人の尾竹紅吉(一枝)。長男は映画・テレビ監督の富本壮吉。生涯の友としてイギリス人陶芸家バーナード・リーチがいる。

「真性の芸術はその生活より湧き上がったものでなければならぬことを私は堅く信じる」

伝統的な茶陶の概念が支配的だった日本の陶芸界に、近代的な「個人作家としての美意識」を持ち込み、鮮やかな革新の風を吹き込んだ一人の陶芸家がいました。 奈良県安堵町出身の富本憲吉(とみもと けんきち)です。

彼は、1955年(昭和30年)に制度が発足した際、第一回の重要無形文化財保持者(人間国宝)に「色絵磁器」の分野で認定され、のちに文化勲章を受章した近代陶芸の巨匠です。 

「模様から模様を作るべからず」という強烈な信念のもと、過去の模倣を一切排し、自然の草花や風景を徹底的に写生して生み出された「竹林月夜」や「羊歯(しだ)文様」、そして色絵に金銀を同時に焼き付ける華麗なる「金銀彩」の技法は、陶芸の世界に全く新しい地平を切り開きました。 一方で、イギリスで学んだウィリアム・モリスの思想を胸に「万民のための安価な日常のうつわ」にも情熱を注いだ理想主義者でもあります。地位や名誉に執着することなく、美の真髄を追い求めた富本憲吉の波乱に満ちた77年の生涯に迫ります。

大和の旧家からロンドンへ:モリス思想との出会い

1886年(明治19年)、富本憲吉は奈良県平群郡東安堵村(現在の生駒郡安堵町)の大地主の家に、長男として生まれました。法隆寺の寺侍の系譜を引く旧家であり、幼少期から日本画を学ぶなど恵まれた環境で育った彼は、奈良県立郡山中学校(現在の県立郡山高校)を卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)図案科に入学し、建築と室内装飾を専攻します。

在学中の彼に決定的な影響を与えたのが、19世紀イギリスの思想家・デザイナーであるウィリアム・モリスが提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」でした。「生活と芸術を一致させる」というモリスの思想に深く感銘を受けた憲吉は、卒業前の1908年(明治41年)にロンドンへ私費留学を果たします。 ロンドンではステンドグラス科で学びながら、ヴィクトリア&アルバート美術館に日参して工芸品のスケッチに明け暮れました。さらに建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドや中東を巡って回教建築などを視察。ここで培われた西洋や東洋の多様な美意識とグローバルな視点が、後の装飾図案家・陶芸家としての強靭なバックボーンとなりました。

リーチとの邂逅と「大和時代」の幕開け

1910年(明治43年)、実家からの帰国命令により日本へ戻った憲吉は、一度は清水組(現・清水建設)に入社して建築設計に従事するものの、ほどなくして退社します。そして、生涯の友となるイギリス人画家(のちの陶芸家)バーナード・リーチと出会いました。 共に訪れた博覧会で楽焼に興味を持ったリーチに、六代目尾形乾山を紹介して通訳を務めているうち、憲吉自身も作陶の魅力に引き込まれていきました。1913年(大正2年)、故郷・安堵村の生家の裏庭に小さな窯を築き、独学で陶芸の道を歩み始めます。翌年の1914年(大正3年)には、女性解放文芸誌『青鞜』の同人であり「新しい女」として知られた尾竹紅吉(一枝)と結婚しました。

1915年(大正4年)には生家の東方に本格的な本窯を築き、土は東安堵の下池と呼ばれる池の粘土を、灰は隣村・西安堵の染物屋の灰を使うなど、幼い頃から慣れ親しんだ故郷の素材を活かした作陶活動(大和時代)を開始します。 彼の終生の信条となったのが「模様から模様をつくらず」という言葉です。過去の焼き物の柄をコピーするのではなく、自らの足で歩き、大和の風景や自生する草花を徹底的に写生し、そこから「曲る道」「竹林月夜(ちくりんげつや)」「大和川急雨(やまとがわきゅうう)」といった独自の図案を咀嚼して器に描く。このストイックなまでの姿勢が、彼の作品に唯一無二の命を吹き込みました。

東京・九谷から京都へ:疎開体験と「金銀彩」の極致

1926年(大正15年)、憲吉は東京の祖師谷に居を移し(東京時代)、白磁や染付に加えて本格的に色絵磁器に取り組みます。この時期、柳宗悦らの「民藝運動」の黎明期に関わりますが、「無名の職人の素朴な美」を尊ぶ柳と、「個人の美意識による芸術的創造」を重んじる憲吉とでは次第に考えが合わなくなり、のちに独自の道を歩むことになります。 しかし、モリスの思想を受け継ぐ憲吉は「出来得る限り安価な、万人の生活に使用できる工芸品を作りたい」と願い、大正期には長崎の波佐見に滞在して民衆の器(くらわんか茶碗)を研究し、昭和期には石川の九谷に赴いて上絵付の技法を学ぶなど、全国の窯業地で「日常のうつわ」の制作にも尽力しました。

昭和に入ると帝国美術院会員、東京美術学校教授に任命され、陶芸界の重鎮としての地位を確立します。しかし、第二次世界大戦の戦火が激しくなった1945年(昭和20年)、教え子たちとともに岐阜県高山へ疎開を余儀なくされます。この戦中戦後の激動と疎開体験が、彼の芸術観を根底から揺さぶりました。 終戦を迎えた翌1946年(昭和21年)、憲吉は驚くべき行動に出ます。 芸術院会員や母校の教授といったすべての公職と名誉をあっさりと投げ打ち、家族とも別れて単身、京都へ移住したのです(京都時代)。 その胸中には、束縛を嫌い田園で己らしく生きた陶淵明の「帰去来の辞」があったと言われます。一介の陶工として再出発した憲吉は、国画会を脱退して新たに「新匠工芸会(のちの新匠会)」を結成。そしてついに、色絵の上にこれまで技術的に不可能とされていた金と銀を同時に焼き付ける技法=『金銀彩(きんぎんさい)』を完成させたのです。

赤や緑の鮮やかな色絵に、金銀の羊歯(しだ)文様や四弁花がリズミカルに配された作品群は、華麗でありながらも決して下品にならず、典雅な気品に満ち溢れていました。 この圧倒的な芸術的到達により、1955年(昭和30年)、69歳の時に第一回の人間国宝(色絵磁器)に認定され、1961年(昭和36年)には文化勲章を受章しました。

「作品こそ我が墓」— 孤高の陶芸家の最期

晩年、京都市立美術大学の学長に就任したものの、病に倒れた憲吉は、自らの死に際して驚くべき遺言を書き残しています。 「葬儀の形式を一切排されたし。墓所を造るべからず。骨灰は火葬所に捨てられ度し。多くのわが作品を墓と思われ度し」 自らの生きた証は、残された器の中にのみある。そう言い切る彼の凄絶なまでの覚悟と美への献身でした。

1963年(昭和38年)6月8日、富本憲吉は大阪の病院(大阪府立成人病センター)にて肺癌のため、77歳で輝かしい生涯を閉じました。遺言により戒名はありませんでした。 彼の遺志に反して、残された家族は故郷・安堵村の円通院跡(現在は廃寺)にある富本家の墓域の一隅に墓を建てました。そこに過剰な装飾はなく、ただ「富本憲吉の墓」とだけ刻まれた簡素な自然石が、夏草の中に静かに佇んでいます。

Information

富本憲吉を深く知る「この一冊!」

第一回の人間国宝の生涯と人間像に迫る

本のご紹介

近代の陶工・富本憲吉 / 辻本 勇 (著)

新書 – 1999/3/1

富本憲吉の生家を保存し「富本憲吉記念館」を創設した著者による、愛情と敬意に満ちた評伝。茶陶の概念に縛られていた日本の陶芸界に鮮やかな個性美を吹き込み、激しい芸術批判を浴びながらも理想主義を貫き通した憲吉の、人間としての魅力と凄みに深く迫る一冊です。

📍【完全網羅版】富本憲吉の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

近代陶芸の扉を開いた富本憲吉の足跡は、彼が「うぶすな(産土)」と呼んで愛した故郷・奈良県安堵町を中心に、現在も美の遺産として各地の美術館や窯跡地に保存・展示されています。

【奈良県】 美の原点「うぶすな」の地

  • うぶすなの郷 TOMIMOTO(旧・富本憲吉記念館)(奈良県生駒郡安堵町東安堵1442):
    • 大地主であった憲吉の生家(大和棟の環濠屋敷)を改装した、1日2組限定の高級古民家ホテルおよびレストランです。憲吉が晩年を過ごした部屋は客室「日新」として、大正時代の蔵はメゾネット客室「竹林月夜」として生まれ変わっています。さらに、彼がアザミをモチーフにデザインした壁紙が特徴的なカウンターレストラン「アーティーチョーク」や、朝食会場「五風十雨」など、至る所に巨匠の息吹が残る世界に類を見ない体験型施設となっています。
  • 安堵町歴史民俗資料館(奈良県生駒郡安堵町東安堵1322):
    • 富本憲吉の生家(うぶすなの郷)からすぐ近くにある、奈良県再設置の功労者・今村勤三の生家を利用した資料館です。館内には安堵町が生んだ偉人として、富本憲吉の作品や関連資料も展示されています。
  • 円通院(廃寺)跡 富本家墓所(奈良県生駒郡安堵町東安堵):
    • 生家からほど近い場所にある富本家の墓所(かつて円通院があった場所の一隅)。「作品こそ我が墓」という遺言を残した憲吉ですが、家族の計らいにより、故郷の土に還り静かに眠っています。彼の墓標は、文字が刻まれただけの簡素な自然石です。
  • 奈良県立美術館(奈良県奈良市登大路町10-6):
    • 「大和時代」から晩年の「金銀彩」に至るまで、富本憲吉の代表的な作品を多数所蔵しています。「楽焼 草花模様 蓋付壺」や「磁器 金銀彩羊歯模様 大飾皿」など、彼の生涯の作風の変遷を辿ることができる重要な拠点です。

【関西エリア・岡山県】 珠玉のコレクションと研究拠点

  • 大原美術館(富本憲吉室)(岡山県倉敷市中央1-1-15):
    • 工芸・東洋館内に、富本憲吉の作品を展示する専用の部屋が設けられています。『色絵金銀彩椿図陶板』など、彼が心血を注いだ名品が常設展示されており、陶芸家・富本憲吉を語る上で絶対に外すことのできない西日本屈指の聖地です。
  • 京都国立近代美術館(京都府京都市左京区岡崎円勝寺町):
    • 晩年の活動拠点であった京都において、彼の「金銀彩」の到達点を示す数々の名作を所蔵・展示する、近代工芸の殿堂です。
  • 大阪市立美術館(大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82):
    • 旧富本憲吉記念館の創設者である故・辻本勇氏が収集した「辻本勇コレクション」の一部が寄贈・収蔵されています。憲吉の意匠の変遷を知る上で極めて貴重な作品群を所蔵しています。
  • 兵庫陶芸美術館(兵庫県丹波篠山市今田町上立杭4):
    • こちらにも辻本勇コレクションの富本作品が多数分蔵されています。初期の土焼から完成された色絵磁器まで、近代陶芸の巨匠の息遣いを伝える名品が揃っています。
  • 京都市立芸術大学 芸術資料館(京都府京都市下京区):
    • 晩年に教授・学長を務めた同校には、旧記念館から寄贈された約660点にのぼる「富本憲吉関係資料」が収蔵されています。バーナード・リーチとの往復書簡や、憲吉直筆の素描・図案など、彼の思考プロセスや交流の深さを知る「富本憲吉アーカイブ」として研究に活用されています。

【作陶の舞台と国立の殿堂:東京・石川・長崎】

  • 東京・祖師谷の旧居・窯跡周辺(東京都世田谷区祖師谷):
    • 大正15年(1926年)から昭和21年(1946年)にかけて本拠地とし、国画会での活動や色絵磁器の研究を深めた「東京時代」の舞台です。現在は住宅街となっており明確な記念碑等は残っていませんが、彼が世田谷の地で多くの図案を着想した歴史的エリアです。
  • 九谷焼の里(石川県能美市・加賀市周辺)
    • 昭和10年代、東京の冬の寒さを避け、色絵磁器を本格的に学ぶために九谷に長期滞在しました。ここで地元陶画工から上絵付の技法を徹底的に吸収したことが、後の「金銀彩」へと繋がる色絵の基礎を確立しました。
  • 波佐見・中尾山一帯(長崎県東彼杵郡波佐見町中尾郷):
    • 大正9年(1920年)、富本は安価で日常的な器である波佐見焼(くらわんか茶碗)を研究するため、家族を長崎に移住させて中尾山窯などに通い詰めました。「万民のためのうつわ」を探求した、彼の思想的足跡が残る重要な地です。
  • 国立工芸館(旧・東京国立近代美術館工芸館)(石川県金沢市出羽町3-2):
    • 日本海側初の国立美術館。富本が全国の窯場でデザインした日常のうつわから、芸術の極致である金銀彩の飾箱まで、彼の多様な作品を所蔵・展示しています。

💬富本憲吉の遺産:現代社会へのメッセージ

「模様から模様をつくらず」

富本憲吉が遺したこの言葉は、陶芸の世界にとどまらず、現代を生きるあらゆる表現者やビジネスパーソンに通じる強烈なメッセージです。 情報のコピー&ペーストが容易になり、過去の成功例や他人のアイデアを簡単に模倣できる現代において、私たちは「自分自身の目で世界を観察し、咀嚼してゼロから生み出す」という最も苦しく、しかし最も尊いプロセスを忘れがちです。

憲吉は、大和の何気ない野の草花や、雨の降る風景を飽くことなくスケッチし続けました。他人の借り物ではない、己の生活と実体験から湧き上がる感動だけが、本当に人の心を打つ「真性の芸術」になることを知っていたからです。 さらに彼は、地位や名誉にすがりつくことを良しとせず、60歳を過ぎてからすべてを捨てて京都でゼロから再出発し、「金銀彩」という前人未到の美を完成させました。

「自分の目で見て、自分の手で創り出す」。その愚直なまでの誠実さと、いくつになっても自己変革を恐れない挑戦の精神。富本憲吉が遺した美しい器の数々は、私たちに「本物(オリジナル)であることの強さと誇り」を、静かに、そして熱く語りかけています。

©【歴史キング】

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