島根県の偉人:梅謙次郎 — 「日本民法学の父」と呼ばれた、空前絶後の立法家
「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」
これは、明治時代、日本の近代民法・商法の起草を主導し、「日本民法学の父」と称された梅謙次郎(うめ けんじろう)に対して、同時代人が送った最大の賛辞です。
出雲国松江藩(現在の島根県松江市)に藩医の次男として生まれた彼は、幼少から「神童」の誉れ高く、その類稀な才能と記憶力、そして情熱によって、激動の日本の法制度の礎を築き上げました。
幼少期の神童と、法律家への道
梅謙次郎は、1860年(万延元年)、出雲国松江藩(現・松江市)で、藩医・梅薫の次男として宍道湖畔に生まれました。幼少期から極めて優秀で、6歳にして『大学』『中庸』を暗唱し、「梅家の小坊さんは日朗様の再来だ」と称賛されました。12歳では藩主の前で『日本外史』を講義して褒章を受けるなど、その神童ぶりは早くから知られていました。
📌 苦学の日々と首席卒業
明治維新後、士族の廃止により一家は零落。上京後、梅は大道の夜店で足袋などを売りながらカンテラ(ランプ)の灯りで書見に励むなど、苦学の青春を送ります。
1875年(明治8年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科に入学し、圧倒的な才能を発揮して首席で卒業。次いで司法官養成機関であった司法省法学校に進学します。
- 驚異の記憶力: 司法省法学校での講義は、すべてフランス人講師によってフランス語で行われていましたが、梅は入学当初から首席を独占。病気により卒業試験を受けられなかったにもかかわらず、平素の学業優秀をもって首席卒業を認められるという異例の快挙を成し遂げました。
フランス法学界に衝撃を与えた天才
司法省法学校卒業後、梅は東京大学法学部で教鞭をとる傍ら、国費留学生としてフランスへ渡ります。
📌 リヨン大学での偉業
梅はフランス・リヨン大学の博士課程に飛び級で進学し、わずか3年半で博士論文『和解論(De la Transaction)』を完成させ、首席で法学博士号(docteur en droit)を取得しました。
- ヴェルメイユ賞碑: この論文は、フランスの法学界でも高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑(金メダル)を授与され、公費で出版されるという名誉を受けました。その論文は、現在もフランス民法の解釈論として引用されるほど、国際的な水準を誇っています。
- 「法律の神様」: 当時、ヨーロッパでは梅の優秀さが広まり、「日本人には富井、梅のような法律の神様のような人間がいる」と、他の日本人留学生が現地学生に畏れられたというエピソードが残されています。
帰国後、梅は伊藤博文にブレーンとして重用され、東京帝国大学法科大学教授に就任。日本の法学教育の頂点に立ちました。
民法典の起草と「法政大学の父」
梅謙次郎の最大の功績は、日本の近代法の根幹を築いた立法事業にあります。
📌 民法典論争と「梅博士は本当の弁慶」
梅が帰国する直前、日本初の近代民法典の施行をめぐって、法曹界を二分する民法典論争が勃発していました。梅は、施行延期を主張する延期派に対し、拙速主義(法典の不備は後の改正に委ね、まず施行すべき)の立場から即時施行派(断行派)の中心人物として論陣を張りました。
- 三名の起草委員: 論争の激化を経て、新たに民法を起草するために、梅謙次郎、富井政章、穂積陳重(ほづみ のぶしげ)の3名が起草委員に選ばれました。
- 立法家としての手腕: 梅は、起草委員会では富井や穂積の意見を虚心に聞き入れる柔軟な姿勢を見せましたが、法典調査会では一転、勇健な弁舌で原案擁護に努めました。この「外弁慶」ぶりに対し、穂積は梅を「梅博士は、本当の弁慶」であったと回顧しています。
- 多大な功績: 彼は民法だけでなく、商法の起草にも参加。さらに韓国政府の法律最高顧問に就任し、韓国の法典起草にまで携わるなど、東アジアの法整備に多大な貢献を果たしました。
📌 法政大学の設立と運営
梅は帝国大学教授として多忙な身でしたが、本野一郎らの懇請を受け、私学である和仏法律学校(現・法政大学)の学監を兼任しました。
- 初代総理: 1903年(明治36年)、法政大学の初代総理に就任。死去するまでの20年余り、多忙な中を割いて大学の発展に尽力しました。
- 教育者としての情熱: 彼は多額の給与を辞退しただけでなく、学生の試験答案にいちいち目を通し、就職の世話まで奔走するなど、教育者として超人的な努力を捧げました。学生への愛着は深く、自宅のドアに「面会日火曜日」と貼りながらも、その脇に「但し法政大学並びに校友会員はこの限りに非ず」と書き添えていたという逸話が残されています。
晩年と永遠の評価
梅謙次郎は、内閣法制局長官、文部省総務長官などの要職を歴任するなど、多方面で精力的に活動しましたが、1910年(明治43年)、韓国統監府の法律顧問として渡韓中に腸チフスにより急逝しました。享年51(満50歳)。
彼の葬儀は、法政大学葬として盛大に護国寺で執り行われました。その功績は死後も高く評価され、日本の法学者の中で唯一、文化人シリーズの切手に採用されています。
梅謙次郎を深く知る「この一冊!」
出版: 法政大学出版局

梅謙次郎 日本民法の父 / 岡 孝 (著)
単行本 – 2023/9/11

「空前絶後の立法家」と呼ばれた梅謙次郎の、松江での幼少期から、フランスでの研究、そして日本民法の起草に至るまでの濃密な生涯をたどる決定的な評伝。類い稀なる学識と、近代国家の礎を築いた法制への貢献を深く理解できます。
📍梅謙次郎ゆかりの地:近代法の足跡を辿る旅
梅謙次郎の足跡は、彼の故郷である島根県松江市から、学問の拠点である東京、そして留学先のフランスへと繋がっています。
- 梅謙次郎博士顕彰碑(松江総合文化センター市民の杜・島根県松江市西津田6-5-44):梅謙二郎博士は万延元年(1860年)、いまの松江市灘町に生まれた。司法省法学校を経て、フランスのリヨン大学で法学を修め、論文「和解論」により博士号を取得した。帰国後、民法典論争に敗れたが、民法、商法等の法典制定に力を尽した。東京帝国大学法科大学長、法政大学初代総理、法制局長官などを歴任、明治43年(1910年)、ソウルに没した。主著は「民法要義」全5巻であり、わが国の「民法の父」と称される。帰国百年を記念し、博士の偉大な業績を讃え、ここに顕彰碑を建立する。
平成2年(1990年)11月23日 梅謙二郎博士顕彰碑建立委員会
- 梅謙次郎追慕植樹碑(東京大学本郷キャンパス正門脇・東京都文京区本郷7-3-1)梅が愛していた木斛(モッコク)の樹、平成22年に生誕150年・没後100年を迎えるにあたって植えられた。
- 梅謙次郎墓所(護国寺・東京都文京区大塚5-40-1):護国寺の一隅にある梅の墓石には、一切の肩書きなしに、ただ「梅謙次郎墓」と刻まれています。
💬梅謙次郎の遺産:現代社会へのメッセージ
梅謙次郎の生涯は、私たちに「情熱と実務に裏打ちされた知性」の重要性を教えてくれます。彼は、単なる知識の蓄積に留まらず、その知性を法典という形で具現化し、社会に定着させる実行力を持っていました。
彼の教育者としての「法政大学並びに校友会員はこの限りに非ず」という言葉に象徴される、制度を超えた人間的な情熱と愛情は、現代の教育者やリーダーにとっても、最も大切な資質と言えるでしょう。
梅謙次郎の物語は、一人の法律家が、その卓越した才能と献身によって、国家の骨格と社会の倫理を築き上げることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、知識を社会の進歩のために活かすことの大切さを、力強く語りかけているのです。
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