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秋田県の偉人:和井内貞行 — 「死の湖」を蘇らせた、十和田湖開発の父

郷土博士

秋田県

「ヒメマスだ。カバチェッポ(ヒメマスのアイヌ語名)が帰ってきた!」

この叫びは、魚の影すら見えない「死の湖」十和田湖に、生涯をかけて魚を棲ませることを夢見た和井内貞行(わいない さだゆき)が、22年間の苦闘の末にヒメマスの大群が湖に回帰するのを目撃した時のものです。秋田県鹿角市に生まれた彼は、十和田湖の養魚と観光の両面を切り拓き、不毛の地とされた湖を、日本有数の豊かな湖へと変貌させました。彼の血の滲むような努力と、妻・カツの献身的な支え、そして地域の人々との絆が、十和田湖に「命」を吹き込み、その偉業は今もなお語り継がれています。

十和田湖との出会いと養魚への情熱

和井内貞行は1858年(安政5年)、南部藩領陸奥国鹿角郡毛馬内村(現在の秋田県鹿角市)に、南部藩の筆頭家老を務める家柄の長男として生まれました。幼い頃から厳しく躾けられ、武家の子として育てられましたが、明治維新後の盛岡藩の敗北という屈辱を味わい、「武士の世は終わった。何か新しいことをしなければならない」という強い反骨精神を胸に、新たな道を模索します。1881年(明治14年)、24歳の和井内は、工部省小坂鉱山寮の吏員として、十和田湖畔にあった十輪田鉱山に赴任します。当時、鉱山で働く2,500人もの労働者の食事は、干物や塩漬けばかりで、新鮮な魚は手に入りませんでした。この状況を憂慮した和井内は、「なんとかして新鮮な魚を提供できないか」という思いから、十和田湖での養魚事業を志すようになります。

鯉、カワマス、そしてヒメマスへ

しかし、当時の十和田湖は、地元住民に「神のたたりで魚が棲まない」と信じられていた、「死の湖」でした。和井内は、この迷信に屈することなく、学問を修めた合理的な思考で湖を調査しました。そして、1884年(明治17年)、鹿角郡長や十輪田鉱山長の許しを得て、最初の挑戦として、鯉の稚魚600尾を放流します。この日から、彼の20年以上にわたる苦難と試練の道のりが始まりました。

  • 鯉の養殖の失敗:12年間で3万匹もの鯉を放流しましたが、群れる習性のない鯉の捕獲は困難を極め、最初の試みは失敗に終わります。
  • カワマスの養殖の失敗:1897年(明治30年)、養魚事業に専念するため鉱山を退社した和井内は、全国各地の孵化場を見学し、カワマスの養殖に着手。しかし、これも僅か数匹しか捕獲できず、失敗に終わります。

この頃、彼の事業は多額の借金を抱え、一家の暮らしは困窮を極めていました。それでも和井内は諦めませんでした。彼の心を再び奮い立たせたのは、北海道支笏湖(しこつこ)で養殖されている「ヒメマス」の存在でした。そして、三度目の挑戦として、全財産をはたいてヒメマスの卵を購入し、1903年(明治36年)に5万匹の稚魚を放流します。そして2年半後の1905年(明治38年)秋、ついにヒメマスの大群が産卵のために湖の浅瀬に押し寄せてきたのです。この瞬間、和井内は「われ、幻の魚を見たり」と叫び、22年にわたる血の滲むような努力が、ついに実を結んだのでした。

養魚と観光の両立:十和田湖開発の父

ヒメマスの養殖に成功した和井内は、その後、十和田湖を日本有数の観光地へと発展させることにも尽力しました。

養殖事業の確立と観光開発

  • 孵化場の設置: ヒメマスの安定的な増殖のため、ふ化場を設置し、養殖体制を確立。これにより、十和田湖は豊かなヒメマスが獲れる湖となりました。
  • 観光施設の整備: 1897年には旅館「観湖楼」を創業し、1916年には「和井内十和田ホテル」を開業。湖畔に訪れる人々を迎え入れる体制を整えました。
  • 観光宣伝: 新聞に十和田湖の景勝を載せたり、絵はがきを発行したりして、十和田湖の魅力を全国に発信しました。
  • 国立公園指定への陳情: 十和田湖の豊かな自然を守るため、内務省に十和田湖を国立公園に指定するよう陳情しました。この努力が実を結び、彼の死後、十和田湖は国立公園に指定されました。

これらの功績が評価され、和井内は1907年に緑綬褒章を授与されました。しかし、長年苦楽を共にしてきた妻のカツは、この直後に病で亡くなります。湖畔の人々は、カツの献身に感謝し、「勝漁神社(しょうりょうじんじゃ)」を建立してその霊を祀りました。

妻・カツとの絆と後世への遺産

和井内貞行の成功は、妻・カツの献身的な支えなしにはありえませんでした。家具や着物、櫛を売ってまでヒメマスの卵の購入資金を工面し、大凶作の年には、多額の借金があるにもかかわらず、湖畔の飢饉に苦しむ人々にヒメマスを自由に獲らせるなど、夫を支え、地域の人々を愛し、その慈愛は今も語り継がれています。和井内は、1922年(大正11年)、65歳でその生涯を閉じました。彼の死後、勝漁神社は「和井内神社」と改称され、彼と妻カツが共に祀られています。十和田湖のヒメマス一匹一匹には、彼らの情熱と愛情が刻み込まれていると言っても過言ではないでしょう。

和井内貞行ゆかりの地:十和田湖開発の足跡を辿る旅

和井内貞行の足跡は、彼の故郷である鹿角市から、十和田湖、そして彼の功績を称える神社へと繋がっています。

  • 和井内神社(秋田県鹿角郡小坂町十和田湖字大川岱90):和井内貞行と妻カツが祀られている神社です。
  • 和井内ヒメマス孵化場跡(秋田県鹿角郡小坂町十和田湖字生出):和井内がヒメマスの養殖に成功した人工孵化場の跡地です。
  • 鹿角市先人顕彰館(秋田県鹿角市十和田毛馬内字柏崎3-2):和井内貞行をはじめ、鹿角市ゆかりの偉人たちの功績を伝える資料館です。
  • 道の駅十和田湖・ひめますの郷・和井内(秋田県小坂町十和田湖字生出2-1):和井内貞行と妻カツの銅像が2024年10月に建立された。

和井内貞行の遺産:現代社会へのメッセージ

和井内貞行の生涯は、私たちに「不屈の精神と愛」の重要性を教えてくれます。彼は、22年という長い歳月と多額の私財を投じて、誰も成し得なかった十和田湖の養魚事業を成功させました。その根底にあったのは、鉱山で働く人々を想う慈悲深い心と、湖に命を吹き込みたいという情熱でした。彼の物語は、一人の人間が、その信念と愛によって、不毛の地とされていた場所を、豊かな恵みをもたらす「宝の湖」へと変えることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、困難な課題に立ち向かう勇気と、地域を愛し、社会に貢献することの真の豊かさを、力強く語りかけているのです。

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