新潟県の偉人:山本五十六 — 「やってみせ…」の心で人を育て、開戦に反対しながら真珠湾を指揮した悲劇の提督
プロフィール
山本 五十六(やまもと いそろく) │旧姓:高野
1884(明治17)年4月4日生│1943(昭和18)年4月18日没(59歳)
「海軍軍人(元帥海軍大将)」
- 出身地:新潟県長岡市(旧・古志郡長岡本町)
- 肩書き:連合艦隊司令長官、海軍次官、海軍航空本部長
- 最終階級:元帥海軍大将
- 栄典:大勲位、功一級、正三位
- 代表的な実績:真珠湾攻撃の指揮、海軍航空隊の育成、日独伊三国同盟への反対
- 座右の銘:常在戦場、やってみせ…(統率の言葉)
- 好物:水饅頭、羊羹、柿、飴もなか
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
この言葉は、今なお多くの経営者や指導者の座右の銘として語り継がれています。これを遺したのは、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、山本五十六(やまもと いそろく)です。
彼は、日独伊三国同盟に命懸けで反対し、アメリカとの戦争を「無謀な賭け」として誰よりも回避しようと奔走しました。しかし、皮肉にもその彼が、真珠湾攻撃という奇策を用いて開戦の火蓋を切らざるを得なくなります。 「国を滅ぼす戦争は避けたい」という理知的な信念と、「軍人として命令に従い、勝たねばならない」という宿命。この二つの狭間で苦悩し、最後は南の空に散った提督。
越後長岡の武士道精神を受け継ぎ、世界を知り、部下を愛した山本五十六。その人間味あふれる60年の生涯と、現代にも通じるリーダーシップの神髄を、余すところなく紐解きます。
越後長岡の「常在戦場」の魂を受け継いで
1884年(明治17年)、新潟県古志郡長岡本町(現・長岡市)に、旧長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれました。父が56歳の時の子であったことから「五十六」と名付けられました。 長岡は、幕末の北越戦争で焦土と化し、そこから「米百俵」の精神(目先の食料よりも、将来のための教育に投資する精神)で復興を遂げた土地です。五十六もまた、質素倹約と、長岡藩の教えである「常在戦場(常に戦場にある心構えで日常を過ごせ)」を骨髄まで染み込ませて育ちました。
少年時代は極度の負けず嫌いで、「鉛筆は食べられないだろう」とからかわれると、その場でボリボリと食べてみせたという逸話が残っています。 海軍兵学校を経て、日露戦争の日本海海戦に少尉候補生として参加。この時、敵弾の炸裂(一説には砲身内早発)により左手の人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負いました。この傷と、多くの戦友を失った経験が、彼の軍人としての覚悟をより一層強固なものにしました。
1915年(大正4年)、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、高野から「山本五十六」となります。
アメリカを知り尽くした「航空主兵論」の先駆者
山本のキャリアにおいて決定的な転機となったのは、二度にわたるアメリカ駐在(ハーバード大学留学、大使館付武官)でした。 当時の多くの陸軍軍人がドイツの軍事力に傾倒していたのに対し、山本はアメリカのデトロイトの自動車産業やテキサスの油田地帯を目の当たりにし、その圧倒的な工業力と物量に衝撃を受けます。 「この国と戦って勝てるわけがない」。 彼は、日本では専売制だった砂糖や塩さえも、アメリカでは食堂で使い放題である現実に国力の差を肌で感じ、精神論だけでは近代戦に勝てないことを痛感していました。
また、彼は「大艦巨砲主義(巨大な戦艦同士の撃ち合い)」が主流だった時代に、いち早く「航空機」の可能性に着目しました。 「これからは空の時代だ。戦艦は床の間の飾りになる」。 そう断言し、航空本部長として航空機の技術開発と増産を強力に推進。後の「零戦(ゼロセン)」の活躍や、航空母艦を中心とした機動部隊の編成は、山本の先見性によるものでした。
命を賭した「三国同盟反対」と、避けられぬ開戦
1930年代後半、日本がドイツ・イタリアとの三国同盟に傾くと、海軍次官となっていた山本は、米内光政(海軍大臣)、井上成美(軍務局長)とともに、強硬に反対します。 「ヒトラーと手を組めば、必ずアメリカ・イギリスと戦争になる。そうなれば日本は負ける」。 この正論は、当時の世論や陸軍の反発を招き、山本のもとには連日、脅迫状や暗殺をほのめかす手紙が届きました。しかし彼は、「此の身滅す可し、此の志奪ふ可からず」と、遺書をしたためてまで自説を曲げませんでした。
彼が連合艦隊司令長官として海上に送られたのは、暗殺の危険から彼を遠ざけるための人事だったとも言われています。しかし、政府は三国同盟を締結。対米開戦が避けられない情勢となると、山本は苦渋の決断を下します。 「やるなら、初手で敵の主力艦隊を叩き潰し、アメリカの戦意を喪失させるしかない」。 こうして立案されたのが、ハワイ・真珠湾への奇襲攻撃でした。誰よりも戦争を反対した男が、誰よりも大胆な作戦で戦争を始めなければならない。これこそが、山本五十六最大の悲劇でした。
慈愛の指揮官:博打好きで甘党の素顔
「鬼の提督」というイメージとは裏腹に、素顔の山本は非常に人間味あふれる人物でした。
- 大の甘党: 酒は一滴も飲めませんでしたが、甘いものが大好きで、特に「虎屋の羊羹」や「汁粉」、故郷長岡の「水饅頭(酒饅頭に砂糖をかけたもの)」を好みました。宴席では、徳利に番茶や水を入れて飲み、得意の「逆立ち」や「皿回し」などの隠し芸を披露して場を盛り上げました。
- 博打好き: ポーカー、ブリッジ、将棋、花札など、勝負事には目がありませんでした。「博打をしないような男はろくな者じゃない」と語り、モナコのカジノで勝ちすぎて出入り禁止になったという伝説もあります。彼の博打好きは、確率を冷静に計算する科学的な思考に基づいたものでした。
- 部下への愛: 威張ることを嫌い、若い兵士からの敬礼にも、必ず姿勢を正して答礼しました。戦死した部下の名前を手帳に記して肌身離さず持ち歩き、遺族には自筆で丁寧な手紙を書き続けました。
ソロモンの空に散る
1941年12月8日、真珠湾攻撃は成功しましたが、山本が恐れていた通り、アメリカの国力と戦意は日本の想像を遥かに超えていました。ミッドウェー海戦での大敗を経て、戦局は悪化の一途をたどります。
1943年(昭和18年)4月18日。 前線の将兵を鼓舞するため、山本は危険を承知でラバウルからブーゲンビル島への視察に出発します。しかし、その行動予定はアメリカ軍に暗号解読されていました。 「山本長官を撃墜せよ」。 待ち伏せしていたP-38戦闘機の編隊に襲われ、山本の乗る一式陸上攻撃機はジャングルへ墜落。 発見された遺体は、軍刀を握りしめたまま、泰然と座っていたと伝えられています。享年60(満59歳没)。 皇族・華族以外では初となる「国葬」が執り行われ、多くの国民がその死を悼みました。
山本五十六の遺産:現代に響くリーダー論
山本五十六が遺した言葉は、現代のビジネスや教育の現場でも、リーダーシップの極意として引用され続けています。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
さらに、この言葉には続きがあります。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で、見守って、信頼せねば、人は実らず」
単に指示を出すだけでなく、自ら範を示し、相手を認め、信頼して任せる。 強権的なリーダーではなく、相手の心に火をつける「育成型リーダー」としての彼の姿勢は、組織運営に悩む現代人にとって、色褪せない指針となっています。
山本五十六を深く知る「この一冊!」
太平洋戦争開戦時の日本海軍連合艦隊司令長官

山本五十六の生涯 (幻冬舎文庫) / 工藤 美代子 (著)
文庫 – 2011/11/10

アメリカとの戦争を避けようと苦悩した男が、なぜ真珠湾攻撃を指揮したのか。家族や友人の証言、残された手紙などを基に、軍人としての顔だけでなく、家庭人としての顔や、人間的な弱さ、優しさにも光を当てた傑作評伝。
📍【完全網羅版】山本五十六の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
山本五十六の足跡は、故郷・長岡市に集中していますが、彼が育てた海軍航空隊の地・茨城、学びの地・広島、眠りの地・東京、そして彼が愛した温泉地・群馬にも重要な史跡が残されています。
【新潟県長岡市】 生誕と成長の地
- 山本五十六記念館(長岡市呉服町1-4-1):五十六の生家跡近くに建つ記念館。撃墜された際の座席(左翼手すり)、軍刀、手紙、写真など、彼の人間性を伝える貴重な遺品が多数展示されています。
- 山本記念公園(生家復元・胸像)(長岡市坂之上町3-3):記念館から徒歩すぐ。戦災で焼失した生家「高野家」が復元されており、庭には五十六の胸像が建っています。勉強部屋なども見ることができます。
- 長岡市郷土史料館(悠久山公園内)(長岡市御山町80-5):ここには山本五十六が連合艦隊司令長官時代に戦艦「長門」に掲げていた「連合艦隊司令長官旗(大将旗)」の実物が展示されています。ファン必見の場所です。
- 長興寺(山本五十六の墓)(長岡市城内町3-6):山本家の菩提寺。五十六の遺骨(分骨)が埋葬されており、多くの人が墓参に訪れます。左手が無かった彼のために、左側が欠けた義指も納められていました(現在は記念館所蔵)。
- 阪之上小学校 伝統館(長岡市今朝白1-11-21):五十六の母校。校内にある伝統館(要事前連絡)には、五十六直筆の書簡や資料が展示されています。
- 新潟県立長岡高等学校 記念資料館(長岡市学校町3-13-10):五十六の母校(旧制長岡中学)。和同会館内にあり、五十六ゆかりの品々や、彼が影響を受けた「米百俵」に関する資料が展示されています。
- 米百俵の碑(長岡市東坂之上町2-1-2):JR長岡駅近く、旧長岡藩校「国漢学校」跡地に建つ碑。五十六の人格形成に影響を与えた長岡精神の象徴です。
- 渡辺あめや(長岡市白山町):五十六がこよなく愛した「飴もなか」を販売している老舗。店内には五十六からの礼状が飾られています。
【東京都】 活躍と眠りの地
- 多磨霊園(山本五十六の墓)(東京都府中市多磨町4-628):名誉霊域(7区特種1側2番)に、東郷平八郎の墓と並んで重厚な墓石が建っています。国葬の後に埋葬された場所であり、現在も分骨されています。
【茨城県阿見町(霞ヶ浦)】 航空隊育成の地
- 予科練平和記念館・雄翔園(山本五十六銅像)(茨城県稲敷郡阿見町大字廻戸):かつて霞ヶ浦海軍航空隊があった場所。敷地内の庭園「雄翔園」には、航空本部長時代に航空隊育成に尽力した五十六の銅像(立像)があり、彼が愛した空を見上げています。
【広島県江田島市・呉市】 海軍の聖地
- 海上自衛隊幹部候補生学校(旧海軍兵学校)・教育参考館(広島県江田島市江田島町国有無番地):五十六が学び、卒業した場所。教育参考館には、彼の遺髪や書などが展示されており、海軍の歴史と共に彼の人となりを偲ぶことができます。(※見学要件は要確認)
- 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)(広島県呉市宝町5-20):五十六が座乗した戦艦「大和」や、零戦などの資料が充実。長官時代の五十六に関する展示や映像資料も見ることができます。
【群馬県安中市】 愛した休息の地
- 磯部温泉(いそべおんせん):五十六が傷病の療養や骨休めのために度々訪れた温泉地。特に「ホテル磯部ガーデン(旧・小暮旅館)」には彼が定宿とした部屋が移築保存されているほか、温泉街には彼にまつわるエピソードが残されています。得意の逆立ちを披露したのもこの温泉地と言われています。
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