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富山県の偉人:横山源之助 — 「日本の下層社会」を刻んだルポルタージュの開祖

「是非を言わざるべし。一に読者の判断に委(まか)す」

これは、明治の繁栄の陰で喘ぐ労働者や貧民の姿を克明に記録したジャーナリスト、横山源之助(よこやま げんのすけ)が、その主著『日本之下層社会』に残した言葉です。

富山県魚津町(現在の魚津市)に生まれた彼は、自らの足で現場を歩き、統計と実態を冷静に分析する手法で、日本におけるルポルタージュの開祖となりました。

司法試験への挫折、放浪、そして早すぎる死。その生涯は決して恵まれたものではありませんでしたが、彼がペン一本で照らし出した「社会の底辺」の記録は、現代の私たちに労働と貧困という普遍的な課題を突きつけ続けています。

網元の私生児から、法律家への挫折

横山源之助は、1871年(明治4年)、富山県下新川郡魚津町(現在の魚津市)で、網元の家の私生児として生まれました。生後すぐに左官職人・横山伝兵衛の養子となります。

魚津の明理小学校を卒業後、醤油醸造を営む商家へ丁稚奉公に出ますが、学問への意欲は断ち難く、独学で勉学に励みました。その甲斐あって、1885年(明治18年)、富山県初の中学校である富山県中学校(現・富山県立富山高等学校)に第1期生として入学します。しかし、立身出世を夢見た彼は2年生で中退し、15歳で単身上京しました。

📌 挫折と放浪、そして文学者との出会い

上京した源之助は、法律家を目指して英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学します。しかし、当時の立身出世の登竜門であった司法試験(代言人試験)に何度も失敗。法律家への道を断念せざるを得なくなりました。

夢破れた彼は、禅寺に身を寄せたり、場末の木賃宿(きちんやど)で寝起きしたりと、東京の下層社会で放浪の日々を送ります。しかし、このドン底の生活こそが、彼の目を社会の矛盾へと向けさせるきっかけとなりました。

この時期、彼は二葉亭四迷幸田露伴内田魯庵といった文学者たちと交流を持ちます。特に二葉亭四迷からは強い影響を受け、社会の現実をありのままに描くことの重要性を学びました。また、下層社会の女性救済を訴える立場から、晩年の樋口一葉とも親交を結んでいます。

徹底した現場主義:「日本之下層社会」の衝撃

1894年(明治27年)、23歳になった源之助は、毎日新聞(旧横浜毎日新聞)に入社します。ちょうど日清戦争が勃発した時期であり、彼は『戦争と地方労役者』という連載記事を発表。戦争が地方の末端や下層社会にどのような打撃を与えているかを多面的に報じ、社会探訪記者としての才能を開花させました。

📌 足で稼ぎ、数字で裏付ける

源之助の取材スタイルは、徹底した現場主義でした。

  • 貧民窟への潜入: 東京の三大貧民窟に入り込み、その戸数、人口、男女比を数え上げました。
  • 家計の分析: 日稼ぎ人足、車夫、クズ拾いなどの労働者から、日当だけでなく、家賃、米代、薪炭代などの生活費を克明に聞き取り、収支を表にまとめました。

彼は、感情的に貧困を嘆くのではなく、客観的なデータと実体験に基づいて事実を提示しました。1899年(明治32年)に刊行された『日本之下層社会』は、桐生・足利の織物工場、阪神地方の工業地帯、そして故郷・富山の小作人など、日本各地の労働現場を網羅した画期的な書物であり、彼は一躍「労働問題の第一人者」として知られるようになりました。

📌 農商務省『職工事情』への貢献

1900年、源之助はその手腕を買われ、農商務省の嘱託として『職工事情』の調査に参加します。 この報告書は、政府の刊行物でありながら、過酷な労働環境を極めて客観的かつ中立に描いたドキュメントとして高く評価されています。官僚的な枠にとらわれないその内容は、源之助ら民間の調査員たちの「陰の努力」によるものが大きいと言われています。

社会主義との距離と、ブラジルへの視線

源之助は、片山潜ら社会主義運動家とも交流がありましたが、彼自身は特定のイデオロギーに染まることはありませんでした。あくまで「客観的な視点に立つジャーナリスト」としての立ち位置を貫きました。

晩年、彼は国内での貧困解決の限界を感じたのか、海外殖民(移民)にその解決策を求めます。1912年(明治45年)、自ら調査のためにブラジルへ渡航。『南米ブラジル案内』などを執筆し、新天地での日本人の可能性を探りました。

陋巷(ろうこう)での死と、故郷の米騒動

1915年(大正4年)、源之助は東京小石川の借家でひっそりと息を引き取りました。享年45(満44歳)。死因は過労と貧困による衰弱と言われています。 生涯の友であった内田魯庵は、その死を「陋巷(ろうこう:狭くむさ苦しい路地)に窮死した」と表現し、その才能が十分に報われなかったことを嘆きました。

皮肉なことに、彼の死から3年後の1918年(大正7年)、彼の故郷である富山県魚津町で、主婦たちが米の積み出しを阻止しようとした運動がきっかけとなり、全国を揺るがす米騒動が勃発します。源之助が生涯をかけて見つめ続けた「生活に困窮する人々の怒り」が、彼の故郷から爆発したのです。

激務と度重なる発行停止処分による心労は、羯南の体を蝕みました。肺結核を発症し、明治39年(1906年)、新聞『日本』の経営権を譲渡。翌明治40年(1907年)、50歳という若さで鎌倉にて永眠しました。

Information

横山源之助を深く知る「この一冊!」

出版: 岩波書店 (岩波文庫 青 109-1)

本のご紹介

日本の下層社会 (岩波文庫 青 109-1)/横山 源之助 (著)

文庫 – 1985/4/16

日本資本主義が確立しつつあった明治30年代、その繁栄の陰で喘ぐ労働者や貧民の実態を、徹底的なフィールドワークと統計で描き出した名著です。工場労働者、職人、都市の極貧者、小作人たちの生活が生々しく記録されており、日本のルポルタージュ文学の原点とも言える一冊です。現代の「格差社会」を考える上でも、必読の古典です。

📍横山源之助ゆかりの地:ジャーナリズムの原点を辿る旅

横山源之助の足跡は、彼の故郷である富山県魚津市を中心に残されています。

  • 横山源之助顕彰碑(大町海岸公園・富山県魚津市本町1-5-32):かつて新金屋公園にあった記念碑が、米騒動発祥の地に近いこの公園に移設されました。「社会福祉の先覚者」という文字が刻まれています。この場所から見える蜃気楼を「魚津浦の蜃気楼(御旅屋跡)」として国の登録記念物(名勝地)ともなっています。また、近くには、魚津の名を全国に知らしめた「米騒動」の貴重な遺跡があります。
  • 横山源之助顕彰碑(新金屋公園・富山県魚津市新金屋1-13):1987年(昭和62年)に建立、「郷土の生んだ先覚者 横山源之助の生涯」と題して解説がある。
  • 魚津市立図書館(富山県魚津市本江1940):郷土コーナーの一角に「横山源之助コーナー」が設けられており、全集や関連書籍を閲覧することができます。
  • 小川山心蓮坊(富山県魚津市小川寺2934):源之助が過労で倒れ帰郷した際、静養生活を送った場所です。ここで彼は『村落生活』などを執筆しました。
  • 魚津歴史民俗博物館(富山県魚津市小川寺1070):源之助の直筆の手紙などが収蔵・展示されています。

💬横山源之助の遺産:現代社会へのメッセージ

横山源之助の生涯は、私たちに「事実を見つめる眼の強さ」を教えてくれます。彼は、安易な同情やイデオロギーに流されることなく、データを集め、現場を歩き、ありのままの事実を社会に突きつけました。

彼の「発達に伴う病的現象たる貧民」という指摘は、経済成長が必ずしもすべての国民を幸福にするわけではないという、資本主義の宿命を鋭く射抜いています。

横山源之助の物語は、一人のジャーナリストが、そのペンと足を使って、歴史の闇に埋もれそうになっていた「声なき人々の声」を記録し、後世に伝えることができることを証明しています。彼の精神は、現代に生きる私たちに、社会の影の部分から目を逸らさず、客観的な事実に基づいて問題に向き合うことの大切さを、静かに、しかし力強く語りかけているのです。

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