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徳島県の偉人:芳川顕正 — 伊藤博文の「英語の先生」から8度の大臣へ。東京の骨格を創り、家族の業に泣いた男

プロフィール

芳川 顕正(よしかわ あきまさ)

1842(天保12)年1月21日生│1920(大正9)年1月10日没(享年79歳)
「政治家」「官僚」

  • 出身地:阿波国麻植郡川田村北島(現:徳島県吉野川市山川町北島)
  • 職業・肩書き:官僚、政治家。内務大臣(第12・16・23代)、文部大臣(第3代)、司法大臣(第5代)、逓信大臣(第9・12代)、東京府知事(第8代)、枢密院副議長(第4代)、國學院大學学長、大蔵省紙幣頭、工部大書記官、工部大丞、外務少輔、内務省輔など
  • 位階履歴:1885年9月16日(従四位)→1886年10月20日(従三位)→1890年6月11日(従二位)→1920年1月10日(従一位)
  • 称号・受章:従一位、勲一等、伯爵(1896年6月5日に子爵。1907年9月21日に伯爵へ陞爵し、それに伴い貴族院子爵互選議員を失職)
  • 主な功績
    • 東京府知事としての「市区改正(都市改造計画)」の立案と実行、浅草公園の新設。
    • 第1次山縣内閣の文部大臣として「教育勅語」の発布。
    • 日本の紙幣・銀行制度の基礎構築。
    • 郷土の吉野川治水工事の推進および「覚円騒動」の収拾。
    • 日本花柳病予防協会初代会長、南洋協会初代会頭。
  • 家族・親族:父・原田民部(医師)、母・慶子。養父・高橋文昨(先代は赤水)。妻に先立たれ、男子に恵まれず。三女・富子(藤田財閥2代目・藤田平太郎の妻)、四女・鎌子、婿養子・芳川寛治(三井物産社員から曾禰荒助子爵の次男を迎え、のちに池上電気鉄道等の社長。1882〜1956年)。家督を継いだ娘婿・芳川三光(三室戸敬光の三男)。
  • 交友・関係の深い人物:伊藤博文(長崎で英語を教え、のちの大蔵省出仕の恩人)、山縣有朋(芳川を重用した元勲)、三条実美、何礼之、瓜生寅、前島密、長井長義、山田要吉、福沢諭吉・森有礼・服部金太郎(将棋の後援仲間)、小野五平(将棋名人)、清浦奎吾
  • 関連作品:『伯爵夫人の肖像』(杉本苑子 著)

「府下永遠の利益を図るには、全体計画を樹立したのち、緩急を計り至要の場所から着手すべきである」

明治維新という激動の時代。新政府の要職は薩摩や長州といった「勝ち組」の藩閥出身者によって独占されていました。そんな中、阿波国(徳島県)の一介の町医者の息子から身を起こし、ついには東京府知事、そして文部、内務、司法、逓信など実に8回にわたって各省の大臣を歴任し、枢密院副議長にまで上り詰めた男がいます。芳川顕正(よしかわ あきまさ)です。

現在の東京の骨格となる「市区改正」を提唱し、近代日本の精神的支柱となる「教育勅語」の発布という歴史的偉業を成し遂げた彼。その異例の出世の裏には、若き日の長崎で「ある長州の志士」に英語を教えたという数奇な出会いがありました。 しかし、栄光の頂点を極めた彼の晩年は、世間を震撼させる前代未聞のファミリースキャンダルによって突如として暗転します。

己の才覚だけを武器に近代国家の設計図を描き、最後は家族の業(ごう)に翻弄された男。芳川顕正の、光と影が交錯するドラマチックな生涯に迫ります。

町医者の息子と、伊藤博文との「運命の英会話」

天保12年12月10日(1842年1月21日)、芳川顕正(幼名:原田賢吉)は、阿波国麻植郡川田村北島(現在の徳島県吉野川市山川町北島)で、代々医療をなりわいとする医師・原田民部と母・慶子の四男(5人兄弟の末子)として生まれました。 幼い頃から頭脳明晰だった彼は、近隣の富豪・原田辰次郎のもとへ商売見習いに出された後、浅野玄碩から医学を学び、16歳の春に徳島城下に出て学問を続けます。21歳の時には徳島市の医師・高橋文昨の養子となり「高橋賢吉」と名乗りました。この高橋家の先代・赤水が所蔵していた荻生徂徠の書籍が、彼の思想形成に大きな影響を与えたと言われています(のちに彼自身も「越山」の雅号で漢詩を遺しています)。

彼の運命が大きく動いたのは、最新の医学と洋学を志して赴いた長崎でのことでした。 22歳で一度長崎へ遊学するも、はしかに罹り数ヶ月で帰藩。しかし元治元年(1864年)に再訪すると、医師・中村某の塾頭となります。翌年には小島養生所医学と化学を修めながら、何礼之(が のりゆき)や、瓜生寅と前島密が開設したばかりの「倍社(1864年9月開設)」で本格的に英学を学びました。ここで彼は、のちに日本の近代薬学の祖となる長井長義や山田要吉ら徳島からの遊学生に洋学を教えるほどの語学力を身につけます。

そして慶応3年(1867年)、27歳での3度目の長崎滞在中、彼は一人の血気盛んな長州藩士と出会います。同年8月(旧暦)に木戸孝允(桂小五郎)とともに1ヶ月ほど長崎に滞在したのち、上京して再び長崎を訪れ、10月4日にグラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、11月3日に「吉村荘蔵」という偽名で大徳寺に潜伏していた、のちの初代内閣総理大臣・伊藤博文(俊輔)です。 当時、宣教師フルベッキが居住していた大徳寺のすぐ上に、芳川が通う小島養生所がありました。『伯爵芳川顕正小伝』によれば、イギリス留学から帰国していたものの「読み書きや英文法」がからっきし苦手だった伊藤からの頼みを受け、芳川は翌日大徳寺を訪ね、彼が11月下旬に長崎を離れるまでの約2ヶ月間、みっちりと英文法を教え込んだのです。

この「英語の先生と生徒」という関係が、芳川の人生の扉をこじ開けました。彼は同年、鹿児島へ赴き、海軍所の賓客として航海や数学、兵学書の翻訳を行い、薩摩藩で英才の教育に従事したのち、故郷で洋学教授を務めました。

藩閥の壁を越えた実務家。「東京の骨格」を創る

明治維新後、芳川(明治元年に改姓)は新政府に身を投じます。藩閥の後ろ盾が一切ない彼を引き上げ、明治3年(1870年)に大蔵省へ推挙したのは、他ならぬ伊藤博文でした。 芳川は伊藤に随行してアメリカへ渡り、さらに伊藤博文に推され渡英し、銀行制度・紙幣製造の研究をするなど、近代国家に不可欠な貨幣・金融制度を徹底的に調査(のちの明治12年には万国電信会議のため再度イギリスへ出張)。帰国後は大蔵省紙幣頭、工部大丞、工部大書記官、外務少輔、電信局長などを歴任し、日本の銀行・紙幣制度の確立に多大な貢献を果たします。

その圧倒的な実務能力を買われ、明治15年(1882年)、彼は内務省輔(ないむしょうゆう)の身でありながら第8代東京府知事を兼務します。 当時の東京は、江戸時代の名残を残す無秩序な街並みが広がり、交通渋滞や衛生環境の悪化が深刻でした。明治17年(1884年)11月、彼は内務卿の山縣有朋に対し、「東京市区改正」に関する歴史的な意見書を提出します。 都市改造の全体計画を樹立したうえで、「内務・陸軍・工部・農商務各省と警視庁、さらに商工会から委員を集めて討論することが望ましい」と大局的な調整を提言。同時に、討論の素材として「人口・面積と道路・鉄道・河川・橋梁等の企画を盛り込んだ『市区改正意見草案』」を併せて提出しました。 これを受けた山縣が三条実美太政大臣に伺書を出し、同年12月に「東京市区改正審査会」が設置されました。これによりインフラの整備や築港、そして浅草公園の新設など、現在の「大都市・東京」の土台が築き上げられていったのです。

明治天皇の懸念と「教育勅語」、そして郷土を救った「覚円騒動」

実務家としての名声を確固たるものにし、内務次官を経て、芳川は明治23年(1890年)、第1次山縣内閣において文部大臣に抜擢されます。 しかし、この人事に対し、明治天皇は「芳川には人気(人望)がない」と難色を示したといいます。藩閥の後ろ盾がなく、愚直に実務をこなす彼の姿は、時として無愛想で冷徹に映ったのかもしれません。しかし、山縣有朋が「彼の実務能力こそが今必要である」と強く説得し、就任にこぎつけました。

天皇から直接「徳教に関する箴言の編纂」を命じられた芳川は、近代日本における国民道徳の基本方針となる「教育勅語」の起案・具体化に奔走します。幾度もの推敲の末、同年10月に教育勅語を発布。国家の精神的支柱を完成させるという歴史的偉業を成し遂げました(翌年の第1次松方内閣でも留任し、退任後は宮中顧問官となります)。

国政の中枢で辣腕を振るう一方で、彼は故郷・徳島への愛を忘れませんでした。 当時、吉野川では国と県による本格的な河川改修工事が行われていました。国が舟運及び流路固定のための低水工事である「沈床工」に明治18年2月から着手し、県が狭窄部の覚円(かくえん)堤防を撤去して「引堤により川幅を約320mから約650mへ拡げる工事」を進めていましたが、難航していました。そんな矢先の明治21年(1888年)7月31日、大洪水によって覚円堤防が決壊し、多くの人命と財産が失われます。 怒り狂った住民が暴徒化して県庁へ強訴に向かう「覚円騒動」が勃発し、国の工事が中止に追い込まれました(のちに「千秋の遺憾」と嘆かせた治水史に残る事件)。この危機的状況の中、芳川は当時の金額で1,000万円という莫大な予算をかけた治水大事業に深く関与し、住民の怒りを鎮めて事態を解決へと導きました。郷土を水魔と混乱から救った恩人として、今も語り継がれています。

華麗なる交流と、果てなき社会への献身

その後も彼のキャリアはとどまるところを知りません。明治26年(1893年)の第2次伊藤内閣での司法大臣(第2次松方内閣で8日間留任したのち清浦奎吾へ跡を譲る)を皮切りに、文部大臣の臨時兼任や内務大臣の兼任、そして第3次伊藤内閣での内務大臣、第2次山縣内閣での逓信大臣など、各省の大臣を計8回にわたって歴任します。 明治34年(1901年)の第1次桂内閣で再び逓信大臣に就任したのち、内閣改造で一旦政府を去りますが、明治37年(1904年)には内務大臣として復帰するほどの信頼を得ていました。

明治29年(1896年)6月5日には子爵に叙され、1900年(明治33年)11月28日には貴族院子爵議員の補欠選挙に当選。そして明治40年(1907年)9月21日には伯爵に陞爵(これに伴い互選議員を失職)しました。さらに國學院大學学長、皇典講究所総裁を務め、大正元年(1912年)には国家の最高首脳である枢密院副議長にまで登り詰めました。

政治の世界にとどまらず、彼は公衆衛生や国際交流にも尽力しました。明治40年には日本花柳病予防協会(現・性の健康医学財団)の初代会長に、大正4年(1915年)には南洋協会(現・異文化コミュニケーション財団)の初代会頭に就任しています。

プライベートでは無類の将棋好きであり、福沢諭吉、森有礼、服部金太郎らとともに十二世名人・小野五平の強力な後援者となるなど、明治の元勲たちとの優雅な交流も楽しんでいました。三女・富子は藤田財閥2代目の藤田平太郎へ嫁ぐなど、芳川家はまさに我が世の春を謳歌していました。

晩年を襲った悲劇 — 世間を震撼させた「千葉心中」

しかし、栄光の頂点にいた彼の晩年は、思いもよらぬ「家族の業」によって無惨に引き裂かれます。

芳川には男子がいなかったため、四女・鎌子に、大蔵大臣や外務大臣を歴任した曾禰荒助子爵の次男・寛治(明治15年・1882年生まれ)を婿養子に迎えました(寛治は明治42年の結婚当時、三井物産の社員でした)。しかし、この寛治は極めて身持ちが悪く、妾の家に入り浸り、夫婦関係は完全に破綻していました。 絶望し、孤独に苛まれた鎌子が心の拠り所としたのは、芳川家の「お抱え運転手」である倉持陸助でした。身分の壁を越えて深く愛し合うようになった二人は、大正6年(1917年)、ついに家を飛び出します。そして千葉駅近くで、走ってくる列車に飛び込むという心中未遂事件を引き起こしました。

命こそ取り留めたものの、由緒正しき伯爵家の若夫人と運転手の不倫逃避行は「千葉心中」と呼ばれ、新聞の格好のスクープとなり、日本中を巻き込む大スキャンダルへと発展します。 この前代未聞の醜聞により、芳川は道義的責任をとって枢密院副議長を辞任。公の舞台から去ることを余儀なくされました。

冷徹な官僚が隠し持っていた「親心」

事件後、鎌子は運転手(後に一人で自殺)の後任の運転手と再び恋仲になり、家を飛び出します。激怒した芳川は、ついに娘を勘当しました。 しかし、法の番人(司法大臣)まで務めた厳格な父は、冷徹になりきれませんでした。世間の冷たい風に晒され、生活に困窮する娘の姿を見かねた芳川は、周囲の目を盗み、陰ながらこっそりと娘に仕送りを続けていたのです。

事件の原因を作った放蕩婿の寛治は、世間体もあって家から追い出されることはなく、芳川の死後に伯爵を継ぎます。スキャンダルで貴族院議員への道が絶たれた彼は実業界へ進み、台湾鉱業、磐城鉱業、足利紡績、池上電気鉄道(大正10年)、満州繊維工業(昭和16年)、藤田組(昭和18年)などの社長を歴任し、昭和31年(1956年)に没しました(寛治の死後、家督は娘婿の芳川三光が継ぎました)。

大正9年(1920年)1月10日、腎臓炎のため79歳でこの世を去った芳川顕正(従一位)。藩閥という絶対的な壁を己の才覚だけで乗り越え、国家の近代化にすべてを捧げた偉人は、最後の最後に「家族という人間社会の最も複雑な難題」に直面し、静かに幕を下ろしました。

Information

芳川顕正を深く知る「この一冊!」

大正時代、実際に起こったスキャンダルをもとに、運命に翻弄された悲恋の行方を描いた名作

本のご紹介

伯爵夫人の肖像 (徳間文庫 す 19-1) / 杉本苑子 (著)

文庫 – 2018/9/7

国家の重鎮である芳川顕正の晩年を揺るがした大スキャンダル「千葉心中」を題材にした歴史小説。新聞記者・広瀬為次郎の目線から、華やかに見える「芳村伯爵家(芳川家の仮名)」の裏側に隠された夫婦の愛憎、華族社会の頽廃、そして運命に翻弄される悲恋の行方を鮮やかに描き出した名作です。

📍【完全網羅版】芳川顕正の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

徳島から長崎、そして東京へと駆け上がった彼の足跡は、今も各地に残されています。

【徳島県エリア】 誕生と郷土への貢献

  • 芳川顕正伯爵生家跡・頌徳碑(徳島県吉野川市山川町川田1204):
    • 彼が生まれ育った原田民部家の屋敷跡。現在は吉野川市指定史跡(1983年12月15日指定、2017年3月17日再指定)として保存されており、家屋の礎石や井戸、ゆかりの樹木が残っています。南に高越山を望み、北には吉野川が流れる原風景を偲ぶことができます。木像や書画、伝記など60点余りの遺品が現存のまま保存され、2021年には地元住民団体「山川の文化財を守る会」により功績を後世に伝える「頌徳(しょうとく)碑」が建立されました。
  • 覚円騒動の舞台(吉野川・旧覚円堤防周辺)(徳島県名西郡石井町藍畑字西覚円周辺):
    • 明治21年7月31日の大洪水と、それに伴う河川改修工事(沈床工や引堤による川幅拡張)の遅れから住民が蜂起した舞台。「千秋の遺憾」と語り継がれるこの騒動の鎮圧と吉野川の治水事業に、芳川が尽力した歴史の現場です。

【長崎県エリア】 伊藤博文との運命の出会い

  • 小島養生所跡(長崎県長崎市西小島1丁目周辺):
    • 芳川が医学と化学を修め、英学を学んだ養生所の跡地。現在は仁田佐古小学校付近に碑が建っています。
  • 大徳寺跡(長崎県長崎市西小島1丁目):
    • 小島養生所のすぐ下にあった寺院。宣教師フルベッキが居住し、イギリス帰りの伊藤博文が「吉村荘蔵」の偽名で潜伏していた場所です。芳川が通って英文法を教え込んだ、彼の出世の原点です。

【東京都・千葉県エリア】 国家の中枢での活躍と終焉

  • 青山霊園(芳川顕正 墓所)(東京都港区南青山2-32-2):
    • 激動の生涯を閉じた彼の魂が眠る墓所。「1種イ21号9側」に位置し、芳川顕正と夫人の墓、そして伯爵芳川家の墓の三基が建ち並んでいますが、墓誌が無いため、誰がどの墓に葬られているか厳密には確認できません(当主となった寛治は伯爵家の墓に葬られたと思われます)。
  • 浅草公園(現・浅草寺周辺)(東京都台東区浅草):
    • 東京府知事時代の明治17年(1884年)、彼が主導した市区改正の一環として公園区画が制定され、新設された憩いの場です。
  • 皇典講究所跡(國學院大學発祥の地)(東京都千代田区飯田橋3-5):
    • 明治43年(1910年)から翌年にかけて、彼が学長および総裁を務め、教育者としての一面を発揮した学び舎の跡地(現在の東京区政会館敷地内に記念碑が建っています)。
  • 千葉心中の舞台(旧千葉駅周辺)(千葉県千葉市中央区):
    • 四女・鎌子とお抱え運転手が列車に飛び込み、日本中を巻き込む大スキャンダルとなった悲劇の現場(現在の千葉市民会館付近にあった旧千葉駅近く)です。

💬芳川顕正の遺産:現代社会へのメッセージ

「自分にしかできない武器(スキル)を磨き、それを必要とする者の懐に飛び込め」

芳川顕正の生涯は、強烈な「実力主義の体現」です。 長州や薩摩の出身者が優遇され、コネと血縁がモノを言った明治政府において、阿波の町医者の息子であった彼には何の後ろ盾もありませんでした。彼が武器にしたのは、長崎で必死に身につけた「英語力」と、そこから得た「海外の最先端の実務知識(銀行・紙幣・インフラ整備)」だけでした。 伊藤博文という絶対的権力者に「英語を教えた」という運命の出会いを確実にチャンスに変え、その後の猛烈な働きぶりで「無愛想だが実務能力は最高だ」と山縣有朋ら元勲たちを認めさせたのです。

「自分にはコネがない」「環境に恵まれていない」と嘆く前に、自分が持つスキルを磨き、それを必要としている人物の懐に飛び込むこと。芳川の立身出世の軌跡は、現代を生きるビジネスパーソンにとって、最高のキャリア戦略の教科書と言えるでしょう。

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