神奈川県の偉人:吉川英治 — 「宮本武蔵」を生み出した「国民文学の父」
「苦難のないことが幸福なのではない」
この言葉は、『宮本武蔵』『三国志』『新・平家物語』など、数々の名作を世に送り出し、国民文学作家と称された吉川英治(よしかわ えいじ)の人生哲学を象徴しています。
神奈川県久良岐郡(現在の横浜市)に生まれ、父の事業失敗による貧困、小学校中退、幾多の職を転々とする波乱の少年期を経て、大衆文学の頂点へと上り詰めた彼の生涯は、まさに彼が描いた物語のようにドラマチックでした。
幼少期の苦難と、文学への目覚め
吉川英治(本名:英次)は、1892年(明治25年)8月11日、神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市中区)にて、旧小田原藩士・吉川直広と母・いくの次男として生まれました。
父・直広は牧畜業や貿易仲買などを手掛けましたが、事業の失敗や投獄など浮き沈みが激しく、家運は急激に傾きました。そのため英治は、山内尋常高等小学校を卒業目前にして中退を余儀なくされました。
📌 職を転々とする日々
10代の英治は、蒔絵師の徒弟、ドックの船具工など、様々な職を転々としました。特に18歳の時、横浜ドックでの作業中に船底へ墜落し、重傷を負う事故に遭いました。九死に一生を得たこの経験は、彼の人生観に大きな影響を与えたと言われています。
苦しい生活の中でも、彼は独学を続け、雑誌への投稿や川柳に情熱を注ぎました。「雉子郎(きじろう)」の号で川柳家として名を成し、その鋭い感性を磨いていきました。
作家への道:『宮本武蔵』の誕生
1914年(大正3年)、『江の島物語』が講談社の懸賞小説に入選したことを皮切りに、英治は作家としての道を歩み始めます。新聞記者を経て、関東大震災を機に執筆に専念する決意を固めました。
1925年(大正14年)、『キング』誌に連載した『剣難女難』で初めて「吉川英治」のペンネームを使用し、一躍人気作家の仲間入りを果たしました。
📌 国民的ベストセラー『宮本武蔵』
1935年(昭和10年)から朝日新聞で連載が始まった『宮本武蔵』は、剣禅一如を目指す求道者としての武蔵を描き、空前の大ヒットとなりました。太平洋戦争下の日本人の精神的支柱となり、現代に至るまで読み継がれる不朽の名作となりました。
「我以外皆我師(われいがいみなわがし)」という武蔵の座右の銘は、英治自身の人生哲学でもありました。
戦後の大作と、晩年のメッセージ
敗戦のショックから一時筆を折った英治でしたが、親友・菊池寛の励ましにより再起します。
- 『新・平家物語』:敗れた平家の姿に戦後の日本を重ね合わせ、週刊朝日に7年にわたり連載。第1回菊池寛賞を受賞しました。
- 『私本太平記』:逆賊とされてきた足利尊氏を新たな視点で描き直し、歴史小説の枠を広げました。
晩年まで精力的に執筆を続け、1960年(昭和35年)には文化勲章を受章。1962年(昭和37年)、肺癌のため70歳でその生涯を閉じました。
吉川英治を深く知る「この一冊!」
吉川文学への格好の入門ガイドブック

吉川英治の世界 (講談社文庫 よ 11-1) / 吉川 英明 (著)
文庫 – 1984/2/1

吉川英治の長男・英明氏が、父の想い出、人柄、そして作品にまつわる家族の歴史を綴った随想集です。遺愛の品や記念写真、自筆年譜なども収録されており、国民的作家の素顔に触れることができる、吉川文学への格好の入門ガイドブックとなっています。
📍吉川英治ゆかりの地:文学の足跡を辿る旅
- 吉川英治記念館(東京都青梅市柚木町1-101−1):吉川英治執筆活動の聖地としてー当館は「宮本武蔵」や「私本太平記」など、歴史小説で国民的作家として知られる吉川英治が戦時中この地へ移り住み、9年5カ月住んだ場所に建てられました。昭和52年より吉川英治国民文化振興会により 運営されておりましたが、令和2年4月に青梅市に寄付され、 同年9月7日に市の施設としてオープンしています。
- 紅梅苑(東京都青梅市梅郷3-905-1):吉川英治は、生前こよなく紅梅を愛し、雪中に映えるその色をめでていました。現在、吉川英治記念館の建つ青梅吉野梅郷は、戦中戦後にかけて英治が住み「新・平家物語」を執筆したゆかりの地です。その英治の愛した紅梅にちなんで、ささやかな菓子どころを「紅梅苑」と名づけました。梅の風味を生かしたかずかずの和菓子や冷菓、お食事には栗おこわのお重も用意してございます。記念館のお休み処として是非お立ち寄りくださいませ。(紅梅苑WEBサイトより)
- 吉川英治記念碑(神奈川県横浜市南区唐沢15):吉川英治は横浜市中区山元町で生まれ、少年期を南区唐沢や平楽で過ごしたとされる。2024年9月7日の命日「英治忌」に南区唐沢の横浜植木株式会社の正門に建立された文学碑の除幕式が行われた。文学碑は縦60センチ・横90センチで、「宮本武蔵」の巌流島の場面を描き、略年譜や当時の横浜植木構内地図も刻まれている。「横浜が生んだ文豪・吉川英治」を地域の誇りとして紹介し、その生い立ちや文学的背景を来訪者に伝える。
- 吉川英治文学碑(温川山荘の庭・青森県平川市切明津根川森1-32):平川市は吉川英治ゆかりの地。「温川山荘」で小説を執筆したことを記念して、その敷地内に文学碑が建てられた。
- 吉川英治文学碑(本照寺・岩手県宮古市1-4-6・旧愛宕小学校跡地):本照寺は、吉川英治が、その代表作である「宮本武蔵」を書き初めたところとされる。吉川英治と本照寺の関係は吉川英治の妹が、本照寺住職・関口養隆の弟と結婚しておりこれが縁となっている。平成10年(1998年)3月、宮古市では愛宕小学校校庭脇に、吉川英治が宮古を訪れた際に詠んだとされる「寺を出て 寺までかへる 盆の月」の句の石碑を建立した。
- 吉川英治ゆかりの宿「逆巻温泉・川津屋」(新潟県中魚沼郡津南町結東丑84-1):新潟県津南町と長野県栄村にまたがる秋山郷は日本有数の豪雪地で、温泉も多い。特に紅葉の時期には多くの観光客や宿泊客で賑わう。苗場山や鳥甲山の登山の入り口としても有名な場所で、平家落人の里ととしても知られている。吉川英治は「新・平家物語」の執筆にあたり、平家の落人説のある秋山郷を旅し、津南町の逆巻にある逆巻温泉川津屋にて「新・平家物語」の構想を練り、執筆した。
- 初代臼井町町長・山上辨三郎邸跡碑(千葉県佐倉市江原台1-9-4・江原台自治会館前):碑には「辯三郎の息女は国民文学の父といわれる吉川英治の母であり娘時代をこの地で過ごした」とある。
- 吉川英治歌碑(千葉県佐倉市鹿島干拓地先飯野竜神橋付近):「萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな 高きを忘れただぬくもれり」とある。
- 吉川英治揮毫の看板・船橋屋本店喫茶室(東京都江東区亀戸3-2-14・亀戸天神前本店):本店喫茶室に飾られている看板は文豪・吉川英治にご揮毫いただいたものです。吉川英治は執筆に疲れるとパンに黒蜜をぬって食べるのが好きで、様々な蜜を試したあげくに最も美味だと選んだのが船橋屋の黒蜜でした。これがご縁で、船橋屋の看板文字をご揮毫いただきました。昭和28年の暮れに看板文字をお願いに参上した際「今まで看板はいうまでもなく、大きな文字を書いた事がありません。おそらくこれが初めてであり、最後でしょう。」と快諾して下さいました。そして、昭和29年正月2日に看板文字を書いて下さり、4、5日してから吉川先生の奥様より「できましたから、どうぞ」とご連絡がありました。大きな文字は決して書かなかったこの作家が唯一残した大看板は、今も本店の喫茶室に掲げられております。(船橋屋WEBサイトより)
- 神奈川近代文学館(神奈川県横浜市中区山手町110):神奈川にゆかりのある文学者とその作品、および近代日本文学に関する資料を収集・保存・公開している。
- 吉川英治句碑(愛知県海部郡蟹江町大字蟹江新田字下西野):昭和17~18年頃、この地を訪れた文豪吉川英治(1892-1962)が詠んだ「佐屋川の 土手もみちかし 月こよひ」 という句が刻まれています。吉川英治は蟹江を訪れた際に水路の多い素朴な風景を「東海の潮来」と称して愛で、佐屋川と蟹江川が出合う場所でこの句を詠んだとされています。この句碑は、当初、吉川英治とゆかりのある地元有志の方により蟹江川畔に建てられて昭和39年(1964)に蟹江町に寄付されたものを、平成24年(2012)春に佐屋川尻に移設したものです。
- 吉川英治文学碑(滋賀県長浜市国友町):姉川沿いに吉川英治文学碑が建つ。
元亀元年六月二十八日 まだ夜の明けないうちであった 槍と槍 太刀と太刀 又 組む者 馬上から 落ちる者 姉川の水は 血か 映じる朝陽か 鮮紅燦々と 揺れに揺れた 吉川英治「新書太閤記」より
- 吉川英治句碑(岡山県美作市宮本946・宮本武蔵生家跡の裏側):
讃甘ノ谷間百合 此百合折るか時鳥啼く 〈吉川英治句碑案内〉 吉川英治先生 昭和十二年六月二十七日 来訪時の句 建立 令和三年六月二十日 宮本武蔵顕彰会 武蔵の里大原観光協会
- 吉川英治文学碑(音戸の瀬戸公園内・広島県呉市警固屋8):1950年(昭和25年)12月、文豪吉川英治が小説「新平家物語」の取材のため音戸の瀬戸を訪れた際に残した感懐、対岸の清盛塚に向き「君よ今昔の感如何」を富士形の石に刻み、平清盛になぞらえた円形の石とともに、瀬戸を望んで建てられています。1963年(昭和38年)5月に完成したこの句碑は富士型をした二河峡の自然石で造られていて、平清盛に見立てた無知無紋の円形の石と対話の形で並んでいます。このように吉川英治と平清盛は、音戸の瀬戸で毎日話をしているのです。これを記念して毎年5月3日には「吉川英治文学碑記念祭」が催されています。
- 鳴門秘帖文学碑(鳴門公園・徳島県鳴門市):「鳴門秘帖」は大正十五年八月から翌年の昭和二年十月まで大阪毎日新聞に連載されそれまで無名だった吉川英治の名を作家として不動のものにした作品である。鳴門の渦潮を背景に法月弦之丞見返りお綱お十夜孫兵衛など多彩な人物が織りなす波乱万丈の物語は後の作品である「宮本武蔵」「新平家物語」などの大作に伍して作者の空想力が大きく花開いた伝記小説の傑作として異彩を放っている。阿波藩主蜂須賀侯が茶室を設けて観潮したと伝わるこの地に「鳴門秘帖」の文学碑を建立する。昭和五十三年十一月八日鳴門市長谷光次
- 鳴門秘帖文学碑(薬王寺・徳島県海部郡美波町奥河内寺前285-):薬王寺は『鳴門秘帖』の舞台で、主人公とその追手が薬王寺の境内で出会い、やがて山裾での大立ち回りが描写される。
- 佐々木小次郎像(山口県岩国市横山2-4):「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また 剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」吉川英治の小説「宮本武蔵」の一節。「宮本武蔵」では、岩国出身となっているが、真相は不明。
- 吉川英治詩碑(亀山八幡宮・山口県下関市中之町):「こゝは心の ふるさとか そゞろ詣れは 旅こゝろ うたゝ童に かへるかな」この詩は昭和25年(1950年)、伊勢神宮を参拝した吉川英治が詠んだもので、これにより、伊勢神宮が「日本人の心のふるさと」と言われるようになったという。平成21年(2009年)に設置された。
- 多磨霊園(東京都府中市多磨町4-628):墓は建築界の大御所谷口吉郎の設計によって建立、 湯飲茶碗の竿石に吉川英治と記され、台石は黒石で縁取られ、 その中は竿石と同じような白系の花崗岩。
- 吉川家の墓石(蓮光寺・神奈川県横浜市中区石川町3-128):吉川英治の墓は多磨霊園にあるが、それまで吉川家の墓所は中区石川町の蓮光寺の墓地にあり、蓮光寺境内に移されて保存されている。
💬吉川英治の遺産:現代社会へのメッセージ
吉川英治の作品は、単なる娯楽小説を超え、人生の指針となる深いメッセージを含んでいます。
「朝の来ない夜はない」(『私本太平記』)
「世間に媚びずに、自分を動かないものに作り上げろ」(『宮本武蔵』)
彼の言葉は、困難な時代を生きる私たちに、希望と勇気、そして自己研鑽の大切さを力強く語りかけています。苦難を乗り越え、自らの力で道を切り拓いた彼の人生そのものが、私たちへの最大の応援歌なのです。
C)【歴史キング】