佐賀県の偉人:大隈重信 — 「学問の独立」と「議会政治」を築いた不屈の巨人、“民衆の大宰相”
プロフィール
大隈 重信(おおくま しげのぶ)
1838(天保9)年3月11日生│1922(大正11)年1月10日(83歳)
「内閣総理大臣(第8・17代)」「早稲田大学創設者(初代総長)」
- 出身地:肥前国佐賀城下(現在の佐賀県佐賀市)
- 爵位:侯爵
- 異名:佐賀の七賢人、民衆の大宰相、早稲田の老侯
- 代表的な実績:鉄道建設、通貨(円)制定、地租改正、早稲田大学創設、政党内閣樹立
- 座右の銘:「学問の独立」
- 好物:マスクメロン(日本で初めて栽培・普及させたと言われる)、丸房露
- エピソード:日本初の始球式を行い、ストライクゾーンを大きく外したが、打者が気を使って空振りしたため「始球式は空振りする」という慣例が生まれた
「わが輩は、足が一本なくなった。その分、体に血がめぐりやすくなって、かえって健康になったのである」
爆弾テロで片足を失い、生死の境をさまよった直後にこう言い放てる人物が、果たして歴史上何人いるでしょうか。 大隈重信(おおくま しげのぶ)。
明治・大正という激動の時代、薩摩・長州の藩閥政治家たちが権力を握る中で、佐賀出身の彼は圧倒的な「弁舌」と「構想力」、そして底抜けの「明るさ」を武器に、日本の近代化を牽引しました。
日本円の「円」を作り、日本初の「鉄道」を走らせ、早稲田大学を創って「学問の独立」を叫び、日本初の「政党内閣」を樹立した男。 常に民衆と共にあり、83歳で亡くなった際の「国民葬」には30万人以上が詰めかけ、東京の交通が麻痺したといいます。 佐賀が生んだ「七賢人」の一人であり、今なお早稲田の杜から、そして国会議事堂の中央から日本を見守る巨人の、85年に及ぶ波乱と痛快に満ちた生涯に迫ります。
佐賀の「反骨少年」、長崎で世界を見る
1838年(天保9年)、肥前国佐賀城下(現在の佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士・大隈信保の長男として生まれました。幼名は八太郎。 佐賀藩は、長崎警備を担当していたことから海外の情報に明るく、名君・鍋島直正(閑叟)の下で反射炉や大砲を自製するなど、当時の日本で最も先進的な科学技術を持つ「ハイテク藩」でした。
そんな進取の気風の中で育った大隈は、幼い頃から筋金入りの「反骨精神」の持ち主でした。藩校「弘道館」の旧態依然とした儒教教育(朱子学)に反発し、寮生と大喧嘩をする「南北騒動」を起こして退学処分になります。しかし、これが彼の転機となりました。 「これからは古い学問じゃない。世界を知るための学問だ」。 彼は蘭学(オランダ語)の道へと進み、さらに藩命で長崎の英学塾「致遠館(ちえんかん)」の教頭格となります。
ここでアメリカ人宣教師フルベッキから英語と西洋の法制度、キリスト教精神を学び、さらに岩崎弥太郎(三菱創業者)や五代友厚らと交流して国際的な経済感覚を磨きました。 「これからは英語の時代だ」。 いち早く時代の変化を嗅ぎ取った彼の先見性が、後の明治政府での大躍進を約束することになります。
「築地梁山泊」と日本の近代化:鉄道・通貨・外交
明治維新後、新政府に出仕した大隈は、その卓越した「交渉力」と「構想力」で瞬く間に頭角を現します。 デビュー戦は外交でした。浦上キリシタン弾圧問題で、イギリス公使パークスが「日本は野蛮国だ」と罵倒した際、大隈は一歩も引かず、国際法と宗教史を引用して堂々と反論。この度胸と論理的思考が評価され、政府の中心人物へと駆け上がります。
参議兼大蔵卿(現在の財務大臣)となった大隈の私邸は、伊藤博文や井上馨、渋沢栄一ら若き改革派官僚が夜な夜な集まり議論を戦わせる「築地梁山泊」と呼ばれ、ここから日本の新しい国づくりが次々と生まれました。
1. 日本初の鉄道建設
「陸蒸気(おかじょうき)など不要だ、敵に攻め込まれる」という西郷隆盛ら軍部の猛反対を押し切り、大隈は鉄道建設を強行しました。高輪周辺で軍部が土地を譲らなかったため、「ならば海の上に堤防を作って走らせればいい」と、海上に「高輪築堤」を築いて線路を通すという離れ業をやってのけます。1872年、新橋-横浜間の開通により、日本の近代化は加速しました。
2. 「円」の制定
江戸時代の複雑な藩札や「両・分・朱」という四進法の貨幣制度を廃止し、世界標準である十進法の新通貨「円」を制定しました。指で輪を作って「お金」を表すジェスチャーは、大隈が「円(丸い形)だから、こうだ」と示したのが始まりだと言われています。
下野、そして「早稲田大学」の創設
政府内で急速な近代化と「国会開設」を主張した大隈は、漸進論を唱える伊藤博文らと対立。1881年(明治14年)、疑惑をかけられ政府を追放(下野)されるという最大の挫折を味わいます。 しかし、ここからが「大隈重信」の真骨頂でした。
「政府がやらないなら、民間の力でやる」。 翌1882年、彼は立憲改進党を結成し、さらに「東京専門学校(現在の早稲田大学)」を創設します。 当時の帝国大学(東大)が「政府に従順な官僚育成」を目的としていたのに対し、大隈が掲げたのは「学問の独立」。権力に屈せず、在野精神を持って社会に貢献する「模範国民」を育てることこそが、国の本当の力になると信じたのです。
爆弾テロと右脚の切断、それでも失わぬ明るさ
その後、外交手腕を買われて外務大臣として政府に復帰しますが、条約改正交渉に反対する国家主義者・来島恒喜に爆弾を投げつけられ、右脚を切断する重傷を負います(大隈重信遭難事件)。 しかし、彼は犯人を恨むどころか、「爆弾を食らって世論を覆そうとする勇気は感心する」と語り、後に犯人の法要に毎年代理人を送ったといいます。 義足となった大隈は、リハビリを経て奇跡的に復活。 「我が輩は足が一本なくなったため、その分血の巡りがよくなって、以前より壮健になったのだ」 そう豪語する彼の底抜けの明るさと、不屈の精神は、国民を惹きつけてやみませんでした。
日本初の「政党内閣」と「民衆の大宰相」
1898年(明治31年)、かつての宿敵・板垣退助と手を組み「憲政党」を結成。日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣に就任します。これは短命に終わりましたが、大正3年(1914年)には76歳にして第2次内閣を組織。 第一次世界大戦への参戦や対華21カ条要求など、難しい外交舵取りを行いました。
彼は日本で初めて「遊説(地方を回って演説すること)」を行った首相でもあります。演説の名手であり、停車場の窓から顔を出して演説し、「大隈の演説を聞けば、誰もがそのファンになる」と言われるほどでした。 晩年は「人生125歳説」を唱え、早稲田大学の総長として教育や文化活動に尽力。1922年、83歳で死去した際に行われた「国民葬」には、日比谷公園に約30万人もの民衆が押し寄せ、その別れを惜しみました。これほどまでに国民に愛された政治家は、日本憲政史上、稀有な存在です。
大隈重信を深く知る「この一冊!」
大隈重信の知られざる政治家生涯に迫る!

明治から大正の危機を救った大隈重信の功績:議会政治をつくる苦闘の道 / 鈴木 荘一 (著)
単行本(ソフトカバー) – 2023/10/10

「佐賀の七賢人」の一人でありながら、薩長藩閥の中でいかにして頭角を現し、追放され、そして復活したのか。パークスとの論争から、鉄道建設、そして二度の総理大臣就任まで、日本の議会政治の礎を築いた大隈の「苦闘」と「功績」に焦点を当てた一冊。彼の政治家としての真価を知るための必読書です。
📍【完全網羅版】大隈重信の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
大隈重信の足跡は、生誕の地・佐賀、教育と政治の拠点・東京、そして彼が愛した別荘地やゆかりの場所に数多く残されています。国会議事堂の銅像や、運命を変えた遭難の地など、重要なスポットを網羅的にリストアップしました。
【佐賀県佐賀市】 生誕と青春の地
佐賀市内には、大隈のルーツと人格形成を知るための極めて重要な史跡が集中しています。
- 大隈重信旧宅(生家)(佐賀市水ヶ江2-11-11):国の史跡。大隈が生まれ育った武家屋敷が現存しています。彼が勉強部屋として使い、後に若き志士たちが集い議論した「築地梁山泊」の原点ともなる部屋を見ることができます。
- 大隈重信記念館(佐賀市水ヶ江2-11-11):生家の隣に建つ記念館。義足や愛用したステッキ、大礼服、直筆の書などの貴重な遺品や、その生涯を解説する資料が展示されています。
- 弘道館跡(佐賀市松原2-5-22):大隈が学び、改革を訴えて退学となった佐賀藩校の跡地。現在は記念碑が建っています。
- 龍泰寺(りゅうたいじ)(佐賀市赤松町24-18):大隈家の菩提寺であり、大隈重信の墓所(分骨)があります。ここには彼が敬愛した父・信保や母・三井子の墓もあり、大隈は帰省のたびに参拝しました。
- 高伝寺(こうでんじ)(佐賀市本庄町大字本庄1112-1):鍋島家の菩提寺。境内には幼少期の大隈が登って体を鍛えたという「八太郎槇(はちたろうまき)」の木が残っています。
- 龍造寺八幡宮(佐賀市白山1-4-56):若き日の大隈が副島種臣らと参加した尊皇派グループ「義祭同盟」が結成された場所。境内には楠木正成の像や碑があります。
- 旧古賀家(佐賀市歴史民俗館)(佐賀市柳町3-15):大隈が明治以降に帰省した際、定宿として滞在した旧古賀銀行頭取・古賀善平の邸宅。大隈がくつろいだ当時の座敷が残されています。
- 鶴屋菓子舗 本店(佐賀市西魚町1):大隈がこよなく愛した佐賀銘菓「丸房露(まるぼうろ)」の老舗。大隈は帰省のたびに立ち寄り、東京へのお土産として大量に購入したといわれています。
【東京都】 早稲田、国会、そして近代化の舞台
- 早稲田大学 早稲田キャンパス(東京都新宿区西早稲田1-6-1):大隈が創設した大学。
- 大隈重信銅像:キャンパスの中央に立ち、大隈講堂を見つめるガウン姿の立像(朝倉文夫作)。
- 大隈講堂:早稲田のシンボル。時計台の高さ125尺(約38m)は、彼が唱えた「人生125歳説」に由来します。
- 大隈庭園:大隈邸の庭園跡。彼が愛した多様な植物や、収集した石灯籠などが残されています(開園日要確認)。
- 国会議事堂・中央広間(東京都千代田区永田町1-7-1):
- 中央広間の四隅には、日本の議会政治の基礎を築いた3人の銅像が立っており、板垣退助、伊藤博文と共に大隈重信の銅像が設置されています(※国会見学等で見ることができます)。
- 憲政記念館(東京都千代田区永田町1-1-1):国会の近くにあり、大隈をはじめとする政治家の資料や肉声演説などを聞くことができます。
- 大隈重信遭難の地碑(東京都千代田区霞が関1-3-1):
- 現在の経済産業省の敷地内(植え込みの中)にひっそりとあります。外務大臣時代、ここで爆弾を投げつけられ右脚を失いました。
- 大隈重信墓所(護国寺)(東京都文京区大塚5-40-1):
- 大隈のメインの墓所。惣門を入って右手に進んだ墓地エリアにあり、国会議事堂を模したような独特な形をした巨大な墓石が建っています。国民葬の後、ここに埋葬されました。
- 高輪築堤跡(高輪ゲートウェイ駅周辺)(東京都港区港南):
- 日本初の鉄道を通すために大隈らが海上に築いた堤防の跡。2019年に出土し、一部が現地保存・移築保存されています。大隈の英断の証です。
- 雉子橋(きじばし)邸跡碑(東京都千代田区九段南1-2-1):
- 千代田区役所の敷地内にあります。大隈が明治9年から17年まで住み、明治14年の政変の舞台となった邸宅の跡地です。
- 日本女子大学(東京都文京区目白台2-8-1):
- 創立者・成瀬仁蔵に協力し、大隈が創立委員長を務めました。構内には大隈を記念した豊明図書館などがあります。
- 早稲田奉仕園(友愛学舎)(東京都新宿区西早稲田2-3-1):
- 大隈が宣教師ベニンホフに依頼して設立した学生寮が起源。東京都選定歴史的建造物「スコットホール」があります。
【長崎県長崎市】 飛躍の地
- 致遠館跡(長崎県長崎市五島町):佐賀藩が長崎に設けた英学塾の跡。大隈はここで教頭格としてフルベッキに学び、また学校運営を行いました。現在は解説板が設置されています。
【神奈川県・長野県】 愛した別荘地
- 大隈公園(大隈別荘跡)(神奈川県小田原市国府津3-13):
- 明治40年に構えた「国府津別荘(臥竜庵)」の跡地。現在は公園として整備され、大隈重信の胸像が設置されています。
- 大隈通り(軽井沢)(長野県北佐久郡軽井沢町):
- 三笠ホテル近くに別荘がありました。現在は敷地の一部が分割されていますが、面していた通りは「大隈通り」と呼ばれ、その名を留めています。
💬大隈重信の遺産:現代社会へのメッセージ
「一身一家、一国のためにのみ奉仕するを以て満足するなかれ。世界人類のために尽くさずんばあるべからず」
大隈重信の生涯は、失敗の連続でした。藩校を退学になり、政府を追放され、テロで足を失い、作った内閣は短命に終わる。 しかし、彼はそのたびに「楽天主義」と「不屈の精神」で立ち上がり、以前よりも大きく成長して帰ってきました。
現代社会において、私たちは失敗を恐れ、挑戦を躊躇しがちです。 しかし、大隈は教えてくれます。 「失敗したっていいじゃないか。足がなくなれば血の巡りが良くなるさ」 この圧倒的なポジティブ思考と、権力に頼らず自らの力で道を切り拓く「在野の精神」こそが、閉塞感漂う現代日本を打破する鍵となるのではないでしょうか。
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