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山形県の偉人:我妻栄 — 「ダットサン民法」を創り、権力に屈しなかった反骨と人情の法学者

プロフィール

我妻 栄(わがつま さかえ)

1897(明治30年)年4月1日生│1973(昭和48)年10月21日没(享年76歳)
「法学者」「ダットサン民法」

  • 出身地:山形県米沢市鉄砲屋町(現・米沢市中央三丁目)
  • 職業・肩書き:法学者(専門は民法)、東京大学名誉教授、日本学士院会員(第二分科委員長・運営委員・建築委員等)、日本学術会議副会長(初代会長・亀山直人を補佐)、法務省特別顧問、貴族院議員(無所属倶楽部/1946年6月19日勅選〜1947年5月2日退任)、農地改革立法参与・中央農地委員、東洋音楽学校校長、日本放送協会(NHK)経営委員会委員
  • 学歴・成績:興譲小学校、米沢中学(5年間首席・平均96.07点/四秀才の一人)、第一高等学校(入学・卒業一番。2年次のみ大熊興吉が首席)、東京帝国大学法学部独法科(1年次岸信介と同点1位の82.6点。高等文官試験合格)。東大助手(1年間特選給費生)。米・英・独・仏など5か国へ留学。米ウィスコンシン州マディソンで市村朝蔵(のちの早大教授)夫妻と知遇を得る。シカゴ大でスモール『財産社会学』、コモンズ『資本主義の法的基礎』、パウンド『法制史の解釈』を熟読。ロンドン滞在後、ベルリンで中川善之助と東大図書館のための図書購入に奔走し、マックス・ヴェーバー等を熟読(家庭教師はコンラーディ)。
  • 称号・受章:法学博士(論文『親族法』)、文化勲章(1964年)、贈従二位(没時叙位)、贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)、米沢市名誉市民
  • 主な功績
    • 「ダットサン民法」をはじめ、『民法講義I-V4』(昭和7〜47年刊行)などによる日本民法体系(我妻民法)の確立と、判例を重視した法解釈論の展開。
    • 大学教授の二大任務(体系書の執筆と終生的研究)の実践。
    • 論文『近代法における債権の優越的地位』(1925〜1932年発表)などによる資本主義と私法の変遷の研究(所有権論、債権論、企業論の構想。企業論は『経済再建と統制立法』を上梓し未完)。
    • 日本国憲法制定に伴う家族法の大改正と「家」制度廃止の主導。
    • 私財1,600万円を投じた「自頼奨学財団」の設立。
    • 三菱樹脂事件における企業側意見書の執筆(宮沢俊義、兼子一と共同)。宮本康昭裁判官再任拒否問題における最高裁への批判。
  • 交友・関係の深い人物:岸信介(一高・東大時代の同級生・親友)、鳩山秀夫(恩師)、牧野英一(新派刑法理論を指導)、赤井運次郎(小学校時代の恩師)、中川善之助(留学時の盟友)、許世楷(保証人となって救った政治学者)、南原繁(戦後初の東大総長)、唄孝一(愛弟子/記念館資料を整理)、浜田広介(中学の級友)、嘉治隆一・三輪寿壮(岸の釈放嘆願書を取りまとめた友人)
  • 主な弟子:有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など

「法律は杓子定規でなければならぬ、しかしその適用は杓子定規であってはならぬ」

法学者と聞くと、分厚い六法全書と睨み合い、冷徹な論理を振りかざす堅物というイメージがあるかもしれません。しかし、日本の民法学の最高峰として現在に至る法律の基礎を築き上げた我妻栄(わがつま さかえ)は、そのイメージから最も遠い場所にいる人物でした。

彼の著書は「ダットサン民法」と呼ばれて法曹界のバイブルとなり、戦後の家族法の大改正(「家」制度の廃止など)を主導しました。しかし彼が真に偉大であったのは、法学の業績だけではありません。 若き日からカリエスを患って松葉杖(クラッチ)の生活を強いられ、のちに重さ3.5kgの義足を着用するほどの不自由な体となっても決して明朗さを失わず、のちに総理大臣となる親友・岸信介には新聞紙上で痛烈な退陣勧告を突きつけ、その裏で国家権力に追放されそうになった亡命学者を「裏技」で救い出す。

理屈と人情の絶妙なバランスを極め、最高裁長官の椅子すらも「自分のやるべきことではない」と蹴り飛ばした男。スケールの大きな知の巨人・我妻栄の、人間味あふれる生涯に迫ります。

「品行:乙」のおせっかい少年と、人生を変えた恩師

明治30年(1897年)、我妻栄は山形県米沢市で、英語教師の父・又次郎と、家計を助けるために中学生に国語・漢文・数学を教えた母・つるの長男(5人姉弟で唯一の男子)として生まれました。 父は貧しいながらも教え子の面倒をよく見る人気者で、いつも髪の毛がボサボサに逆立っていたことから「自雷也(じらいや)」とあだ名され、栄少年も「じらいっ子」と呼ばれて育ちました。同郷の童話作家・浜田広介とは中学の級友です。

両親を安心させるため一心に勉強に励んだ栄少年は、頭脳明晰な「教えるのが大好きなおせっかい焼き」でもありました。興譲小学校の授業中、友達が問題を解けずにいると自分の席を離れて教室中を歩き回り、「君の計算はここが違うよ」と教えて回っていたのです。当然先生からは叱られ、成績は全科目「甲(優)」なのに、品行だけはいつも「乙(良)」でした。

しかし、4年生の時に担任となった赤井運次郎先生は違いました。「この子は悪気があるわけではない。親切心から教えているのだ」と見抜き、栄少年を授業の「アシスタント」に指名したのです。 先生に認められ、教える喜びに目覚めた栄少年の品行は見事に「甲」に変わりました。のちに東大で「教えることの天才」と呼ばれる我妻栄の原点は、この恩師の先見の明にあったのです。彼はこの恩を生涯忘れず、自著が完成するたびに必ず献本し、湯河原の別荘で採れたミカンを真っ先に贈り続けました。昭和44年に92歳で先生が逝去した際には、多忙な合間を縫って自ら葬儀委員長を務め上げました。

総理への退陣勧告と、国家権力から「蛙」を救った裏技

米沢中学を5年間首席で卒業し、第一高等学校、東京帝国大学と常にトップの成績を収める「伝説の秀才」となった我妻。一高・東大で彼と首席を争った最大の好敵手こそが、のちの内閣総理大臣・岸信介でした。 二人はライバルでありながら、無二の親友でした。東大の冬休み、伊豆・土肥温泉の「明治館」で試験勉強合宿をした際、我妻が酷い風邪で高熱を出して倒れると、岸は自分の勉強を放り出し、夜通し必死に看病し続けました。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に幽閉された岸のため、我妻は友人らの肝いりでGHQへの釈放嘆願書に署名しています。

しかし昭和35年(1960年)、安保闘争で日本中が揺れる中、我妻は『朝日新聞』に「岸信介君に与える」と題した手記を寄稿します。時の総理大臣であり、命の恩人でもある親友に対し、「君はとんでもない誤りを繰り返そうとしている。今日、君に残された道はただ一つ。直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです」と、痛烈な退陣勧告を突きつけたのです。

その一方で、彼は国家権力に押し潰されそうになっている弱者には全力で救いの手を差し伸べました。 台湾の政治学者・許世楷(きょ せいかい)が独裁政権を批判してパスポートを奪われ、留学ビザからの切り替えを却下されて日本政府から「1週間以内に強制退去せよ」と命じられ絶望していた時のことです。相談を受けた我妻は、彼の複雑な立場を瞬時に理解し、「わかった、私が保証人になろう」とその場で引き受けました。 のちに判明したことですが、この時、我妻はすぐに親友の岸信介に電話を入れ、岸を通じて法務省を動かし、強制退去を裏から覆していたのです。

3.5kgの義足と「ダットサン民法」

恩師・鳩山秀夫の「経済面は僕が保証する」という後押しもあり、学者への道を進んだ我妻。彼は若き日からカリエスを患って松葉杖(クラッチ)の生活を強いられ、のちに重さ3.5kgの義足を着用するほどの不自由な体となっても、その性格は極めて明朗でした。 

留学中は中川善之助らと東大図書館再建のために奔走し、マックス・ヴェーバーらを熟読して見識を深めます。29歳の若さで東大教授に就任した彼は、妻・緑の献身的なサポートを受けながら、「大学教授には体系書を書くことと、重要テーマを終生研究する二つの任務がある」という持論を実践し、日本の民法体系の確立という途方もない作業に没頭します。

彼が目指したのは、冷たい条文の論理的解釈だけでなく、社会生活の実態や人情を織り込んだ「生きた法解釈」でした。彼の著書『民法』は、小型でありながらパワフルで小回りが利く名車になぞらえ、「ダットサン民法」と呼ばれ、法曹界の絶対的なバイブルとなります。 戦後、彼は法学部長として東大総長・南原繁を支え、日本国憲法制定に伴う家族法の大改正において、旧来の「家」制度の廃止と民主化を主導しました。

その卓越した手腕と人望から、のちに「最高裁判所長官」といった最高権威のポストへの就任を強く打診されます。しかし、彼はこれを固辞しました。 「私の念願は、日本の民法体系を誰にでも納得できるようにまとめ上げることです。一民法学者としての仕事を完成することで国に尽くしたい」 傍らのメモ用紙に「守一、無二、無三」(一を守り、二無く、三無し。よそ道に入らず真っ直ぐ歩む)と書き残し、肩書きに一切の未練を見せませんでした。

「人間は堆肥であれ」— 巨星が遺した最後の言葉

晩年の我妻の自己管理は凄まじいものでした。毎朝5時に起きて冷水摩擦と独自の「我妻体操」を行い、水曜日を囲碁の息抜きにあて、それ以外はひたすら執筆に没頭しました。 文化勲章の受章を機に、私財1,600万円を投じて母校に「自頼(じらい)奨学財団」を設立した彼は、高校生向けの講演でこう語っています。

「人間には大器晩成型の堆肥と、化学肥料のような型がある。化学肥料はすぐに効くが土質を悪くし、堆肥は時間をかけて土質そのものを改良する。田舎で育った者は、息の長い『堆肥型』でなければならない」

昭和48年(1973年)春、一粒社の編集者に「僕の『民法案内』は、『天皇の世紀』に匹敵する大事業だよ。残り12、13年はかかる」と壮大な野望を語っていた我妻。しかし同年10月21日、『法学概論』の執筆途中に急性胆嚢炎に倒れ、76歳でこの世を去ります。亡くなる数日前まで学士院の例会に出席し精力的に動いていた彼の突然の訃報に、盟友の南原繁は青山斎場での葬儀で涙ながらに弔辞を読み上げました。

「法律は杓子定規でなければならぬ、しかしその適用は杓子定規であってはならぬ」。その言葉通り、学問の厳密さと人間の温かさを完璧なバランスで両立させた我妻栄は、故郷・米沢の土壌を永遠に豊かにする最高の「堆肥」となって歴史に名を刻みました。

Information

我妻栄を深く知る「この一冊!」

牧水・決定版の評伝

本のご紹介

民法1 総則・物権法 第4版 / 我妻 榮 (著), 有泉 亨 (著), 川井 健 (著), 鎌田 薫 (著)

単行本 – 2021/5/1

通称「ダットサン民法」。一粒社から出版され、廃業危機を乗り越えて「復刊ドットコム」への熱烈な要望により復刊された伝説の教科書。時代に合わせて改訂が続けられ、かつてロシア語の抄訳も出版され、近年では大原学園によるテキスト剽窃事件が起きるほど、現在でも法学を学ぶ者にとっての「最高水準のスタンダードテキスト」として絶対的な地位を占めています。

📍【完全網羅版】我妻栄の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

  • 我妻榮記念館(山形県米沢市中央3-4-38 / TEL・FAX: 0238-24-2211):
    • 栄が生まれ育った生家。大正6年の大火の際にも教え子たちのバケツリレーで奇跡的に焼け残った建物です(平成4年6月21日開館/入館無料)。開館日は金・日の13時〜16時、月曜の10時〜16時。2階には北面6畳の勉強部屋があり、約7,000枚の判例カード、実際に着用していた3.5kgの義足と服、釣り道具、囲碁の免状、蓄音機、桜井祐一作の胸像などが展示。1階には東大法学部長時代の机や、関係者から「巻物」と呼ばれた紀元前2000年からの民法歴史年表が置かれています。また、『我妻榮先生講演集 母校愛の熱弁』や『自雷子物語』、色紙等の販売や「我妻榮児童文化賞」の表彰も行われています。斜向かいは法学者・遠藤浩の生家です。
  • 米沢市立興譲小学校(山形県米沢市丸の内2丁目2-57):
    • 彼が学び、恩師・赤井運次郎と出会った原点。のちに我妻がピアノと書籍を寄贈した「まがき文庫」や、彼の座右の銘「守一無二無三」の色紙が残されています。
  • 山形県立米沢興譲館高等学校(山形県米沢市大字笹野字戸塚山5042-10):
    • 彼の母校(旧・米沢中学校)。彼が私財1,600万円を投じて設立した「自頼奨学財団」と「自頼文庫」により、現在も多くの生徒が支援を受けています。
  • 白鷹町立荒砥(あらと)小学校(山形県西置賜郡白鷹町大字荒砥甲682):
    • 彼の伯父が校長を務めていた縁から、我妻が書籍を寄贈した「我妻文庫」が残されています。
  • 多磨霊園(我妻栄 墓所)(東京都府中市多磨町4-628):
    • 激動の生涯を閉じた彼が静かに眠る墓所です。区画は**「21区1種13側」**にあります。
  • 碧き凪ぎの宿 明治館(旧・土肥温泉 明治館)(静岡県伊豆市土肥2849-3):
    • 学生時代、我妻が岸信介とともに冬休みの試験勉強合宿のために籠もった老舗旅館。ここで高熱を出した我妻を、岸が夜通し看病したという青春の舞台です。
  • 東京大学 本郷キャンパス 法学部(東京都文京区本郷7-3-1):
    • 彼が学生として学び、のちに教授、戦後初の法学部長として日本の民法学を牽引した学問の中心地です。

💬我妻栄の遺産:現代社会へのメッセージ

「人間もこの堆肥型でなければならない。息の長い人間になれということです」

現代社会は、常に「化学肥料」のような即効性やタイパ(タイムパフォーマンス)、手っ取り早い成果ばかりを求めがちです。しかし我妻栄は、そうした生き方は長期的には土壌(社会や自分自身の基盤)を痩せ細らせてしまうと警告しました。

時間をかけてじっくりと対象に向き合い、自分自身を熟成させていくこと。そして、法律やルールという「冷たいシステム」を扱う時こそ、相手の事情を汲み取る「温かい血の通った解釈」を忘れないこと。 親友である総理大臣を公の場で諫め、その裏で権力を使って弱き者を救うという彼の絶妙なバランス感覚とスケールの大きさは、ルールや同調圧力に縛られて息苦しさを感じる現代の私たちに、「真の知性とは何か」「本当の優しさとは何か」を教えてくれています。

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