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香川県の偉人:菊池寛 — 芥川賞・直木賞を生んだ天才プロデューサー。座談会と“文春砲”を発明した「隙だらけのリーダー」

プロフィール

菊池 寛(きくち かん / ひろし)
※本名の読みは「ひろし」だが、ペンネームの「カン」が定着し、本人も「カンと呼ばれるうちに自分でもその方がいいと思うようになった」と語っている。

1888(明治21)年12月26日生│1948(昭和23)年3月6日没(享年59歳)
「明治六大教育家」「攻玉社創立者」

  • 出身地:香川県香川郡高松七番丁(現・香川県高松市天神前)
  • 職業・肩書き:小説家、劇作家、ジャーナリスト、実業家(文藝春秋社 創業者/大映株式会社 社長/帝国芸術院会員)
  • 主な功績
  • 雑誌『文藝春秋』を創刊し、難解な論文ではなく娯楽性を重視した編集方針で大成功を収め、日本の出版ジャーナリズムの基礎を築いた。
  • 雑誌記事における「座談会」の形式や、作家のプライベートをユーモラスに採点する「文壇諸家価値調査票(のちのゴシップ記事)」を考案し、現代の雑誌作りに多大な影響を与えた。
  • 1935年(昭和10年)、才能ある新人・大衆文学作家を顕彰するため**「芥川龍之介賞(芥川賞)」「直木三十五賞(直木賞)」**を創設。のちに自身の名を冠した「菊池寛賞」も設定される。
  • 日本文藝家協会を設立し、大日本著作権保護同盟会長を務めるなど、作家の権利擁護と地位向上に生涯にわたって尽力した。
  • 『日本競馬読本』を上梓し、馬主としてダービー出走や帝室御賞典を制するなど、競馬や麻雀、将棋の文化発展にも寄与(日本麻雀聯盟初代総裁)。
  • 関連著作(代表作):戯曲『父帰る』『屋上の狂人』、純文学『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記』『無名作家の日記』、通俗小説(テーマ小説)『真珠夫人』など多数。

「私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だったと思ひます」

(没後に公表された遺書の言葉より)

日本文学の最高峰である「芥川賞」と「直木賞」。この二つの賞を創設し、日本の出版界に燦然と輝く雑誌『文藝春秋』を創刊した男、それが香川県が生んだ偉人・菊池寛(きくち かん/ひろし)です。

『真珠夫人』や『恩讐の彼方に』などの大ベストセラーを生み出した文豪でありながら、彼の真の凄みは「作家」という枠には全く収まりません。 原稿を書いてくれない作家に酒を飲ませて喋らせる「座談会」を日本で初めて発明し、作家のプライベートを点数化する「ゴシップ記事(のちの“文春砲”のルーツ)」で部数を爆発的に伸ばした稀代のアイデアマン。

その一方で、麻雀で負けると不機嫌になって黙り込むため周囲から「くちきかん(口利かん)」とからかわれ、会社の経理はどんぶり勘定で倒産しかけるという、人間臭い弱点に溢れた人物でもありました。

エリートぶらず、大衆が求める娯楽を追求し、自分より優秀な人間には素直に全権を委ねる。激動の昭和において、文豪でありながら最強の「社長」でもあった菊池寛の、波乱とユーモアに満ちた生涯に迫ります。

貧困と退学。エリートコースから外れた「現場主義」

明治21年(1888年)、菊池寛は香川県高松市で、没落した儒学者の家柄に生まれました。家は貧しく、小学校の教科書を買えずに友人から借りて書き写すほどでしたが、記憶力に優れ、地元に新設された図書館の蔵書を読み漁る文学少年に育ちます。

成績優秀だった彼は、援助を受けて第一高等学校(現在の東大教養学部)に入学し、そこで生涯の友となる芥川龍之介や久米正雄と出会います。しかし、卒業直前に友人の盗品マントをそれと知らずに質入れしてしまった「マント事件」の責任をかぶり、まさかの退学処分に。その後、京都帝国大学へ進むという遠回りを余儀なくされました。

大学卒業後、時事新報社の記者となった彼は、ここで大きな挫折を味わいます。飛行機事故で亡くなったパイロットの遺族のもとへ行き、談話を取ってくるという辛い取材を命じられたのです。悲しみに暮れる遺族から強引にコメントを引き出すことができず、己の無力さを痛感した寛。 しかし、この「頭ではなく、身体を使って泥臭く現場を走らされた経験」こそが、のちの彼を、エリート主義の学者や作家たちとは違う「大衆の生の声がわかるリーダー」へと育て上げることになります。

逆転の発想が生んだ「座談会」と「ゴシップ記事」

大正9年(1920年)、新聞小説『真珠夫人』が大ヒットし、一躍超流行作家となった寛は、大正12年(1923年)に私費を投じて雑誌『文藝春秋』を創刊します。 当時の総合雑誌は『中央公論』や『改造』など、学者や文化人の堅苦しい論文が並ぶ高価なものが主流でした。しかし、寛は「六分の慰楽、四分の学芸(難解な論文より、娯楽を重んじる)」をモットーに、破格の安さで雑誌を売り出し、大成功を収めます。

ここで彼が発明したのが「座談会」と「ゴシップ記事」です。 超多忙な大物作家たちは、なかなか原稿を書いてくれません。そこで寛は逆転の発想に出ます。「原稿が無理なら、高級料亭に呼んで美味い酒と飯を食わせ、好き勝手に喋らせよう。それを記者が速記して記事にすればいい」。これが、現在あらゆる雑誌で行われている「座談会」のルーツです。 さらに彼は、芥川龍之介ら有名作家の「腕力」「性欲」「資産」などを独断と偏見で採点し、面白おかしく紹介する「文壇諸家価値調査票」というゴシップ記事を掲載しました。現代の『週刊文春』が放つ“文春砲”のDNAは、すでに創刊者・菊池寛のユーモアと大衆目線の中に組み込まれていたのです。

ポケットの札束と、愛すべき「くちきかん」

寛は、とにかく面倒見の良い男でした。 着物のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を突っ込んでおり、貧乏な作家に金を無心されると、中身も確認せずに無造作に札束を掴んで渡していました。旅先で出会った井伏鱒二らに対しても、「金がないんだろう、くれてやる」と無理やり紙幣を押し付けようとしたほどです。勝負事も大好きでしたが、麻雀で負けるとムッとして押し黙ってしまうため、名前のアナグラムで「くちきかん(口利かん)」と陰口を叩かれる人間臭い一面もありました。

一方で、経営者としては隙だらけでした。領収書も取らないどんぶり勘定のせいで、社員に横領されて会社が倒産の危機に陥ったこともあります。 しかし、ここで彼の真のリーダーシップが発揮されます。彼は自分の経営能力のなさをあっさりと認め、財務の立て直しを部下の佐佐木茂索(のちの社長)に完全に丸投げしたのです。「自分より能力が高い人間がいれば、素直にすべてを任せる」。この潔さと、放っておけない人間的魅力(人望)こそが、文藝春秋という会社を危機から救い、大きく成長させた最大の要因でした。

親友・芥川龍之介の死に直面して葬儀で号泣し、のちに才能ある新人を発掘するために亡き友の名を冠した「芥川賞」「直木賞」を創設。戦時中は大映の社長を引き受け、戦後は公職追放という憂き目に遭いながらも、昭和23年(1948年)、狭心症により59歳で急逝しました。最期の言葉は息子を呼ぶ「英樹、英樹」でした。 気難しく孤高な「文豪」ではなく、汗をかき、泥にまみれ、大衆を楽しませることに生涯を捧げた菊池寛。彼の遺したエンターテインメントの精神は、今も日本の出版文化の中心で脈々と生き続けています。

Information

菊池寛を深く知る「この一冊!」

2023年最高の感動歴史長篇│文藝春秋創立100周年記念作品

本のご紹介

文豪、社長になる / 門井 慶喜 (著)

単行本 – 2023/3/10

大ベストセラー作家にして、文藝春秋社を創立した稀代のプロデューサー・菊池寛はいかにして時代を読み、大衆に愛されたのか?芥川賞・直木賞の「父」でありながら、経営者としては隙だらけだった彼の愛すべき人間力と、激動の出版業界を生き抜いた文豪たちの奮闘を描く感動の歴史経済小説です。

📍【完全網羅版】菊池寛の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

ネット上の郷土資料や各自治体の「最新の整備情報(2026年現在)」を限界まで精査した、完璧な史跡リストです。

  • 菊池寛記念館(サンクリスタル高松 3階)(香川県高松市昭和町1-2-20):
    • 菊池寛の生涯と業績を顕彰する拠点施設。生前の書斎の復元や直筆原稿、遺品、芥川賞・直木賞に関する貴重な資料が多数展示されています。
    • 【※重要・2026年現在の状況】 サンクリスタル高松の大規模リニューアル工事に伴い、2025年5月から2027年秋頃まで長期休館中です(現在は高松市内の仮事務所にて出張パネル展などの業務のみ行っています)。
  • 高松市中央公園(香川県高松市番町1-11):
    • 園内には彫刻家・新田藤太郎制作による「菊池寛銅像(全身像)」や『父帰る』のブロンズ像があります。また、かつて天神前の生家跡にあった顕彰碑も、平成27年(2015年)にビル取り壊しに伴いこの公園内へ移設されました。碑には友人・**小島政二郎の筆による「菊池寛生家の跡」**という文字と、菊池寛自筆の座右の銘「不實心不成事 不虚心不知事」(実心ならざれば事成さず 虚心ならざれば事知らず)が力強く刻まれています。
    • 【※重要・2026年現在の状況】 公園の全面再整備工事のため、2025年8月末から約2年間(2027年夏頃まで)は地下駐車場を含め利用が大幅に制限され、園内の立ち入りや見学が困難な状況となっています。
  • 菊池寛旧居跡(千代田区六番町)(東京都千代田区六番町3):
    • 大正15年(1926年)から約1年余り、有島武郎の旧邸の一部を借りて自宅兼文藝春秋社とした場所。現在はマンション「ベルテ六番町」の植え込みの中に、千代田区が設置した「まちの記憶保存プレート(菊池寛旧居跡)」の案内板が立てられています。
  • 菊池寛旧宅跡・終焉の地(雑司が谷)(東京都豊島区雑司が谷1-32-5):
    • 昭和12年(1937年)から晩年までを過ごし、終焉の地となった場所。かつてはここに「菊池寛記念会館」がありましたが現在は閉館しており、跡地に建つマンション「テラス雑司ヶ谷」の前に、前述の座右の銘が記された豊島区の案内板が設置されています。
  • 多磨霊園(菊池寛 墓所)(東京都府中市多磨町4-628):
    • 59歳で急逝した文壇の大御所が眠る墓所。広大な霊園内の「14区 1種 6側 1番」という区画にあります。重厚で明るい雰囲気の墓石には、親交の深かったノーベル賞作家・川端康成の揮毫(きごう)による「菊池寛之墓」という文字が力強く刻まれています。
  • 青の洞門(大分県中津市本耶馬渓町曽木):
    • 菊池寛の代表的短編小説『恩讐の彼方に』の舞台となった実在の史跡。主人の仇を討とうとする青年と、罪を悔いて岩山をノミ一本で掘り続ける僧侶の人間ドラマは、この地を訪れた菊池が実話に着想を得て書き上げ、一躍有名になりました。

💬菊池寛の遺産:現代社会へのメッセージ

「書いてくれないなら、喋らせろ。弱点があるなら、他人に任せろ」

菊池寛の生涯は、現代のビジネスパーソンやリーダーに対して「逆転の発想」と「人に任せる勇気」の重要性を教えてくれます。 超多忙な作家に「原稿を書いてください」と真正面からお願いして断られるなら、「料亭に呼んで美味いものを食べさせ、楽しく喋った内容を記事にしよう(座談会)」と発想を転換する。これは、相手の負担を減らしつつ付加価値を提供して目的を達成する、見事な課題解決モデルです。

また、リーダーだからといって完璧である必要はありません。経理が苦手なら、自分より優秀な部下にすべてを委ねる。部下からすれば「自分がしっかりしなければ、この会社は潰れてしまう」という責任感が生まれ、組織はかえって強固になります。 権威ぶって高いところから指示を出すのではなく、自らの弱さを隠さず、大衆と同じ目線で泥臭く知恵を絞る。菊池寛のその「人間としての隙と愛嬌」こそが、時代を超えて人を惹きつける最強のリーダーシップの形なのです。

©【歴史キング】

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