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三重県・東京都の偉人:近藤真琴 — 「慶応の白足袋、攻玉社の破れ袴」。日本の海と未来を拓き、言葉を愛した商船教育の父

プロフィール

近藤 真琴(こんどう まこと)

1831(天保2)年10月29日生│1886(明治19)年9月4日没(56歳)
「明治六大教育家」「攻玉社創立者」

  • 通称・字:幼名は鉚之助。諱は真琴、字は徽音、通称は誠一郎。
  • 職業・肩書き:教育家、思想家、国語学者、海軍軍人(海軍中佐)
  • 歴任した主な役職:為錯塾(のちの攻玉社)創立者・塾長、幕府軍艦操練所翻訳方・測量算術教授方。海軍兵学大助教、海軍兵学校航海課長、海兵教務副総理、一等教官。
  • 主な功績
  • 福澤諭吉、中村正直、新島襄、森有礼、大木喬任と並ぶ「明治六大教育家」の一人として、私塾「攻玉社(旧・為錯塾)」を創立。
  • 海軍兵学校の予備教育機関としての役目を果たし、上村彦之丞、鈴木貫太郎、財部彪、加藤寛治、広瀬武夫、佐久間勉(以上、海軍軍人)、中村達太郎(建築学者)、岡村金太郎(水産学者)、志賀重昂(地理学者)、吉井勇(歌人)など、近代日本を支える多彩な人材を育成した。
  • 芝新銭座に日本初の商船学校「航海測量習練所(のちの商船黌)」、故郷に「鳥羽商船分黌(現・国立鳥羽商船高等専門学校)」を開設し、日本商船教育の先駆者(商船教育の父)となる。
  • 日本における航海術、測量学、数学、土木学の基礎教育を確立。
  • 日本初の翻訳SF小説『新未来記』を翻訳・出版。
  • かな文字推進者として「かなのくわい」に参加し、分かち書きを採用した**日本初のかな書き辞書『ことばのその』**を著した。幼稚園教育の紹介にも尽力。
  • 日本の国歌(君が代)策定時に、海軍省の依頼で歌詞の素案を執筆した(佐佐木信綱『竹柏漫筆』より。のちにお蔵入りとなり「幻の国歌」と呼ばれる)。
  • 関連著作・翻訳物:『新未来記』、『ことばのその』、『士官心得外療一班』、『英語新式』、『航海教授書』、『数学教授書』、『颶風擥要(ぐふうらんよう)』、『澳行日記』、『ちしつがくうひまなび』、文法書稿本『文字篇』『助用言』など多数。

「とつ国のみやまの石を砥(と)となして やまとしまねの玉みがかなむ」

(外国の優れた知識や技術を砥石として、日本の若者という玉を立派に磨き上げよう)

幕末から明治という激動の時代。黒船来航によって「海からの脅威」を突きつけられた日本において、国の未来は「海を制すること」にかかっていました。 しかし、当時の日本には近代的な航海術も、船を操る技術者もいません。そんな国家の危機的状況において、海軍のエリート軍人だけでなく、「商船教育」という民間海運の礎を自らの手で築き上げたのが、近藤真琴(こんどう まこと)です。

福沢諭吉らと並び「明治の六大教育家」と称された彼が創立した私塾「攻玉社(こうぎょくしゃ)」は、気取らないバンカラな気風から「慶応の白足袋、攻玉社の破れ袴」と呼ばれ、多くの若者たちを惹きつけました。 さらに彼は、海と数学の専門家でありながら、日本初の翻訳SF小説を出版し、誰もが学べるようにかな文字推進者として「分かち書き」を採用した日本初のかな書き辞書『ことばのその』を編纂したという、底知れぬ教養と優しさを持った真の万能人でもありました。

武士の魂を持ちながら、新しい時代の「実学」と「言葉」を愛した教育の巨星・近藤真琴の熱き生涯に迫ります。

黒船の衝撃と、「為錯塾(いさくじゅく)」の誕生

天保2年(1831年)、近藤真琴は、鳥羽藩(現在の三重県)の江戸上屋敷(現在の東京都千代田区麹町)で生まれました。4歳で父を亡くした彼は、母の深い愛情と厳しい教育の下で育ち、長年にわたり皇漢学を学びました。

彼の運命を変えたのは、嘉永6年(1853年)のペリーの黒船来航です。 圧倒的な武力と西洋の科学技術を目の当たりにした真琴は、「これからの日本は、海外の事情と科学を知らなければ生き残れない」と痛感し、蘭学(西洋の学問)を志します。のちの天才軍略家・大村益次郎(村田蔵六)らから兵学や物理学を学び、瞬く間に語学と科学の才能を開花させていきました。

文久3年(1863年)、真琴は四谷坂町の鳥羽藩中屋敷の自宅にささやかな蘭学塾を開きます。彼はこれを「為錯塾(いさくじゅく)」と名付けました。『詩経』の「他山の石以って錯(やすり)と為すべし」に由来し、のちの「攻玉社」の原点となります。 彼は幕府の軍艦操練所でも航海術を学び、オランダの膨大な海軍専門書を翻訳します。しかし、真琴が最初に抄訳して海軍・陸軍に500部も献納したのは、兵器の使い方ではなく「戦場での外科的応急処置」の部分(『士官心得外療一班』)でした。戦火で傷つく兵士たちを少しでも助けたいという、彼の人柄が滲み出るエピソードです。

福沢諭吉との熱い友情と、「商船教育の父」への道

明治維新後、海軍兵学校の教官として重用された彼は、数学や航海術の教科書を次々と執筆します。その一方で、私塾である攻玉社も急速に発展していきました。 明治4年(1871年)、手狭になった塾の移転先を探していた真琴に、最高の申し出をしたのが福沢諭吉です。諭吉は、三田に移転する前の「慶應義塾」の跡地(芝新銭座)と建物を、なんと「300円」という破格の安さで真琴に譲り渡しました。当代を代表する教育者同士の、熱い友情の証です。

真琴の教育者としての凄みは、エリート養成にとどまらなかった点にあります。 「島国である日本が真に自立するには、軍艦だけでなく、民間貿易を担う商船と航海士が絶対に必要だ」と考えた彼は、明治8年(1875年)、敷地内に日本初の商船学校となる「航海測量習練所」を私財を投じて開設しました。 莫大な資金がかかる商船教育を私立で行うのは無謀な挑戦でした。練習船を買うお金がなかった真琴は、同じく商船学校を開設した三菱財閥の岩崎弥太郎と協力し、練習船を共同で使用させてもらうなど、泥臭く情熱的に教育を推し進めました。 さらに明治14年(1881年)には、故郷・鳥羽の海運的価値を見抜き、「鳥羽商船分黌(現・国立鳥羽商船高等専門学校)」を開校。ここから、日本の海運を支える数多くの優秀な高等船員が巣立っていきました。

『新未来記』、かな文字の普及、そして「幻の国歌」

近藤真琴は、数学や航海術の枠に収まる人物ではありませんでした。 明治元年(1868年)、彼はオランダ語のSF小説を翻訳し、日本初の翻訳SF小説『新未来記』として発刊。都市がガラスの屋根で覆われ、世界中に情報が飛び交う「西暦2065年」の未来を描いたこの小説を通して、日本人に科学技術の無限の可能性を啓蒙したのです。

また、驚くべきことに、彼は「幻の国歌」の作詞者でもありました。佐佐木信綱の『竹柏漫筆』によれば、明治期に日本の国歌を策定する必要が生じた際、西洋事情と文学に明るい近藤真琴が海軍省から依頼を受けて「歌詞の素案」を書き上げていたのです。賛同は多かったものの、一部の異論によりお蔵入りになったという、知られざる歴史のミステリーです。

さらに特筆すべきは、彼の国語学者としての功績です。 真琴は、特権階級だけが使う難しい漢字ではなく、国民の誰もが読み書きできる平易な「かな文字」の普及こそが、国家全体の教育水準を上げると確信していました。彼はかな文字推進者として文学者の会「かなのくわい」の設立に参加し、明治18年(1885年)には日本初のかな書き辞書である『ことばのその』を著しました。この辞書は、現代に通じる「分かち書き(単語ごとにスペースを空ける記法)」をいち早く採用した画期的なものでした。

明治19年(1886年)、日本中にコレラが大流行する中、真琴は胃腸の病を悪化させ、56歳でこの世を去ります。しかし、「破れ袴」のバンカラな気風と実学を重んじた攻玉社からは、上村彦之丞や鈴木貫太郎といった海軍の重鎮だけでなく、建築学者の中村達太郎や水産学者の岡村金太郎など、日本の近代化を支える多彩な人材が溢れるように巣立っていきました。

Information

近藤真琴を深く知る「この一冊!」

教育者・近藤真琴の熱い生涯

本のご紹介

夜明けの潮: 近藤真琴の教育と子弟たち / 豊田 穣 (著)

単行本 – 1983/9/1

黒船来航から明治維新という激動の時代に、日本の「海軍」と「商船」の未来を切り拓いた教育者・近藤真琴の生涯を描いた名著。彼のもとに集った若者たちが、いかにして近代日本の礎となっていったのか、その熱い人間ドラマが丹念に描かれています。

📍【完全網羅版】近藤真琴の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

  • 鳥羽藩上屋敷跡 / 四谷坂町 鳥羽藩中屋敷跡(東京都千代田区麹町 / 新宿区坂町):
    • 真琴が生まれた「鳥羽藩上屋敷」と、文久3年(1863年)に彼が自宅で「為錯塾」を開き、のちの「攻玉社」の原点となった「鳥羽藩中屋敷」の跡地エリアです。
  • 芝新銭座・福澤近藤両翁学塾跡(東京都港区浜松町1丁目付近):
    • 明治4年、福沢諭吉から300円で譲り受けた慶應義塾の跡地に攻玉社を移転させた場所(旧・芝新銭座二番地)。明治8年(1875年)、真琴が私財を投じてこの敷地内に日本初の商船学校「航海測量習練所」を開設しました。現在は旧・神明小学校構内東側にあたる場所に「福澤近藤両翁学塾跡」の記念碑が建っています。
  • 攻玉社中学校・高等学校(東京都品川区西五反田5-14-2):
    • 真琴が創立した塾を前身とする伝統校。現在も彼が提唱した「誠意・礼譲・質実剛健」の精神を受け継ぎ、学園内には彼の遺品や貴重な原稿(日本初のかな書き辞書『ことばのその』など)が保存されています。
  • 官営品川硝子製造所跡(品川区指定史跡)(東京都品川区北品川4-11-5):
    • 明治6年(1873年)に設立された日本初の近代ガラス工場にして、日本の殖産興業を象徴する史跡。近藤真琴が攻玉社で実践した「測量・土木・建築・工学」などの実学教育は、こうした品川硝子に代表される明治の殖産興業の現場を支える優秀な技術者たち(建築学者・中村達太郎など)を多数輩出する原動力となりました。現在も第一三共株式会社の敷地前に「近代硝子工業發祥之地」の記念碑が残されています。
  • 国立鳥羽商船高等専門学校(三重県鳥羽市池上町1-1):
    • 真琴が明治14年に開設を決定し、翌年開校した「商船分黌」を前身とする学校。校内には、鳥羽の有志が建立し、盟友であった勝海舟が碑銘を揮毫(きごう)した「近藤真琴翁記念碑」が建っており、現在でも修学旅行で訪れる攻玉社の生徒たちとの交流の場となっています。
  • 鳥羽市立鳥羽小学校(三重県鳥羽市鳥羽4-4-1):
    • 明治6年(1873年)、真琴が故郷の教育発展のために私財を出資して創設に貢献した「鳥羽聯合小学校」を前身とする学校です。
  • 青山霊園(近藤真琴 墓所)(東京都港区南青山2丁目):
    • 56歳で急逝した日本の教育の巨星が眠る墓所。広大な霊園内の「1種ロ 2区 9側(1ロ2-9)」という区画にあり、日本の海事教育と国語教育に命を捧げた彼の魂が静かに眠っています。
  • 妙性寺(三重県鳥羽市鳥羽4-5-8):
    • 鳥羽市にある近藤家ゆかりの寺院。墓地には近藤真琴の墓(鳥羽での墓所)があり、故郷を生涯愛した彼のルーツを感じることができる場所です。

💬近藤真琴の遺産:現代社会へのメッセージ

「他山の石を以て、自らの玉を磨け。そして、誰にでも伝わる『言葉』を持て」

近藤真琴の生涯は、現代を生きる私たちに「真の教養とは何か」を教えてくれます。 彼は、黒船という外圧に直面した際、ただ恐れたり排斥したりするのではなく、「西洋の優れた知識(他山の石)」を貪欲に吸収し、自らの能力(玉)を磨き上げました。さらに彼は、自分が得た高度な航海術や数学の知識を独占するのではなく、私財を投げ打って学校を創り、若者たちに惜しみなく分け与えたのです。

また、どんなに高度な科学技術を身につけても、「難しい漢字」ではなく「誰でも読める『かな文字』」で伝えようとした彼の姿勢は、極めて現代的です。専門知識を振りかざして他者を見下すのではなく、相手に伝わる平易な言葉(ことばのその)で社会を啓蒙しようとしたその優しさと実学の精神は、情報が溢れる現代社会において、私たちが最も見習うべき「真の知性」の在り方ではないでしょうか。

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