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愛媛県の偉人:井関邦三郎 — 農家を泥まみれの地獄から救った「農機の父」。二度の死線を越え、日本の農業を変えた不屈のイノベーター

プロフィール

井関 邦三郎(いせき くにさぶろう)
1899(明治32)年7月2日 生│1970(昭和45)年10月11日没(享年71歳)

「農機の父」「井関農機株式会社創業者」

  • 出身地:愛媛県北宇和郡三間村(現・宇和島市三間町務田)
  • 職業・肩書き:井関農機株式会社創業者、元松山商工会議所会頭、元済美学園理事長など
  • 師弟・影響を与えた人物:大野商店(大野式中耕除草機との出会いがモノづくりの原点となった)、小山久良(囲碁を通じて親交を深め、愛媛県における囲碁の普及に貢献した日本棋院7段の棋士)
  • 主な受賞・栄誉:紫綬褒章(1956年)、紺綬褒章、愛媛県教育文化賞、勲三等旭日中綬章、従四位(没後追贈)、三間町名誉町民(1969年)
  • 代表的な実績:全自動籾摺機の開発による農作業の劇的な省力化、松山大空襲からの再起と総合農機メーカー「井関農機」の確立、私立井関農機青年学校や済美学園理事長等を通じた人材育成、萬翠荘での菊花展開催や「井邦賞」設立などの地域文化・農業支援。
  • 座右の銘・代表的な言葉:「ありきたりの商人になるな。人をだますな。人に損をかけるな」「使う身になって造る」

「ありきたりの商人になるな。人をだますな。人に損をかけるな」 

「使う身になって造る」

(井関邦三郎の創業訓)

私たちが毎日当たり前のように口にしている、お茶碗一杯の白いご飯。それがかつて、どれほどの苦痛と汗の結晶として作られていたか、想像したことはあるでしょうか。

現代の農業は、エアコンの効いたトラクターや自動化されたコンバインのおかげで劇的に効率化されています。しかし、今からわずか100年ほど前の日本では、お米を作るために、農家の人々は腰を深く曲げ、ヒルが這い回る泥に足を取られながら、夜明けから日暮れまで血の滲むような過酷な手作業を強いられていました。

「この地獄のような労働から、農家の人たちを救い出したい」

その一心で愛媛県の小さな村から立ち上がり、日本の農業の歴史を「機械の力」で根底から覆した男がいます。日本を代表する総合農機メーカー「井関農機(ISEKI)」の創設者、井関邦三郎(いせき くにさぶろう)です。

彼は、最初から魔法のような機械を生み出した天才発明家ではありません。むしろ「自分は農業に向いていない」と挫折を味わい、村から逃げ出すように商売の道へ飛び込んだ不器用な青年でした。 さらに彼は、冷たい海に投げ出される客船沈没事故で死の淵をさまよい、太平洋戦争の空襲では自分の工場がすべて灰になるという絶望のどん底を味わいます。それでも彼は、決して「農家を楽にする」という夢を諦めませんでした。

自分の利益よりも「使う人の身になること」を生涯貫き通し、焼け野原から不死鳥のように蘇った不屈のイノベーター。愛媛が世界に誇る「農機の父」、井関邦三郎の泥臭くも熱い人生のドラマに迫ります。

泥まみれの絶望から生まれた「大いなる違和感」

1899年(明治32年)7月2日、井関邦三郎は、愛媛県北宇和郡三間村(現在の宇和島市三間町務田)の農家の次男として生まれました。

三間町は古くから「三間米」として知られる愛媛県内有数の米どころですが、当時の農業は文字通り「肉体を削る作業」でした。田植えから稲刈り、そして脱穀に至るまで、すべてが人力。特に夏の炎天下で行う田んぼの「草取り」は、容赦なく照りつける太陽の下、泥に這いつくばって雑草をむしり取る、足腰が砕けるほどの重労働でした。

邦三郎も幼い頃から泥にまみれて家業を手伝っていましたが、彼は成長するにつれて、周囲の農民たちとは違う「深い悩み」を抱えるようになります。 「自分は、体力的にも性格的にも、このまま一生農業を続けていくことには向いていないのではないか……」

当時の農村の常識からすれば、農家に生まれた健康な男子が農業を嫌がるのは「逃げ」や「怠け者」と見なされる時代です。周囲からの冷たい視線もあったでしょう。しかし、邦三郎の心の中にあったのは、単なる労働からの逃避ではありませんでした。 「こんな非効率で過酷な作業を、人間がいつまでも手でやり続けるのは絶対に間違っている」という、現状に対する強い違和感と憤りだったのです。

農村からの逃亡か、救済か。全財産を投じた背水の陣

高等小学校を卒業後、彼はついに大きな決断を下します。自分には農業はできない。ならば、別のやり方で生きていくしかない。彼は、自分が持っていたなけなしの全財産を売り払い、そのお金を元手にして「商売の道」へと飛び込んだのです。

故郷の村人たちから見れば、農業から逃げ出したドロップアウトに映ったかもしれません。宇和島市にあった倒産寸前の肥料商店の経営に携わるなど、彼は手探りでビジネスの泥海へと足を踏み入れました。

そんな彼の運命を変えたのは、1919年(大正8年)、20歳の時のことでした。松山市の「大野商店(現・大野農具製作所)」が作っていた『大野式中耕除草機』という機械を目にしたのです。 それは、泥の中を押して歩くだけで、田んぼの雑草を根こそぎ取り除いてくれる画期的な道具でした。子どもの頃、夏の炎天下で泥だらけになりながら草取りをしたあの地獄の苦しみ。それが、この機械一つで劇的に楽になるのです。

「これだ!これこそが、農家の人々を過酷な労働から解放する希望の光だ!」

邦三郎の胸に、かつてないほどの情熱が燃え上がりました。彼はすぐさま大野商店にお願いし、この除草機の「特約販売」を始めます。しかし、彼の情熱は「他人が作ったものを売るだけ」では満たされませんでした。「自分の手で、もっと農家の人たちを楽にする機械を作りたい」というモノづくりへの強烈な執念が芽生えたのです。

邦三郎はなんと大野商店に頼み込み、そこに住み込んで1ヶ月余り、油まみれになりながら機械の作り方をイチから必死に見習いました。そして1924年(大正13年)、故郷の三間村に戻った彼は、ついに自分の手で「井関農具製作所」を立ち上げたのです。 自分の弱さと向き合い、一度は農業から離れた青年が、「農機具」という最強の武器を手にして、農村を救うために帰ってきた瞬間でした。

「発明」ではなく「融合」。農家の悲鳴から生まれた赤い機械

除草機の製造・販売を軌道に乗せた邦三郎でしたが、彼の目はさらに先の「最大の難所」に向けられていました。それが「籾摺り(もみすり=籾殻を取り除いて玄米にする作業)」です。 当時の籾摺りは、土で作った重い臼(うす)を人間がゴロゴロと回して行う、途方もなく時間と体力を奪われる作業でした。これをなんとか自動化できないか。邦三郎は全国の農機具を視察して回ります。

熊本県で開かれた品評会で「岩田式籾はぎ機」を見つけ、さらに高知県で「山本式自動選別機」という機械を発見しました。この時、邦三郎の頭の中で、バラバラだったパズルがピタリと合わさります。 「この二つの機械の長所をくっつければ、殻をはがす作業と、お米を選別する作業が一度にできる全自動の機械が作れるんじゃないか!」

ゼロからまったく新しいものを発明するのではなく、今ある最高の技術を組み合わせて、農家にとって一番使いやすい形に作り変える。これこそが、邦三郎の最大の才能である「イノベーション(技術革新)の力」でした。

1926年(大正15年)、彼は「もっと広く、もっと多くの農家に機械を届けたい」と決意し、故郷の三間村を離れて愛媛県の中心である松山市(新玉町、現在の湊町)に工場を移します。名前も「井関農具商会」と改めました。 ここで彼が第一号として完成させたのが、二つの機械を合体させた「全自動籾摺機」です。錆びないように機体を真っ赤に塗っていたため、農家の人々からは親しみを込めて「赤い機械」と呼ばれました。

スイッチ一つで、魔法のように籾が玄米になっていく。過酷な重労働から解放された農家の人々は、その赤い機械の前で涙を流して喜びました。初年度に36台だった販売数は、口コミで瞬く間に広がり、翌年には100台、150台と爆発的に売れ始めます。1933年(昭和8年)には大阪に「東洋農機合名会社」を創立して関西へも進出。井関農機の快進撃が始まったのです。

漆黒の海と空襲の業火。二度の「死」を越えた男の執念

事業が拡大し、1936年(昭和11年)には「井関農機株式会社」を設立して社長に就任した邦三郎ですが、彼を待ち受けていたのは順風満帆な成功者としての道ではありませんでした。

1935年(昭和10年)、邦三郎は仕事のために大阪商船の客船「みどり丸」に乗船し、瀬戸内海を航行していました。しかし、濃霧の中で別の貨物船と大衝突を起こし、みどり丸は無残にも海へと沈没してしまったのです。多数の死者・行方不明者を出す大惨事となりました。

暗く冷たい海に投げ出され、阿鼻叫喚の中で死の恐怖に直面した邦三郎。しかし、彼は奇跡的に救助され、九死に一生を得たのです。 普通であれば、トラウマになってふさぎ込んでしまうかもしれません。しかし、海から生還した邦三郎の瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていました。

天は私を殺さなかった。私にはまだ、日本の農家を救うという使命が残されているのだ。この拾った命、すべて農業のために使い切ってやる

しかし、過酷な運命は再び邦三郎に牙を剥きます。 時代は太平洋戦争の真っ只中。1945年(昭和20年)7月、夜空を覆い尽くすアメリカ軍のB-29爆撃機の編隊が、松山市に焼夷弾の雨を降らせる「松山大空襲」が発生しました。火の海となった松山市。邦三郎が血と汗と涙で築き上げてきた本社と工場は、無情にもすべて灰燼(かいじん)に帰してしまったのです。

焼け焦げた鉄屑と、灰だけが残る工場の跡地。社員たちも皆、絶望のどん底に突き落とされました。「もう井関は終わりだ……」。誰もがそう思いました。

しかし、みどり丸の沈没から蘇った男は、空襲の灰の中でも決して下を向きませんでした。 「焼けたのは建物と機械だけだ。私たちの頭の中にある技術と、農家を救うという心までは焼かれていない!もう一度、ゼロから立ち上がるぞ!

邦三郎の号令のもと、焼け野原からの壮絶な復興劇が始まります。 戦後の日本は深刻な食糧難に見舞われ、農業の生産力を上げることが国家の最重要課題となりました。邦三郎は「今こそ、我々井関の出番だ」と奮起します。

戦後の農業機械化ブームの波に乗り、彼は次々と革命的な機械を開発していきます。土を耕す「耕耘機(こううんき)」、稲を刈り取りながら脱穀する「自脱型コンバイン」、人が乗って作業ができる「トラクター」、そして冷たい水に手を入れることなく苗を植えられる「田植機」。 農家の「ここが辛い」「ここが不便だ」という声を拾い上げ、次々とそれを機械の力で解決していきました。井関農機は、地方の一工場から、日本を代表する巨大な「総合農機メーカー」へと大躍進を遂げたのです。

利益より「人」を育てる — 文化と教育へ注いだ無償の愛

邦三郎の偉大さは、ただ機械を作って儲けたことではありません。彼が最も大切にしていたのは、「人」でした。

彼の創業訓である「ありきたりの商人になるな。人をだますな。人に損をかけるな」「使う身になって造る」という言葉には、「会社の利益よりも先にお客様(農家)の幸せを考えろ。ええもんをつくるんやぞ」という彼の熱い哲学が込められています。

その「人を育てる」という哲学は、会社の外にも向けられました。 まだ戦前の1939年(昭和14年)、彼は第一工場内に「私立井関農機青年学校」を設立し、貧しくて学校に行けない若者たちに教育と技術を授けました。 戦後には、松山商工会議所の会頭や愛媛県工業クラブ会長など、50以上の公的な役職を歴任して愛媛県の発展に尽力。さらに1959年(昭和34年)には、現在の野球の名門校としても知られる「済美学園(済美高等学校)」の理事長に就任し、教育支援に多大な貢献を果たします。

また、激しいビジネスの世界で戦う一方で、松山のフランス風洋館「萬翠荘(ばんすいそう)」での美しい菊花展やバラ展を支援し、地元の人々の心を和ませました。さらに囲碁の普及にも尽力し、日本棋院7段の腕前を持つ小山久良と親交を深め、愛媛県内の囲碁の普及や婦人のための囲碁クラブ「芝蘭会(しらんかい)」の創設に貢献するなど、その懐の深さは計り知れません。

晩年には、愛媛県内の農業をさらに発展させるため、自身の私財を投じて「井邦賞(いほうしょう)」という基金を設立。次世代の農業者たちへ、文字通り「命のバトン」を託したのです。

1970年(昭和45年)10月11日、日本の農業を根底から変えた偉大なイノベーター・井関邦三郎は、71歳でこの世を去りました。 彼が遺した「農家を過酷な労働から解放する」という熱いDNAは、創立100年を迎えた現在の井関グループにも連綿と受け継がれています。最新のスマート農業やロボットトラクターが田んぼを走る現代。そのすべての原点には、泥まみれの村で草取りの苦しさに涙した、一人の青年の「農家を救いたい」という優しい情熱があったのです。

Information

井関邦三郎 を深く知る「この一冊!」

講演の名手でもあった漱石による珠玉の講演5篇

本のご紹介

『井関邦三郎伝』 / 秋永芳郎 著 / 井関邦三郎伝刊行委員会 1972年

一代で日本を代表する総合農機メーカーを築き上げた井関邦三郎の、泥臭くも痛快な人生を描き切った決定版の伝記です。農業に挫折した青年が、いかにして「使う身になって造る」という哲学に目覚め、海難事故や空襲といった絶望的な危機を乗り越えていったのか。経営者としてはもちろん、一人の人間として「人を騙さず、誠実に生きる」ことの尊さを教えてくれる、熱気あふれる一冊です。

📍【完全網羅版】全国を巡る井関邦三郎の足跡 — ゆかりの地・史跡リスト

【愛媛県・宇和島市エリア】

  • 井関邦三郎記念館(道の駅みま 内)(愛媛県宇和島市三間町務田180-1):邦三郎の歩みを紹介するパネルや、生家と井関農具製作所の精巧な復元模型、そして彼が開発した歴代の農業機械がズラリと展示されています。「農家を過酷な労働から解放したい」という彼の執念の歴史を肌で感じることができる最大の聖地です。
  • 宇和島市三間支所前の胸像(愛媛県宇和島市三間町宮野下835):故郷の発展に尽くした邦三郎の功績を讃え、宇和島市役所三間支所の前に堂々たる胸像が建立されています。
  • 三間町務田公民館横の記念石碑(愛媛県宇和島市三間町務田730-1):彼の生まれた務田(むでん)地区の公民館横にある、名誉町民としての功績を後世に語り継ぐための石碑です。
  • 井関邦三郎翁出生之地碑(生家跡)(愛媛県宇和島市三間町務田):道の駅みま付近の生家跡地に建てられた記念碑。農村の過酷さを肌で感じ、ここからすべてが始まったことを示す歴史的原点です。
  • 井関家墓地(井関邦三郎墓所)(愛媛県宇和島市三間町 / 三間IC近く、窓峠付近の高台):故郷の土に還った邦三郎が静かに眠る墓所。高台から、彼が愛した三間の田園風景を見守っています。

【愛媛県・松山市エリア】

  • 松山市新玉町(現・松山市湊町周辺)の工場跡地(愛媛県松山市湊町):1926年(大正15年)、邦三郎が故郷を離れ、本格的に「井関農具商会」を創立して全自動籾摺機の製造を始めた、松山進出の原点となる場所です(※現在は市街地となっています)。
  • 井関農機株式会社 松山製造所(愛媛県松山市馬木町700):空襲の焼け野原から復活を遂げ、現在も最先端の農業機械を生み出し続けている巨大な製造拠点です。
  • 大野農具製作所(旧・大野商店)(愛媛県松山市):若き日の邦三郎が「大野式中耕除草機」と出会い、頼み込んで住み込みで機械作りを学んだモノづくりの原点となる場所です。
  • 萬翠荘(ばんすいそう)(愛媛県松山市一番町3-3-7):大正時代に建てられたフランス風の美しい洋館(愛媛県指定有形文化財)。邦三郎は文化支援として、ここで長年にわたり素晴らしい菊花展やバラ展を開催し、市民の心を和ませました。
  • 済美高等学校(旧・済美学園)(愛媛県松山市湊町7-9-1):1959年(昭和34年)に邦三郎が理事長に就任し、教育の発展と人材育成に多大な貢献を果たした歴史ある学園です。

【大阪府エリア】

  • 東洋農機合名会社 跡地(大阪府大阪市東成区大今里町周辺):1933年(昭和8年)に、大阪の吉田工業部と共同出資して創立し、発動機や籾摺機の製造・販売を行い関西への大進出を図った歴史的足跡です。

💬井関邦三郎から現代社会へのメッセージ

「あなたが今やっている仕事は、本当に『誰かの痛み』を救っていますか?」

井関邦三郎が遺した「ありきたりの商人になるな。人をだますな。人に損をかけるな」という創業訓は、現代のビジネスや私たちの生き方に対して、非常に鋭い問いを投げかけています。

現代は「いかに要領よく稼ぐか」「いかにライバルを出し抜くか」といった情報がSNSに溢れています。しかし邦三郎は、農機具を「売って儲けるための道具」とは決して考えませんでした。彼の根底にあったのは、泥にまみれ、腰を痛めて泣いていた故郷の農家の人々を「助けたい」という圧倒的な利他の精神です。 「使う身になって造る」「ええもんをつくるんやぞ」。その誠実な思いがあったからこそ、海難事故で死にかけても、空襲ですべてを失っても、彼は絶望することなく再び立ち上がることができました。

仕事とは、誰かを騙して利益を奪うことではありません。「誰かの過酷な痛みを解決し、喜んでもらうこと」こそが、ビジネスの本来の姿なのです。 AIやロボットが進化し、何でも便利になった現代。だからこそ、私たちは井関邦三郎の泥臭い生き様から学ばなければなりません。焼け野原から立ち上がり、日本の農業を根底から変えた男の不屈の精神は、困難な時代を生きる私たちに、前を向いて歩き続けるための大きな勇気を与えてくれます。

©【歴史キング】

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