岐阜県の偉人:津田左右吉 — 国家の弾圧を跳ね返した「実証史学の王」。神話を解体し、右にも左にも媚びなかった孤高の知性
プロフィール
津田 左右吉(つだ そうきち)
1873(明治6)年10月3日生│1961(昭和36)年12月4日(享年88歳没)
「歴史学者」「思想史家」「早稲田大学名誉教授」
- 出身地:岐阜県加茂郡栃井村(現・美濃加茂市下米田町東栃井)
- 主な功績:
- 『古事記』『日本書紀』の徹底的な史料批判を行い、神話と史実を分離する「津田史学」を確立。日本における科学的・実証的な歴史学の基礎を築いた。
- 記紀における武烈天皇の暴虐記事などが中国の古典を模倣した作り話であることを看破した。
- 軍国主義下での発禁・起訴(津田事件)に屈せず、法廷で学問の自由と独立を守り抜いた。
- 戦後のマルクス主義的歴史観ブームに迎合せず、日本の国民生活と文化の基底としての天皇制の歴史的意義を説き、左右のイデオロギーに偏らない姿勢を貫いた。
- 主な受賞・栄誉:帝国学士院会員(1947年)、文化勲章(1949年)、文化功労者(1951年)、美濃加茂市名誉市民第1号(1960年)、朝日賞(1960年)
- 師弟・影響を与えた人物:白鳥庫吉(恩師・東洋史学者)、栗田直躬(愛弟子・中国思想史家)、李丙燾(指導学生)、家永三郎(歴史学者・思想的影響)など
- 主な著書:『神代史の新しい研究』『古事記及び日本書紀の研究』『文学に現はれたる我が国民思想の研究』『支那思想と日本』『おもひだすまゝ』など
「従ってぼくのしごとは学会の趨向にも世間の風潮にもかかはりはなく、ぼくひとりの心の動いてゆくままにしたことである」
(『学究生活五十年』より)
みなさんは、学校の歴史の授業で「日本の最初の天皇は神武天皇です」と習ったことはありますか?
現代の教科書では「神話の世界のお話」として紹介されていますが、今から80年ほど前の日本では、この神話を「絶対に疑ってはいけない本当の歴史」として、国が国民に強く信じ込ませていました。もし「これは作り話じゃないか?」などと言えば、特高警察に捕まってしまうような恐ろしい時代だったのです。
その分厚く、暴力的な国家の壁に対して、「古い記録を科学的な目で疑う」という学問のメスを片手に、たった一人で立ち向かった勇敢な学者がいました。日本における実証史学の第一人者・津田左右吉(つだ そうきち)です。
戦前は「天皇を冒涜する悪魔のような学者だ!」と右翼から攻撃されて著書を発禁処分にされ、裁判にまでかけられました。しかし、戦争が終わって世の中がひっくり返ると、今度は左翼(共産主義などを支持する人々)から「よくぞ天皇の神話を壊してくれた!俺たちの仲間になれ!」と誘われます。 ところが津田は、「君たちの考え方も、戦前の軍国主義と同じで学問ではない。私は日本の伝統を大切に思っている」とピシャリと跳ね除け、今度は左翼から猛烈なバッシングを受けることになります。
右の同調圧力にも、左の流行にも決して流されず、ただひたすらに「事実」だけを信じ抜いた男。 国家権力との息詰まる法廷闘争、妻との二人三脚、そして戦後の「変節」騒動の裏に隠された、とてつもなく深く、人間臭いドラマに迫ります。
嘘を見抜く少年の旅立ち — 独学で切り拓いた早稲田への道
1873年(明治6年)10月3日、ちょんまげの時代が終わってすぐのこと。津田左右吉は、岐阜県加茂郡栃井村(現在の美濃加茂市下米田町東栃井)に生まれました。
津田家はもともと、尾張藩の附家老(高い身分の家来)であった竹腰家に仕える立派な武士の家系でした。父の藤馬(とうま)は幕末に江戸で10年も働いたことがある知識人で、左右吉はわずか4歳で父から難しい儒教の古典(四書)を習い、スラスラと暗唱してしまうほどの神童でした。 家は決して裕福ではありませんでしたが、母の勢以(せい)は裁縫がとても上手で、「津田様のお針子になりたい」と近所の娘たちが教えを乞いに集まるほどでした。この母が一生懸命に内職をして稼いだお金が、のちの左右吉の学費を支えることになります。
地元の文明小学校(現・下米田小学校)に通い始めた左右吉は、森達(もり とおる)校長先生から歴史や詩歌の面白さを教わります。左右吉は後年、「『日本外史』は面白かった。森先生に習った歴史の逸話が、私の生き方の土台になった」と振り返っています。
しかし、彼はエリートコースを真っ直ぐ歩んだわけではありません。13歳で名古屋の私塾や大谷派普通学校(現・名古屋大谷高校)に進学したものの、「なんだか自分のやりたい勉強と違う」と感じて、わずか1年弱で中退してしまいます。故郷の村に戻った彼は、東京専門学校(今の早稲田大学)の講義テキストを郵便で取り寄せ、たった一人で黙々と独学を続けるという、孤独でガッツのある青春時代を送りました。 そして17歳でついに上京し、編入試験に見事合格。翌年には、あまりの成績の良さに、学校の創設者である大隈重信の奥様から直接「優等賞状」をもらうほどでした。
孤独な青年教師を救ったもの — 妻・津ねとの深い絆
学校を卒業した左右吉は、教育者・沢柳政太郎の家に出入りしながら、群馬県立旧制前橋中学校(現・前橋高校)や千葉県立旧制千葉中学校(当時の校長は菊池謙二郎)、さらには独逸学協会学校(現・獨協中高)などで歴史の先生になります。 しかし、彼の心はモヤモヤしていました。当時の彼の日記『風塵録』には、「学校という場所はちっとも面白くない」「決められた科目を教えるだけなんて不愉快だ」と、はみ出し者特有の苦悩が赤裸々に綴られています。
暗闇の中でもがいていた彼を救ったのは、東京帝国大学の偉大な歴史学者・白鳥庫吉(しらとり くらきち)との出会いでした。白鳥先生の手伝いで西洋の歴史教科書を書いた左右吉は、「歴史の研究こそが自分の天職だ」と目覚めます。 1908年(明治41年)、左右吉は白鳥先生に引っ張られる形で、満鉄(南満州鉄道)の東京支社内にできた歴史調査室に入ります。ここでついに、学者としての才能が爆発しました。
この頃、彼は妻の津ね(常子)と結婚しています。津ねは、夫が書いた膨大な歴史の原稿を、文句一つ言わずに毎日毎日、綺麗に清書し続けました。あまりにずっと二人で書き続けたため、のちに彼らの全集を作る際、編集者が「どっちが左右吉の字で、どっちが奥さんの字か見分けがつかない!」と悲鳴を上げたという、深い夫婦愛の逸話が残っています。妻の献身なしに、「歴史学者・津田左右吉」は誕生しなかったのです。
日本の歴史学をひっくり返した名探偵 — 「史料批判」のメス
40歳を迎えた左右吉は、日本の歴史学を根底からひっくり返す、とんでもない本を出版します。『神代史の新しい研究』や『古事記及び日本書紀の研究』です。
ここで彼は、日本の歴史学者たちが「神聖なものだから」と見て見ぬふりをしてきたタブーに、科学のメス(史料批判)を入れました。分かりやすく言うと、「昔の記録を鵜呑みにせず、名探偵のように『この証言はおかしくないか?』と疑って分析した」のです。
左右吉は、冷静にこう指摘しました。 「『古事記』や『日本書紀』の元になった記録が作られたのは6世紀ごろだ。だから、それよりずっと昔の、初代・神武天皇から第14代・仲哀天皇や神功皇后までの話は、歴史的な事実じゃない。これは当時の役人たちが、『天皇の支配は神様から引き継いだ素晴らしいものなんだぞ』とアピールするために、後から作った政治的なストーリー(作り話)だ」
さらに、第25代・武烈天皇が「妊婦のお腹を切り裂いた」といったメチャクチャな悪さをしたという記録に対しても、「これは中国の歴史書に出てくる『悪い王様(桀や紂)』の話をパクって当てはめただけだ。事実じゃない」と見抜きました。
この鮮やかな推理は、当時の学者たちを震え上がらせると同時に、「これこそが本当の科学的な歴史学だ!」と大絶賛されました。早稲田大学の教授になった彼の授業には、教室に入りきれないほどの学生が廊下にまであふれかえったと言います。
国家に噛み付かれた歴史家 — 法廷で裁判官に「歴史の授業」をする
しかし、昭和に入ると日本は戦争へと突き進み、「天皇は神様だ!神話を疑うやつは非国民だ!」という狂気に満ちた時代になります。
1939年(昭和14年)、67歳になった左右吉を、軍国主義の過激なグループ(蓑田胸喜ら)が攻撃し始めました。 「津田の書いていることは、日本の神聖な歴史を破壊する悪魔の思想だ!」
彼らの圧力によって、1940年、ついに国(内務省)が動きます。左右吉の書いた本は「発売禁止(発禁)」となり、彼は早稲田大学の教授を辞めさせられ、ついには出版社(岩波書店)の社長・岩波茂雄と一緒に「皇室の尊厳を冒涜した罪(出版法違反)」で警察に起訴されてしまったのです。世に言う「津田事件」です。
有罪になれば、おじいちゃんの年齢で刑務所に入れられてしまいます。 しかし、法廷に引きずり出された左右吉は、全く怯えていませんでした。なんと彼は、自分を裁こうとする裁判官たちに向かって、「いいですか、天上に国があるはずがない。神話を事実だと思い込むことこそが、古典の精神を破壊し、日本の歴史をダメにするんですよ」と、まるで学生に歴史の授業をするように堂々と講義を始めたのです。
裁判官たちも、この立派なおじいちゃん先生の熱意と筋の通った説明にすっかり引き込まれ、「私たちは法律で裁く者というより、講義を聴く学生のような気持ちになっていた」と後で語っています。 結果は「禁錮3ヶ月、執行猶予2年」という、罪の重さからすれば極めて軽い、実質的な「温情判決」でした。その後、裁判のやり直しが延期されているうちに時間が切れ、1944年(昭和19年)に「免訴(裁判打ち切り)」という劇的な結末を迎えます。 国家の暴力で脅されても、「学問の自由」と「真実」を絶対に曲げなかった彼の姿は、暗黒時代の日本における希望の光でした。
戦後の「手のひら返し」を拒絶 — 本当の自由とは何か
戦争が終わり、日本が負けると、世の中の空気は180度変わりました。 「天皇のために戦え」と言っていた軍国主義が崩壊し、今度は歴史を階級闘争で捉えようとする左翼の知識人たち(石母田正、井上清、羽仁五郎ら)が力を持ち始めます。彼らは、戦前に国から弾圧された左右吉を「天皇の神話を壊してくれた大英雄!」と持ち上げ、自分たちの仲間に引き入れようとしました。第5代早稲田大学総長という最高名誉職への推薦まで舞い込みます。
しかし、ここで左右吉は世間をアッと驚かせます。名誉ある役職をあっさりと辞退し、雑誌『世界』にこんな論文を発表したのです。 「天皇が権力で国民に臨んだことは歴史上ただの一度もない。国民が皇室に反抗したこともない。天皇制と民主主義は矛盾しない素晴らしい伝統だ」
これに左翼の人たちは大激怒しました。「津田は考え方を変えた!裏切り者だ!」と猛烈なバッシングを浴びせます。 さらに、若手学者たちから「津田先生の考え方は、歴史はお金や階級の争いで動くという『唯物史観(マルクス主義)』ですよね?」と迫られた際、左右吉は間髪入れずにこう言い放ちました。
「唯物史観なんてものは、学問なんかじゃありません」
左右吉にとって、これは裏切りでも変節でもありませんでした。彼はただ「歴史の事実」を愛していただけです。 戦前の「天皇を神様だと思い込む軍国主義」も、戦後の「歴史を無理やり階級の争いに当てはめる共産主義」も、彼から見ればどちらも「事実を無視した、ただの政治的な流行」であり、学問への冒涜でした。 右の権力にも、左の流行にも媚びない。このブレない姿勢こそが、1949年(昭和24年)の文化勲章受章へと繋がっていったのです。
美濃加茂の誇り、そして「無」へ帰る
1960年(昭和35年)、87歳となった左右吉は、郷土の誇りとして美濃加茂市の「名誉市民第1号」に選ばれ、久しぶりに故郷の土を踏みました。 かつて母の見舞いで帰郷した際、地元の人から「先生はこんな田舎の出身で、どうやってあんなに偉い学者になれたんですか?」と聞かれ、「帰ってから考えてみましょう」と答えていた彼は、その約束を果たすように自叙伝『おもひだすまゝ』を出版し、美濃加茂の原風景と少年時代の思い出を温かく書き残しました。
1961年(昭和36年)12月4日、武蔵野市の自宅にて、88歳の波乱の生涯を閉じます。 「お葬式は身内だけでいい。宗教の儀式もいらない。春にハラハラと花びらが棺の上に散りかかるのが理想だ」 そう言い残した彼が永遠の眠りにつく場所として選ばれたのは、埼玉県の平林寺です。
安曇野の碌山美術館創設などに関わった彫刻家・笹村草家人(ささむら そうかじん)が設計したそのお墓は、古代の石棺をイメージした重厚なもの。徳川家や源頼朝と同じ真鶴産の「本小松石」が使われ、山梨の村人たちが合宿して運び出した石垣が周囲を囲んでいます。 そして、その立派な墓石の真ん中には、肩書きも、思想も、いっさいの虚飾を削ぎ落とした、ただ一言が刻まれています。
「無」
のちに彼の愛弟子であり、『津田左右吉全集』の編集に生涯を捧げた研究者・栗田直躬(なおみ)も、偉大な師匠のそばにいたいと、すぐ隣に眠ることとなりました。
津田左右吉を深く知る「この一冊!」
講演の名手でもあった漱石による珠玉の講演5篇

古事記及び日本書紀の研究 完全版 / 津田 左右吉 (著)
出版社 : 毎日ワンズ

この本こそが、右翼の標的となり「発禁・有罪判決」を受けた、日本の歴史学における伝説の書です。神話を単なる「信仰」から「科学的な分析の対象」へと引きずり下ろした知の金字塔。当時の国家権力が何を恐れたのか、そして津田がいかに名探偵のように「文献の矛盾」を鮮やかに突いていったのかが分かります。戦後、元東大総長の南原繁も「国を思い、皇室を敬愛する情に満ちている」と絶賛した、学問の自由を守り抜いた「証拠品」とも言える名著です。
📍【完全網羅版】全国を巡る津田左右吉の足跡 — ゆかりの地・史跡リスト
【岐阜県・愛知県エリア】
- 津田左右吉博士記念館(生家)(岐阜県美濃加茂市下米田町西脇1471-1 みのかも文化の森内):明治初期に建てられた生家。伊勢湾台風の被害などを経て、平成13年に現在地へ解体・移築復元されました。偉人の原点に触れることができる美濃加茂の聖地です。
- 美濃加茂市立下米田小学校(旧・文明小学校)(岐阜県美濃加茂市下米田町則光201):母校であり、玄関には毎日子どもたちを見守る「津田左右吉博士胸像」が建ちます。生前より寄贈され続けた著書が収められた「津田文庫」が校長室に保管され、卒業生には厚志による「津田賞(文鎮)」が贈られています。
- 東栃井高月墓地(父 藤馬の墓・津田左右吉博士生誕之地記念碑)(岐阜県美濃加茂市下米田町東栃井):父・藤馬が眠る墓地であり、生家跡地の庭先には生誕の地を示す記念碑がひっそりと、しかし力強く建っています。
- 津田勢以の墓(母の墓)(岐阜県美濃加茂市下米田町信友):苦労して左右吉を育て上げた母の墓。傍らには、東京の左右吉の家から移植されたクチナシの木が大切に植えられています。
- 美濃加茂市立中央図書館前 記念碑「知の積層」(岐阜県美濃加茂市太田町3425-1):「自分の背丈以上の原稿を一生のうちに書きたい」という左右吉の執念をイメージし、同市出身の彫刻家・佐光庸行氏によって1987年に制作されたモニュメントです。
- 美濃加茂市立太田小学校(岐阜県美濃加茂市太田本町):昭和35年、郷土の誇りとして美濃加茂市名誉市民に推挙された際、推戴式が盛大に行われた講堂のある小学校です。
- 浄音寺(岐阜県可児市兼山):津田家先祖の位牌が供養されており、梵鐘(お寺の鐘)にはしっかりと「津田左右吉」の名が刻まれているゆかりの寺院です。
- 名古屋大谷高等学校(旧・大谷派普通学校)(愛知県名古屋市瑞穂区高田町4-19):向学心に燃える青年期に一時在籍した学校の後身です。
【東京都・関東エリア】
- 早稲田大学 旧図書館・大隈講堂(東京都新宿区戸塚町・西早稲田):東京専門学校時代から学び、のちに大隈講堂で準大学葬が営まれた彼のホームグラウンド。大学内には功績を称える「津田左右吉博士記念室」が開設され、貴重な資料が保管されています。
- 南満州鉄道株式会社 東京支社跡(満鮮歴史地理調査室)(東京都港区麻布周辺 ※現存せず):白鳥庫吉の導きで本格的な歴史研究に没頭し、学界へと飛躍する足がかりとなった記念すべき場所です。
- 獨協中学校・高等学校(旧・独逸学協会学校)(東京都文京区関口3-8-1):若き日に歴史教師として教鞭をとった由緒ある学校です。
- 法融寺(會津八一の墓)(東京都練馬区関町東1-4-16):左右吉が博士論文の審査(主査)を務め、のちに講演旅行などを通じて深い親交を結んだ歌人で美術史家の會津八一(秋艸道人)のお墓(分骨)がある寺院です。
- 平林寺 上山霊園(津田左右吉墓所)(埼玉県新座市野火止3-1-1):雑木林の西側に位置する墓所。石棺を模した真鶴産本小松石に「無」と刻まれた墓石は圧巻です。愛弟子・栗田直躬の墓も隣にあります。(※現在は立ち入り制限区域のため、見学の際は寺院のルールにご注意ください)。
- 群馬県立前橋高等学校(旧・群馬県尋常中学校)(群馬県前橋市下沖町321-1):23歳で助教諭として赴任したものの、当時の教育システムへの不満などに苦悩した赴任先です。
- 千葉県立千葉高等学校(旧・千葉中学校)(千葉県千葉市中央区葛城1-5-2):前橋から移り、菊池謙二郎校長のもとで教鞭をとった場所です。
- 岩波書店(東京都千代田区一ツ橋2-5-5):津田事件で共に起訴された盟友・岩波茂雄が創立した出版社。
- 武蔵野市 津田公園(自宅跡)(東京都武蔵野市境2-14):晩年を過ごし、終焉の地となった自宅跡地。現在は市民の憩いの場「津田公園」として整備されています。
- 北軽井沢の歌碑(群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢):平成5年(1993年)、左右吉を偲んで自然の中に建立された歌碑です。
【東北エリア】
- 岩手県平泉町(疎開地)(岩手県西磐井郡平泉町):1945年、戦火を逃れて疎開し、終戦の玉音放送を聴きながらも動じることなく『論語』を読み耽った思索の地。1950年までここで暮らしました。
💬津田左右吉から現代社会へのメッセージ
「群れるな。己の目で真実を見抜き、自分の頭で考えよ」
津田左右吉の生涯は、まさに「究極の知の独立」の物語です。 戦前、日本中が「神話は絶対の歴史だ」と熱狂し、国家権力の弾圧が吹き荒れる中で、彼は「文献におかしな点があるなら、それを指摘するのが学問だ」と一歩も引きませんでした。有罪になれば刑務所に入れられる裁判に引きずり出されてもなお、怯えるどころか裁判官に歴史学の講義をするほどの肝の据わり方です。
しかし、彼の本当の凄みは「戦後」にあります。 昨日まで彼を弾圧していた世の中が手のひらを返し、今度は左翼の知識人たちが「革命の英雄だ!」ともてはやし、「一緒に天皇制を打倒しよう」と誘ってきたとき。彼はそれに乗っかることなく、「君たちの歴史観も、戦前の軍国主義と同じ『狂信』に過ぎない。私は日本の伝統の文化的な価値を認めている」と冷や水を浴びせました。 権力に媚びないのと同じように、世間の「流行」や「ブーム」にも絶対に流されなかったのです。
情報が氾濫し、SNSで「右か左か」「敵か味方か」の極端な意見ばかりが目立つ現代。私たちはともすれば、多数派の意見に乗っかって群れを作り、自分の頭で考えることを放棄してしまいがちです。
しかし津田左右吉は、88年の生涯をかけて私たちに教えてくれます。 「誰かが作った空気に流されるな。真実は、群れの中ではなく、お前自身の『疑う眼』と、孤独な思考の中にのみ存在するのだ」と。
彼の墓石に刻まれた「無」という一文字。それは、見栄やプライド、世間の常識といったいっさいの飾りを捨て去った、本当に自由で強い人間の姿を私たちに示しているのかもしれません。
©【歴史キング】


