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北海道の「父」たち part.2

郷土博士

北海道

2号

「北海道」は、日本の北海道地方に位置する道で、47都道府県の中で唯一の「道」。一昔前では、「蝦夷地 (えぞち)」と呼ばれており、中央政府にとって、アイヌ民族や擦文文化の「異民族の住む地」という扱いでした。江戸時代末期から明治時代にかけて、蝦夷地を日本の領土として明確にするため動きや働きかけがあり、1869年(明治2年)に太政官布告によって「北海道」と命名されたのです。そんな「北海道」を誕生させ、発展させていった北海道の父たちをご紹介します

🔵依田勉三──帯広開拓の父

十勝・帯広地方は、畑作や酪農を中心とした農業が非常に盛んで、北海道一の畑作地帯です。明治維新後の十勝地方は、他の北海道の各地域と同様に、広大な土地がありながら、険しい山々に阻まれて、まさに人跡未踏の地でした。この十勝地方の開拓に挑んだのが伊豆国(静岡県)出身の依田勉三(よだ べんぞう・1853~1925)です。

慶応義塾で福沢諭吉に師事した後、開拓報国の思いを固め、北海道の各地を調査したのち、郷里で晩成社を設立して、十勝国下帯広村(北海道帯広市)を開墾予定地に決め、1883年(明治16)妻と移民三十一人を連れ、大きな決意で横浜を出港し十勝に向かいます。開墾の苦労は激しく、食料の手配もままならず、飢えに苦しむ生活でした。さらに、バッタの来襲、冷害、洪水などによって開拓は苦闘の連続でした。しかし、開拓の苦闘に屈することなく、開墾、牧畜に続いて、澱粉工場、亜麻工場、木工場、宅地造成、食肉の販売、畜産会社、缶詰工場を作り乳業、ハム製造、さらには椎茸栽培、養蚕など、あらゆる事業に挑戦しますが、これらの事業のほとんどは失敗に終わります。しかし、それらは十勝における諸産業の源流になり、この地方が日本の食糧基地と呼ばれるのは、依田の開拓によるところが大きいのです。

今日の十勝平野の繁栄と帯広の発展は、依田の不屈の精神、先見性によるところが大きく、称賛を惜しむ者がいません。彼の精神が受け継がれて、後に続いた者の目標となって十勝・帯広が築き上げられました。依田が「帯広開拓の父」と呼ばれる所以がここにあります。

🔵中村千幹──富良野開拓の父

富良野は北海道のほぼ中央に位置し「へそ」のまちとして、西に夕張山系、東に十勝岳連峰に囲まれ、空知(そらち)川がもたらす肥沃な大地に、農業と観光を基幹産業に発展を遂げています。テレビドラマ「北の国から」の放映などで富良野の知名度は高く、冬には、国内外から多くのスキーヤーで賑わいます。また、富良野盆地による昼夜の温度差などにより、五十種類を超える農作物が生産されています。今日ではこのような発展を遂げる富良野ですが、明治維新後の明治三十年頃までは、全くの未開の土地であったのです。この地に入植し、今の富良野発展の礎を築いた人物が、福岡県出身の中村千幹(なかむら ちから・1866~1916)です。

慶應義塾で福沢諭吉に師事し、「北海道の開拓は、国家事業であり、また個人の資産を治むる道でもある」と教えられ、北海道に憧れを抱くようになりました。1896年(明治29)30歳の時、6人の仲間と共に北海道富良野原野へ入植して富良野の開拓がはじまりました。入植前に測量技術を学んだ中村は、毎日農場の測量をし、土地の区画が出来ると地図を作り、入植計画を進め、各地を回って小作人の募集をします。

「富良野には今は何もないが、将来有望な土地です。必ず素晴らしい作物が実るので私と一緒に富良野に行きませんか。」

最初は、誰もこれに応じるものはいませんでしたが、滝川から釧路間の十勝線の鉄道工事が始まると、徐々に人々が富良野に入植し始め、あちこちで人煙が見られるようになりました。

生涯をかけて富良野の開拓のために心血を注ぎ「富良野開拓の父」と呼ばれる中村の銅像が、現在、富良野市役所前に置かれています。

🔵武田斐三郎──五稜郭の父

日本初の洋式城郭「五稜郭」の立案・設計を行った洋学の俊才で、愛媛県出身の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう・1827~1880)は、「五稜郭の父」と呼ばれています。青年時代から兵学に関心のあった斐三郎は、伊東玄朴や佐久間象山に師事して西洋兵学を学び、幕府諸術調所の教授をつとめる一方、折から開港して要衝となった函館にフランス式築城法を採用した城を築きました。近代的砲撃戦にふさわしい構造で、戊辰戦争では榎本武揚がたてこもって戦ったことで知られています。

🔵時任為基──函館の父

北海道の玄関口、函館の近代化に貢献し、「函館の父」と呼ばれるのが、薩摩藩出身で函館県令を務めた時任為基(ときとう ためもと・1842~1905)です。1887年(明治20)に函館を去るまでの間に函館市街の改正、函館公園の新設、北海道運輸会社の設立、函館町会所の建設、願乗寺川の埋立、区町村基本財産の造成、牧場の開発などを行いました。また函館の北海道共同競馬会社の会長となり、函館競馬の基礎を築いたり、函館中学校(現北海道函館中部高等学校)の校舎老朽化に伴う改築にあたっては、自らの土地一万坪(18,000㎡)を寄付、為基の功績を残すため、その周辺の土地を「時任町」と命名して今日に至っています。俳優の時任三郎は子孫にあたるそうです。

🔵前田駒次──北見開拓の父・農業の父

高知から北海道開拓のために集団移住したキリスト教的団体として、坂本龍馬の甥の坂本直寛をリーダーとする北光社と武市安哉をリーダーとする浦臼・聖園農場が知られていますが、とりわけ北光社が今日の北見地方の発展に尽くした功績は大きく、その農場の一切の経営を委ねられた指導者でのちに野付牛(現北見市)初代町長、道会議員・議長もつとめた高知県出身の前田駒次(まえだ こまじ・1858~1945)は「北見開拓の父」「農業の父」と称されています。

🔵徳弘正輝──湧別原野開拓の父

同じく高知出身で自由民権運動家の徳弘正輝(とくひろ まさてる・1855~1936)も未開の地を開拓する野望に燃え、湧別原野(現湧別町)へ移住して農場経営を成功させました。湧別原野で和人として最初に定住し、農場経営の傍ら、後から入ってきた移住者の開墾の世話を親身に行うなど、地域の発展に尽くした正輝は、湧別原野開拓の第一の功労者として「湧別原野開拓の父」と呼ばれています。

🔵大久保諶之丞──洞爺湖町の開拓の父

北海道の開拓を財政面で支え、洞爺湖町で「開拓の父」と称されるのが、大久保諶之丞(おおくぼ じんのじょう・1849~1891)です。香川県の政治家で、道路開発に情熱を傾け「道神」「四国新道開発の父」と称されるほどですが(P●参照)、香川県議会議員として北海道移民奨励会を設立、移民推進のため北海道に渡り、現地調査と多くの移民者に激励を贈るなど、北海道移住に情熱を傾けました。

🔵前田正名──阿寒の父

殖産興業政策の実践者として知られている前田正名(まえだ まさな・1850~1921)は、全国津々浦々、北海道から九州まで行脚しましたが、北海道東部の開発にも尽くし、「阿寒の父」とも称されています。

🔵永山在兼──阿寒国立公園の父

釧路土木事務所長をつとめた永山在兼(ながやま ありかね・1889~1945)は弟子屈-阿寒湖線(現国道241号線)を開削し、「永山道路」ともよばれるその道路によって、人跡未踏の地を観光地に変えた功績から「阿寒国立公園の父」と呼ばれています。

🔵三松正夫──昭和新山の父

昭和新山(北海道有珠郡壮瞥(そうべつ)町)の麓に、測量器をもって山を見つめる男の銅像があります。この山は、1943年(昭和18)に有珠山麓の麦畑だった地面から突如活動を開始してできあがった火山ですが、この時の様子を、一部始終記録したのが「昭和新山の父」と呼ばれる三松正夫(みまつ まさお・1888~1977)です。

当時は戦争中のため、この噴火活動を研究する学者はいませんでしたが、壮瞥町で郵便局長をしていた正夫だけがこの噴火を見守っていたのです。寝食を忘れ、定点観測を続け、サラと豆の地震計などの観測機器を手作りするなど、創意工夫を重ねてこの活動の一部始終を記録しました。満足な履物がなく溶岩によって足はいつも火傷だらけだったといいます。このときできた新しい火山は、後に正夫によって「昭和新山」と命名されました。

昭和二十一年には、私財をなげうちこの土地を買い取り、天然記念物への申請などの保護に努めます。昭和新山成長過程を記録したスケッチを元に作成した「新山隆起図」は、1948年(昭和23)オスロで開かれた万国火山会議において「ミマツダイヤグラム」と名付けられ、多くの専門家に絶賛されたのです。

伊達町(現・北海道伊達市)に生まれ育った正夫は、毎日自然に親しみ、有珠山を見て育ちます。1910年(明治43)の有珠山噴火に際し、観測調査に来た大森房吉の助手を務め、このとき、「この火山は、噴火が起こると必ず新しい火山をつくる世界でも珍しい火山で、いずれまた新しい火山ができるだろう」と聞き、以来有珠山に興味を持ち、有珠山の様子を毎日スケッチして観察するようになります。強い意志と責任感、自然への並外れた愛情の裏づけがあって、世界的な研究業績を成し遂げたのです。

🔵小泉秀雄──大雪山の父

北海道の中央部に位置し、日本最大の国立公園である大雪山国立公園の中心をなすのが大雪山は、二十以上の山からなりますが、その中に「小泉岳」と呼ばれる山があります。その山名のもとになったのが、在野の植物学者、小泉秀雄(こいずみ ひでお・1885~1945)です。

博物課の教員として上川中学校(現・旭川東高)に赴任した秀雄は、足繁く大雪山に通い続け、登山と植物採集を行い、その成果を日本山岳会発行の『山岳』に「大雪山登山記」や「北海道中央高地の地学的研究」という論文で発表します。

独自の調査結果を記したこれらの手記は、登山者がほとんどいなかった大雪山の先駆的な記録であるとともに、大雪山の存在を広く世に知らしめることになり、多くの登山家たちを大雪山へ向かわせることになりました。また、大雪山群二十数座の山名を名付け、後に大雪山研究の集大成である、名著『大雪山―登山法及登山案内―』(大正15年刊行)を著しました。

秀雄が「大雪山の父」と呼ばれる所以ですが、1920年(大正9)、九年間の赴任を終えて北海道を離れて以後、大雪山について周囲にまったく語ったことがありませんでした。そのため、遺族や教え子たちでさえ、「小泉岳」があることを長く知らなかったといいます。

植物学会における秀雄は、独学の道をたどる在野の学者で、彼の死後五十年が経過した1995年(平成7)になってようやく彼の教え子によって『小泉秀雄植物図集』(植物図集刊行会刊)が出版され、秀雄の業績が再評価されるようになりました。

🔵高橋房次──白老の父・コタンの父

栃木県小山市出身の医師・高橋房次(たかはし ふさじ・1882~1960)は、白老アイヌコタン(アイヌの集落)に建つ白老病院を拠点に、アイヌの人たちを差別することなく、富める人も貧しい人も分け隔てなく、昼夜の別なく精力的に往診に歩き、町民の誰からも親しみをもって「院長さん」と呼ばれて厚い信頼を得ていました。

その死後半世紀以上経った今でも「コタンの父」「白老の父」と称され、町民から敬慕されています。

🔵山本太助エカシ──アイヌ民族復権運動の父

アイヌ民族の研究、活動家としてアイヌ復権運動を展開し、「アイヌ民族復権運動の父」と称されるのが釧路市出身の山本太助エカシ(やまもと たすけ・1904~1993、(注)エカシは「長老」の意味)です。

北海道アイヌ協会理事として、「北海道旧土人保護法」の廃止と新法制定を要求、また、阿寒湖のマリモ保護を訴え、国の特別記念物へと導きました。

アイヌ文化の保存を目指してユーカラ座を結成、全国公演を展開し、1976年(昭和51)にはパリのユネスコ本部で山本太助伝承「アイヌ・ラックル伝」を上演するなど、アイヌ文化の伝承と普及に全力を尽くし、今も道内で暮らすアイヌの人々から尊敬の意味をこめて「エカシ」と呼ばれています。

🔵金田一京助──アイヌ学の父

国語審議会委員をつとめ現代かなづかいの制定や『明解国語辞典』を編纂するなど、終戦後の新時代にふさわしい国語の整備に尽力した金田一京助(きんだいち きょうすけ・1882~1971)ですが、生涯をかけて研究を捧げたのは、「アイヌ語」でした。

東京帝国大学時代の師、上田万年(うえだ かずとし)に「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、アイヌ語研究は世界に対する日本の学者の責任である。」と言われたことからアイヌ語に興味を持った京助は、北海道・樺太をたびたび訪れて調査を進め、アイヌ民族の伝承文学「ユーカラ」の存在に注目しました。

金松マツ、知里幸恵らアイヌの人々と交流しながら研究を続け、埋もれていたアイヌ叙事詩の存在を明らかにして、「アイヌ学の父」と称されています。

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