
父と呼ばれた日本人│長州五傑(長州ファイブ)
🔵「工学の父」「造幣の父」「鉄道の父」など殖産興業策を主導した「長州五傑」

山口県
❐ 長州五傑 / 長州ファイブ
明治維新後に活躍し、「父」と呼ばれた日本人の多くは、幕末から明治にかけて、西洋の近代的文化や科学技術を習得するため、いち早く欧米への留学を経験しました。彼らは当時の最先端の知識・技術を持ち帰り、日本を近代化の流れに導いていくのです。
開国後の1862年(文久2)6月、徳川幕府によってわが国初の留学生がオランダに派遣されました。軍艦操練所から榎本釜次郎(武揚)や赤松大三郎(則良・のりよし)、蕃書調所から西周(あまね)と津田真道(まみち)、長崎養生所から医学勉強中の伊東方成(ほうせい)と林研海(けんかい)、船大工の上田寅吉(とらきち)などが選抜され、海軍・医学・人文科学を学びました。
幕府はその後も、イギリス・ロシア・フランスなどへ留学生や使節を派遣します。日本を近代国家にした先駆者のなかに、倒幕を実現した雄藩出身者と共に、優秀な旧幕臣がいたことを忘れてはなりません。
その頃、各藩の間にも、海外で新しい知識や技術を吸収しようとする機運が高まっていました。とはいえ、実現は不可能です。いくら徳川三〇〇年の鎖国が打ち破られたとはいえ、海外渡航は幕府の禁制であったからです。
ところが、西国の雄藩がこの禁を破ります。長州藩と薩摩藩です。長州藩は1863年(文久3)5月、薩摩藩は1865年(元治2)3月、それぞれ密航留学生を送り出したのです。これについては、前回紹介した「明治維新の父」吉田松陰と島津斉彬の存在を抜きにして語ることはできません。
イギリスへの密航留学を果たした五人の長州藩士
吉田松陰は、開国前の1854年(安政元)、ペリー艦隊が和親条約の回答を得るため再来航した際、下田でアメリカ軍艦に乗り移り、アメリカ渡航を願い出ます。鎖国の禁を破ってまで海外の知識を得る必要性を訴えたわけですが、残念ながら拒否され渡航を断念します。五年後、安政の大獄により刑死したのはご存じのとおりです。
一方、島津斉彬は、1857年(安政4)に密航留学生の派遣を構想しますが、翌年急死したため、薩摩藩は在留フランス人にあっせんを依頼して、1859年(安政6)の春に留学生を選抜しました。
薩長共にこの時の留学生派遣は実現していません。しかし、松陰や斉彬の開明的思想を門下生たちが引き継ぎ、海外留学の意気を駆り立て、それが明治維新の大業を成就させる原動力の一つになったことは間違いありません。
松陰の死から四年後、長州藩首脳は開国後の外交交渉に備え人材育成に注力し、また松陰の遺志を継ぐ高杉晋作も西洋事情を調査するため渡航を計画します。そして、この藩内の動きを背景にイギリスへの密航留学を果たしたのが、五人の長州藩士、井上馨(密航時28歳)、遠藤謹助(きんすけ・同27歳)、山尾庸三(ようぞう・同二六歳)、伊藤博文(同22歳)、井上勝(まさる・同20歳)です。2006年に全国公開された映画「長州ファイブ」で一躍有名になった彼らは、「長州五傑」と呼ばれています。
彼らは、ロンドン大学の講義の合間に、造幣、造船、鉄道敷設などの現場を精力的に視察し、最新の技術や知識を吸収して帰国後それぞれの道を歩みます。伊藤博文は「内閣の父」、井上馨は「外交の父」、遠藤謹助は「造幣の父」、山尾庸三は「工学の父」、井上勝は「鉄道の父」と称されたことからわかるように、いずれも各分野で先駆的な功績を上げ、日本の近代化に尽力しました。
「外交の父」と「造幣の父」
主に政界で活躍したのが、伊藤博文と井上馨(1835~1915)です。井上は、伊藤と生涯の友であり、伊藤・山県有朋と共に「長州の三尊」と呼ばれました。伊藤の「智謀」、山県の「勇敢」に対して、井上は「機敏」の人といわれます。
井上馨(1835~1915)
渡航前は攘夷論者だった伊藤と井上ですが、ロンドンに到着して約半年後、四カ国連合艦隊の馬関(ばかん・下関)砲撃計画を知り、攘夷の非を諭すため帰国します。この時、井上は説得に失敗し、藩内の攘夷派から襲撃され重傷を負います。西欧近代文明の凄さを肌で感じることによって、攘夷の愚を悟り開国派に転じるのは、海外留学組に共通するところです。
その後、井上は、奇兵隊の参謀、戊辰戦争時の九州鎮撫(ちんぶ)総督参謀などを経て新政府に入り、造幣頭・大蔵大輔などの要職を歴任します。1873年(明治6)に退官して一時実業界にありましたが、1875年(明治8)に大阪会議をあっせんして政界に復帰し、1879年(明治12)からは外務卿として条約改正の準備に当たりました。そして、1885年(明治18)の内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で初代外務大臣に就任し、不平等条約の改正に奔走するのです。
井上外交の方針は、法権(領事裁判権の容認)と税権(協定関税制の採用)の一部を回復するというものでした。ところが、鹿鳴館に象徴される欧化政策が国民の批判の対象となり、井上の辞任と共に鹿鳴館時代も終焉します。
井上の外交方針や欧化政策は国民の評判がすこぶる悪いのですが、外交政策そのものがその時代の内外の状況を総合的に判断して妥当であったかどうかは評価の分かれるところです。とはいえ、外務卿時代から初代外務大臣を辞任するまでの約八年間、条約改正に献身的に取り組んだことは事実であり、それゆえ井上は、「近代日本の外交の父」と呼ばれます。
井上以後の条約改正問題を外務大臣として引き継ぐのが、大隈重信、青木周蔵(しゅうぞう)、陸奥宗光です。なかでも陸奥は、第二次伊藤博文内閣の外務大臣として粘り強く交渉し、1894年(明治27)、ロシア帝国の南下に危機感を募らせるイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、36年目にして治外法権の撤廃に成功します。また、日清戦争後の1895年(明治28)には、伊藤博文と共に全権として下関条約に調印し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させました。これらの功績により、陸奥もまた「外交の父」と呼ばれます。
遠藤謹助(1836~93)は、ロンドン大学で理科・自然科学を学びました。維新後は日本の造幣史に新たな歴史を刻み、「近代日本の造幣の父」と称されています。
新政府の造幣事業は、幕府の旧金座および旧銀座を接収したことに始まります。その後、貨幣司、太政官・造幣局、大蔵省・造幣寮と変遷し、この間、旧香港造幣局長のお雇い外国人トーマス・キンドルによって、近代国家としての造幣制度の確立が図られました。
1871年(明治4)、大阪に造幣寮(後造幣局)が竣工し、新貨条例・造幣規則が制定された際、キンドルは造幣寮の首長として寮の建設と機械の据え付けに尽力し、通貨の品位・量目を銀本位制とする意見書を提出、また造幣年報を発行するなど日本の貨幣の信用を高めることに努めました。
キンドルが、わが国の近代的造幣制度の確立に貢献したことは間違いありませんが、遠藤は、日本人技師の力による造幣を目指し、造幣学研究会を立ち上げるなどして造幣技術者の養成に努めます。
維新後は、井上馨の紹介で造幣寮に出仕し、造幣権頭に抜擢されますが、キンドルと対立したためいったん大蔵省に移り、1881年(明治14)に復帰して造幣局長となります。以後、1893年(明治26)に退官するまで、局長として、日本人による洋式新貨幣の製造に努めました。
今日の(独立行政法人)造幣局は、1871年(明治4)に造幣寮が創設された大阪に本局があります。大阪造幣局は「桜の通り抜け」で有名ですが、これは遠藤局長が、「局員だけの花見ではもったいない。市民と共に楽しもう」と言って開放した1883年(明治16)以来のことです。毎年桜の開花時には、造幣局構内の旧淀川沿い全長560メートルの通路が一週間開放され、浪速(なにわ)の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。
日本の工学全分野の発展に尽くした山尾庸三
1870年(明治3)、西洋の科学技術を導入し殖産興業政策を支える工部省は、民部省の一部が独立して設置されました。以後、1885年(明治18)の内閣制度発足時に廃止されるまで、近代国家建設のために鉄道敷設、造船、鉱山開拓、製鉄、電信整備、灯台設置などの官営事業を担いました。
この工部省管轄の教育機関が工部大学校(現東京大学工学部)です。1871年(明治4)に開校した工部省工学寮から発展した工部大学校は、1886年(明治19)の工部省廃止に伴い帝国大学工科大学に統合されるまで、世界に先駆けて実学を重んじた高等教育機関です。
1879年(明12)、志田林三郎ら22名の第一回卒業生を出してから、わずか七年間の間に、日本の近代化の礎を築く数多くの技術者を育てました。辰野金吾、高峰譲吉、井口在屋、小花冬吉、田辺朔郎、藤岡市助、小山正太郎、浅井忠らの卒業生は、後に各分野で「父」なる称号を得ています。維新後まもないこの時期に、なぜこのような高等教育機関の設置が可能だったのでしょうか。
その謎を解くキーパーソンが、伊藤博文と山尾庸三(1837~1917)です。
工学寮設置当時、伊藤は工部大輔として外国人教師を採用する職にありました。工部大学校が短期間で優秀な技術者を育成できたのは、破格の待遇で外国人教師を招聘したからです。進言した伊藤の尽力は特筆すべきことです。伊藤は、その後も工部卿として活躍し、工部省、工部大学校の整備に尽力しています。
一方、山尾は、ロンドン大学で自然科学を学んだ後、単身スコットランド・グラスゴーに移り、昼は造船所の徒弟として造船技術を習得し、夜は当時の工学の草分け的学校だったアンダーソン・カレッジの夜学に通い、滞在五年、31歳になった1868年(明治元)に帰国します。
山尾庸三(1837~1917)
明治政府に出仕した山尾は、イギリス留学の経験を生かし、1870年(明治3)に工部省の設置を、翌年には工学校の開設を建議します。当時の日本に工業の発展に目を向ける人材が乏しく、政府では反対の声が上がりますが、山尾は「人材を育成すれば、その人が工業をつくっていく」と力説しました。その結果、工学寮が設置され、山尾は工学頭に就任し、工部大輔、工部卿を歴任しました。
工部大学校の第一回卒業生たちが、相互の親睦、知識の交換を目的に設置した工学会(現日本工学会)会長に就任した山尾は、1917年(大正6)に辞任するまで36年の長きにわたり日本の工学全分野の発展のために尽くします。山尾が、「工学の父」「明治の工業立国の父」と呼ばれるゆえんです。
山尾は、また、聾唖教育・盲教育の推進者としても知られています。1880年(明治13)山尾によって開校された東京・築地の訓盲院(現筑波大学附属聴覚特別支援学校)は、日本初の盲教育機関といわれています。山尾が盲教育に熱心だったのは、グラスゴーの造船所時代に、ハンディキャップのある人が健常者に混じって堂々と鋲(びょう)打ちの仕事をしているのを見て、衝撃を受けた経験があったからです。日本もイギリスのように、ハンディキャップのある人が教育を受け、健常者以上の能力を備えて社会に参加し貢献できる環境を実現しようとしたのです。
伊藤も山尾も、イギリス留学によって、列強国と日本の実力の差を痛感し、工業を興すことこそ日本のとるべき道であり、そのためには人材への先行投資が不可欠であることを理解していたのです。
「日本鉄道の父」、井上勝
長州五傑の最後の一人、井上勝(1843~1910)は、「日本鉄道の父」と呼ばれ、日本における鉄道事業の先駆者です。
井上は、江戸の蕃書調所や箱館で洋学を学び、密航先のロンドン大学では鉱山学・鉄道技術を習得して、1868年(明治元)に帰国しました。鉄道頭として新橋~横浜間の敷設を指揮した後、大阪~神戸間の鉄道建設を進め、1877年(明治10)、工部省鉄道局初代局長に就任します。
その後、日本人による鉄道建設を目指し、大阪に技師養成所を設立すると、難工事を要した京都~大津間の逢坂(おおさか)山トンネルを、日本人の手だけで完成させています。1886年(明治19)には、当時建設中だった東京~京都間の中山道ルートを東海道ルートに変更し、1889年(明治22)にこれを開通させました。
鉄道庁長官となった井上は、「鉄道攻略の議」を上申して、経済政策や国防上の観点から政府が幹線鉄道を建設し経営すべきと論じます。ところが、1892年(明治25)に実施された鉄道敷設法は、国会議員によって私設鉄道を促進する法案に修正されてしまいます。当時、多くの国会議員が私設鉄道各社の株主だったのです。これに憤った井上は、鉄道庁長官を退任してしまいます。
その後は鉄道院顧問や帝国鉄道協会会長などを務めますが、1910年(明治43)、鉄道状況視察のため訪れた思い出の地・ロンドンで客死しました。
現在、山尾庸三の生家前(山口県山口市秋穂二島)とロンドン大学には、五人が留学後に初めて撮った写真をモチーフにした銅板レリーフを埋め込んだ顕彰碑が立っています。その碑文は、彼らの功績を次のように刻んでいます。
「五人の若者の勇気と情熱をここに称える」
「長州五傑」五人の墓所
井上馨墓所(永平寺東京別院長谷寺・東京都港区西麻布/洞春寺・山口県山口市水の上町)
伊藤博文墓所(伊藤家墓所・東京都品川区西大井)
遠藤謹助墓所(麟祥院・東京都文京区湯島)
山尾庸三墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
井上勝墓所(東海寺大山墓地・東京都品川区北品川)
(C)【歴史キング】


DVD – 2007/9/28
松田龍平.山下徹大.北村有起哉.三浦アキフミ.前田倫良.原田大二郎.榎木孝明.寺島進.泉谷しげる (出演), 五十嵐匠 (監督)

幕末の世、日本の未来のために刀を捨てた、サムライがいた!
2007年 第40回ヒューストン国際映画祭 グランプリ受賞作品
攘夷の嵐が吹き荒れる幕末期に幕府の禁を破ってイギリスへ命がけの密航を果たし、
後に近代日本の幕開けに大きな足跡を残した長州藩の5人の若者、
「長州ファイブ」と呼ばれる、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の激動の運命を描く歴史ドラマ。
ペリー率いる黒船の来航以来、尊皇攘夷の気運が勢いを増す幕末の日本。
そんな中、西欧に人材を派遣し見聞を広め学問や技術を習得することが必要と説く佐久間象山の言葉に
深く心を動かされた長州藩の若者、志道聞多。見つかれば死罪という国禁を犯してまでもイギリスへ渡りたいという聞多の情熱は、
藩主の毛利敬親にも聞き入れられ、藩は密航を黙認するのだった。
こうして、志道聞多と彼の情熱に突き動かされた山尾庸三、野村弥吉、伊藤俊輔、遠藤謹助の5人は、
日本の未来のため、遥かなる異国の地、イギリスを目指して危険な航海に旅立つのだった。
イギリスの最新技術や知識を日本に持ち帰るため、自らを“生きたる機械”にせんとしたファイブの運命とは・・・