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福岡県の偉人:貝原益軒 — 300年の時を超え、現代を照らす「養生」の智慧

郷土博士

福岡県

🟢「人はなぜ、健やかに生きることを願うのか?」

この問いは、現代社会を生きる私たちにとって、ますます切実なものとなっています。平均寿命が延び、「人生100年時代」と称される今、私たちは「ただ長く生きる」だけでなく、「いかに充実した生を全うするか」という課題に直面しています。約300年前、江戸時代中期に福岡の地で生を受けた一人の儒学者が、この問いに対し、時を超えて響く普遍的な答えを私たちに残してくれました。その人こそ、「筑前の鴻儒」と称された貝原益軒です。

19世紀の博物学者シーボルトが「日本のアリストテレス」と称したその博識ぶりは、医学、薬学、儒学、歴史学、地理学、教育学にまで及び、生涯で250巻を超える著作を残しました。特に84歳という晩年に著した『養生訓』は、当時のベストセラーとなり、現代に至るまで読み継がれる健康長寿の指南書として、多くの人々に影響を与え続けています。

本記事では、貝原益軒の波乱に満ちた生涯を辿りながら、彼の思想の核心にある「養生」の智慧、そしてそれが現代社会にどう活かされるのかを深掘りしていきます。単なる歴史上の人物としてではなく、現代の私たちに「生きるヒント」を与えてくれる偉人として、貝原益軒の魅力を余すことなくお伝えします。

波乱の幕開けから「万能の天才」への道

貝原益軒は、1630年(寛永7年)、福岡城下の黒田藩士の家に五男として生まれました。幼少期から学問に秀でていましたが、19歳で福岡藩に仕官したわずか2年後、藩主の怒りに触れ、7年もの間浪人生活を送るという苦難を経験します。しかし、この期間こそが、益軒の人生と学問に深みを与える転機となりました。彼はこの間、江戸や京都へと旅に出て、儒学の研究に没頭します。そして、本草学(薬学)をはじめとする多岐にわたる分野の学者たちとの交流を通じて、その知見を貪欲に吸収していったのです。

27歳で再び藩医として福岡藩に仕えることを許され、翌年には藩費で京都に留学。木下順庵、山崎闇斎といった当時の第一級の学者たちと親交を深め、その学識はさらに磨かれていきました。35歳で福岡に戻り儒官として一家を立ててからは、藩命により『黒田家譜』の編纂に携わるなど、重責を担います。こうした経験の積み重ねが、益軒を単なる学者ではなく、実学を重んじる「万能の天才」へと押し上げていきました。

人生100年時代を先取りした「養生」の思想

貝原益軒の数ある著作の中でも、特に現代に多大な影響を与えているのが、84歳で上梓した『養生訓』です。この書は、彼自身の長年の生活体験と、医学、儒学、そして幅広い学問的知識が凝縮された、まさに人生の集大成ともいえる一冊です。

当時の日本の平均寿命が50歳にも満たなかった時代に、益軒は84歳まで長生きしました。しかも彼は、若い頃から体が弱く、決して健康体ではなかったといいます。しかし、だからこそ彼は徹底した養生に努め、80歳を過ぎても歯は一本も抜け落ちず、夜でも小さな文字を読み書きできたと自ら記しています。この驚くべき健康状態こそが、『養生訓』に記された智慧の確かさを何よりも雄弁に物語っています。

『養生訓』は、専門的な医学書ではなく、一般の人々が日々の生活の中で実践できる「心身の健康心得」として著されました。食欲や色欲を慎み、適切な運動と休息を取り、バランスの取れた食生活を送ることの重要性が説かれています。現代の生活習慣病予防にも通じる、驚くほど普遍的な内容が記されているのです。

『養生訓』の核心:「心の養生」が全ての土台

『養生訓』には具体的な養生法が数多く記されていますが、その中でも益軒が最も重要視したのは「心の養生」でした。彼は「養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ」と説き、心を静かに保ち、怒りや欲望を抑え、常に喜びの感情を持つことが、心と体を養う道であると強調しています。

「心を平静にして徳を養う 心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。その方法は同じなのである。口数多くお喋べりであること、心が動揺し気が荒くなることは、徳をそこない、身体をそこなう。その害をなす点では同様なのである」(『養生訓』第105項・第59項目より)

現代社会はストレスに満ち、心の健康が問われる時代です。デジタルデバイスの普及により情報過多となり、私たちは常に心が掻き乱される状況にあります。このような時代だからこそ、貝原益軒の「心の養生」の教えは、私たちにとっての羅針盤となるのではないでしょうか。心穏やかに、そして健全な精神を保つことこそが、真の健康への第一歩であると、益軒は300年前にすでに喝破していたのです。

教育者としての顔:近代教育の礎を築いた『和俗童子訓』

貝原益軒の功績は、健康分野にとどまりません。81歳の時に著した『和俗童子訓』は、わが国における最初の体系的な教育論書として知られています。この書で展開された教育観や児童観は、中世の教育思想とは一線を画し、近世教育の礎を築きました。そして、明治以降の近代社会における国民教育にも、その思想は深く根付いているとされています。

益軒は、「知って行わざるは知らざるに同じ」という言葉を残しています。これは、知識をただ頭に入れるだけでなく、それを実践することの重要性を示しています。現代の教育現場でも、「アクティブラーニング」や「探究学習」が重視されるように、単なる知識の詰め込みではなく、自ら考え、行動する能力を育むことの重要性が叫ばれています。益軒の教育思想は、まさに現代の教育理念にも通じる先見性を持っていたと言えるでしょう。

貝原益軒ゆかりの地:福岡に息づく偉人の足跡

貝原益軒の足跡は、彼の生まれ故郷である福岡県を中心に、今も色濃く残されています。彼が生涯をかけて学び、著述活動を行った地を訪れることで、その思想と人柄をより深く感じることができます。

貝原益軒墓所と銅像・金龍禅寺(福岡市中央区今川):
福岡市中央区にある金龍禅寺には、貝原益軒とその妻・初子が眠る墓所があります。益軒は、妻の初子に先立つこと約8ヶ月、62歳で亡くなった妻の死を深く悲しんだと言われています。実子には恵まれませんでしたが、和歌をたしなみ、益軒の紀行文や『女大学』の執筆を内助した初子との仲睦まじい夫婦関係は、彼の人間性をうかがわせます。福岡県指定史跡にもなっているこの墓所を訪れれば、偉人の生涯に思いを馳せることができます。寺院内には、益軒の功績を称える銅像も建立されています。

貝原益軒学習の碑(福岡県飯塚市):
益軒が幼少期を過ごした父の知行地である福岡県飯塚市には、「貝原益軒学習の碑」が建てられています。若き日の益軒がこの地でどのように学び、思想を培っていったのか、その原点を感じられる場所です。

貝原益軒屋敷跡(福岡市荒戸1丁目):
益軒が40歳の時に4代藩主黒田綱政から与えられ、生涯の住まいとした荒津東浜(現在の荒戸1丁目)には、屋敷跡が残されています。彼がここで数々の名著を書き上げたことを想像すると、歴史のロマンを感じずにはいられません。

これらのゆかりの地を巡ることは、益軒の人生を肌で感じ、彼の思想がどのように育まれたのかを理解する上で貴重な経験となるでしょう。

Amazonで販売されている売れ筋書籍(一部)

『養生訓・和俗童子訓』 (岩波文庫、石川謙校訂、1961年)
益軒の代表作である『養生訓』と、教育論書『和俗童子訓』を併せて収めた文庫本。長年読み継がれてきた定評ある一冊で、益軒の思想の核心に触れることができます。

『口語 養生訓』 (日本評論社、松宮光伸訳註、2000年)
現代語訳で読みやすく、平易な言葉で益軒の教えが解説されています。初めて『養生訓』を読む方におすすめです。

『養生訓 全現代語訳』 (講談社学術文庫、伊藤友信訳、1982年)
より詳細な現代語訳で、益軒の言葉を深く理解したい方に適しています。学術的な側面も兼ね備えた一冊です。

これらの書籍を通じて、私たちは300年前の益軒の言葉に直接触れ、その智慧を現代の生活に活かすヒントを得ることができます。彼の著作が今なお売れ筋であることは、その教えが時代を超えて私たちに問いかけ、そして答えを与え続けている証拠と言えるでしょう。

現代社会への示唆:貝原益軒から学ぶ「生き方」

貝原益軒の生涯と著作は、現代社会を生きる私たちに、多くの示唆を与えてくれます。

  1. 「人生100年時代」を豊かに生きる指針
    現在の日本は、平均寿命が延び、「人生100年時代」という新たな局面を迎えています。しかし、同時に介護が必要な高齢者も増加し、健康寿命の延伸が重要な課題となっています。益軒の『養生訓』は、まさにこの課題に対する300年前からの答えを示していると言えるでしょう。病気になってから治療するのではなく、日々の生活習慣に留意し、病気を予防するという「養生」の考え方は、現代の予防医学にも通じるものです。92歳で現役の医師である原土井病院の原寛理事長が「実践している私は、この通り元気」と語るように、益軒の教えは今も私たちに健康長寿のヒントを与え続けています。
  2. ストレス社会における「心の健康」の重要性
    益軒が説いた「心の養生」は、現代のストレス社会において、ますますその重要性を増しています。情報過多、人間関係の複雑化、そして先の見えない不安など、私たちの心は常に多くの負荷に晒されています。益軒は、心を穏やかに保ち、怒りや欲望を抑制し、常に喜びの感情を持つことが、心身の健康に不可欠であると説きました。この教えは、現代の精神医学や心理学が提唱するストレスマネジメントの考え方にも深く通じています。心の健康なくして真の健康はない、という益軒のメッセージは、現代人にとって傾聴すべきものでしょう。
  3. 生涯学び続ける姿勢:晩年の知の探求
    貝原益軒は、70歳で藩の役職を退いてからも、死ぬまでの間に多くの著書を世に送り出しました。彼の著作の大半は、70歳以降に書かれたものだといいます。毎年一冊以上、しかも全く異なる分野の本を出版し続けたその知的好奇心と探究心は、まさに「生涯学習」の模範とも言えるでしょう。人生100年時代において、定年後も新たな学びを追求し、自己成長を続けることは、充実した老後を送る上で不可欠です。益軒の生き方は、「学びは一生涯続く」という力強いメッセージを私たちに投げかけています。

貝原益軒の言葉が現代に問いかける「生きる意味」
貝原益軒は、「人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたきものなり。」という言葉を残しています。これは「人の身体は非常に尊く、かけがえのないものであり、この世の全てと引き換えにしても代えがたいものである」という意味です。彼のこの言葉は、現代社会が忘れがちな「自己の尊厳」と「生命の価値」を私たちに思い出させてくれます。

私たちは、とかく他人との比較や物質的な豊かさに目を向けがちですが、益軒は、何よりもまず自分自身の心と体を大切にすることこそが、豊かな人生を築く土台であると教えてくれます。彼の「養生」の智慧は、単なる健康法に留まらず、いかに人間らしく、そして尊厳を持って生きるかという、深い人生哲学を私たちに提示しているのです。

「知って行わざるは知らざるに同じ。」この言葉は、知識や教養をただ蓄積するだけでなく、それを実生活に活かすことの重要性を私たちに突きつけます。貝原益軒の残した膨大な著作と、彼自身の模範的な生き方は、私たち一人ひとりが自身の人生を主体的にデザインし、健やかに、そして豊かに生きるための羅針盤となるでしょう。

福岡が生んだこの偉人の智慧に学び、現代社会をより健やかに、そして意味深く生きるヒントを、私たち自身の生活の中に見出すことができるはずです。貝原益軒の遺した教えは、これからも長く読み継がれ、多くの人々に影響を与え続けることでしょう。

参考文献・関連情報
書籍:

本のご紹介

養生訓・和俗童子訓 / 貝原 益軒(著), 石川 謙 (編さん)

岩波文庫、1961年

『養生訓』は、体と心を一体に見た人間のトータルな健康法をまとめた書で、医学や儒学などの学問を基礎にして、飲食上の注意や長生きの秘訣、生活上の心構えなどがわかりやすい言葉で述べられている。『和俗童子訓』は、日本最初の教育論として名高い書。どちらも、江戸時代のベストセラーである。

全8巻からなる『養生訓』は、第1巻と第2巻が「総論」にあてられている。冒頭、人の身は父母が残した天地の賜物であるから健康に気を配り長生きを心がけよ、という言葉から始まり、養生の目的や意義、基本的な心構えなどが説かれている。以降、第3巻、第4巻は飲食について、第5巻は目や耳、口などの「五官」や入浴、就寝について、第6巻、第7巻は病気について、第8巻は老人や幼児について、種々の健康法や注意点などが続いている。

虚弱の人は餅・団子を控えよとか、宴席ではとくに食事の量を抑えよといった具体的な実践論がある一方で、養生の根幹だという「心を平らかにし、気を和やかにし、言をすくなくし」といった訓示もたくさん見つけられる。健康といえば体の問題だと考えがちな現代人にとって、新鮮に響く部分である。同じように『和俗童子訓』も、教育の原点を再考するうえで示唆に富む内容になっている。

自分の心身にとって「自然」な生き方こそが、仕事や生活の充実につながることは間違いない。過剰な行いを戒め、節度を説く本書から、そのヒントが得られそうだ。(棚上 勉)

本のご紹介

口語養生訓 / 貝原 益軒 (著), 松宮 光伸 (翻訳)

単行本│日本評論社 – 2000/8/1

儒教と中国医学とを修めた貝原益軒が江戸時代の庶民のために書き下ろした生活習慣病と老化予防の現代語訳。数々の、明快かつ究極の健康・長寿法を紹介する。

本のご紹介

養生訓 全現代語訳 / 貝原 益軒 (著), 伊藤 友信 (翻訳)

文庫│講談社学術文庫 – 1982/10/6

養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、唾の慾、言語をほしいまゝにするの慾と喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云(いう)。内慾をこらゑてすくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以(もって)元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。(『養生訓』巻第1・総論上「内なる慾望と外なる邪気」より)

本のご紹介

貝原益軒 (人物叢書 新装版) ) / 井上 忠 (著)

単行本│吉川弘文館  – 1989/2/1


🟢Webサイト:貝原益軒アーカイブ(中村学園 電子図書館)

https://www.nakamura-u.ac.jp/institute/media/library/kaibara/

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