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岡山の偉人:馬越恭平 — 日本初のビヤホールを創った「東洋のビール王」、不撓不屈の快物

プロフィール

馬越 恭平(まごし きょうへい / 地元・井原市では「うまこし」と呼称)
1844(弘化元)年11月21日生│1933(昭和8)年4月20日没(89歳)
「東洋のビール王」「日本のビール王」

  • 出身地:備中国後月郡木之子村(現在の岡山県井原市木之子町)
  • 肩書き:大日本麦酒株式会社 社長、衆議院議員、貴族院議員
  • 異名:東洋のビール王、日本のビール王
  • 座右の銘:西国立志編(自助論)、四気(元気、勇気、長生き、腹のおちつき)
  • 代表的な実績:ヱビスビールの再建、日本初のビヤホールの創設、サッポロ・アサヒ・ヱビスの3社合同(大日本麦酒の創立)、恵比寿駅の開設
  • ゆかりの企業:旧三井物産、サッポロビール、アサヒビール

「心配すべし、心痛すべからず」

(仕事において細心の注意を払い、心配りをするのは当然だ。しかし、くよくよと心を痛めて思い悩む必要はない)

現代の私たちが、仕事終わりに「とりあえず生で!」と冷えたビールを喉に流し込めるのは、この男の存在があったからに他なりません。 明治から昭和初期にかけて、ヱビスビール(日本麦酒)の経営を立て直し、サッポロビール、アサヒビールをも巻き込んだ大合同を成し遂げて「大日本麦酒」を創立。国内シェアの7割以上を握り、世界にその名を轟かせた「東洋のビール王」。

その名は馬越恭平。 一般的には「まごし きょうへい」と読まれますが、彼の生まれ故郷である岡山県井原市では、深い敬愛と誇りを込めて、濁らずに「うまこし きょうへい」と呼ばれています。

医者の家に生まれながら丁稚奉公へ飛び出し、三万両とも言われる莫大な家督を捨てて無一文で上京。破綻寸前だったビール会社の再建を託されると、「日本初のビヤホール」の開設や、ブランド名を冠した駅(現在の恵比寿駅)の設置など、現代のマーケティングにも通じる奇抜で天才的なPR戦略を次々と打ち出しました。

 「四気(元気、勇気、長生き、腹のおちつき)」をモットーとし、89歳で亡くなる直前まで社長として陣頭指揮を執り続けた生涯現役の怪物。 底抜けのバイタリティで日本のビール文化を創り上げた、郷土が誇る”うまこし きょうへい”の豪快な生涯に迫ります。

「負けずの恭やん」から無一文での上京へ

1844年(弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現在の岡山県井原市木之子町)に、代々医者を営む家の次男として生まれました。幼い頃から負けん気が強く、地元では「負けずの恭やん」と呼ばれていました。地元の私塾・興譲館で名儒・阪谷朗廬(さかたに ろうろ)に学び、強靭な精神の骨格を培います。

やがて実業家を志すようになり、大坂へ出て豪商・鴻池家で丁稚奉公を経験。その後、親戚の播磨屋の養子となり家業を継ぎますが、時代は明治維新を迎えようとしていました。 「これからは東京の時代だ。世界を股にかける商人になりたい」。 その思いを抑えきれず、彼は養父の猛反対を押し切り、三万両とも言われる莫大な家督と財産をすべて放棄。柳行李2つとわずか1円70銭の所持金だけを持ち、無一文に近い状態で東京へと乗り込みました。

彼を突き動かしたのは、三井物産初代社長となる益田孝との出会い、そして彼から勧められた一冊の本『西国立志編(サミュエル・スマイルズの「自助論」)』でした。後年、馬越は「私が今日あるのは、西国立志編の賜物である」と語っています。 上京後、井上馨が設立した「先収会社」に入社し、その後身である「旧・三井物産」の創業期メンバーとして大活躍。西南戦争の軍需物資調達などで莫大な利益を上げ、三井の大躍進を支えました。

ヱビスビールの再建と「日本初のビヤホール」

三井物産の専務として辣腕を振るっていた馬越に、人生最大の転機が訪れます。1891年(明治24年)、三井が大株主であった「日本麦酒醸造会社(ヱビスビール)」が経営破綻の危機に陥り、その再建を託されたのです。

当時の日本において、ビールはまだ一部の特権階級のものであり、一般には全く普及していませんでした。社員の給料すら払えない惨状の中、馬越は三井物産を退社し、ビールの経営に専念する覚悟を決めます。 睡眠時間わずか4時間という猛烈な働きぶりでコスト削減を断行する一方、彼は「ビールの売り込みは四者(学者・医者・役者・芸者)に集中すべし」という独自のマーケティング戦略を打ち出します。世間のオピニオンリーダー(現代でいうインフルエンサー)に的を絞り、彼らにビールを飲ませることで、口コミによる大流行を仕掛けたのです。

そして1899年(明治32年)、馬越は東京・新橋際(現在の銀座八丁目付近)に「恵比寿ビヤホール」をオープンさせます。これが日本初のビヤホールでした。 「工場直送の冷えた生ビールと、スライスした大根」というモダンなスタイルは東京中の話題をさらい、連日長蛇の列ができる大ブームを巻き起こします。 さらに1901年(明治34年)、ビールの大量輸送のために工場に隣接して貨物専用の停車場を建設。これが後に旅客駅となり、現在のJR山手線「恵比寿駅」、そして「恵比寿」という地名の由来となりました。一企業のブランド名がそのまま駅名や街の名前になったという、日本の産業史に残る伝説です。

3社大合同と「東洋のビール王」の誕生

ヱビスビールの業績をV字回復させた馬越でしたが、国内のビール競争は激化の一途を辿っていました。渋沢栄一らが率いる「札幌麦酒(サッポロ)」、外山修造らの「大阪麦酒(アサヒ)」、そして「ジャパン・ブルワリー(キリン)」との血みどろのシェア争いが続いたのです。

日露戦争という国家の総力戦の中、「国内での無益な過当競争を避け、輸出を促進して世界と戦うべきだ」と考えた馬越は、政府や渋沢栄一らを巻き込み、凄まじい政治力を発揮します。 1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の大手3社が合併するという歴史的メガ再編が実現。こうして誕生したのが「大日本麦酒株式会社」であり、馬越はその初代社長に就任しました。

大日本麦酒は国内シェアの7割以上を握る圧倒的なガリバー企業となり、馬越は名実ともに「東洋のビール王」として君臨します。彼はその後も、中国の青島(チンタオ)ビールの工場を買収するなど、海外進出を積極的に推し進めました。

文化事業への貢献と、生涯現役の豪快な人生

馬越のエネルギーはビール事業だけに留まりませんでした。 趣味の茶道では「化生(かせい)」と号して深い教養を見せ、高野山で火災が起きた際には、国宝などの文化財を保護するため、益田孝らと共に多額の資金を集め「高野山霊宝館」を建設するという偉業も成し遂げています。 一方で、「1600人の女性と関係を持った」と豪語し、100人目ごとに当たった芸者を落籍して店を持たせたという逸話が残るほど、私生活も規格外の豪快さでした。彼のスタミナの秘訣は「居眠りの名人」であることで、どんな場所でも数分間で熟睡して体力を回復できたと言われています。

また、故郷・岡山県井原市への愛着も深く、地元を走る「井笠鉄道(いかさてつどう)」の初代社長として建設に尽力したほか、私財を投じて学校の講堂や、故郷の川にかかる橋(うまこしばし)、さらには治水工事の費用までを寄付するなど、郷土の発展に多大な貢献をしました。

「人は歳などを数えるようではいけない。83歳になったら、逆に数えて3×8が24歳で、若い気で働くつもりだ」。 その言葉通り、彼は引退することなく、1933年(昭和8年)に89歳でこの世を去るまで、大日本麦酒の社長として経営の第一線に立ち続けました。

馬越恭平を深く知る「この一冊!」

  • 『負けず 小説・東洋のビール王』
    • 著者: 端田 晶
    • 内容: 日本初のビヤホールを創り、エビスビールを日本一に育て上げた“負けずの恭やん”。三万両の身代を捨てて上京し、学歴も英語力もない中、不撓不屈の精神だけで大商社を築き上げた男の破天荒な生涯を描く壮大な大河小説。明日の一杯のビールがさらに美味しくなる、ビジネスパーソン必読のエンターテインメントです。
Information

馬越恭平を深く知る「この一冊!」

日本初のビヤホールを創った男。明日の一杯がさらに美味くなる🍺

本のご紹介

負けず 小説・東洋のビール王 / 端田 晶 (著)

単行本(ソフトカバー) – 2020/9/24

日本初のビヤホールを創り、エビスビールを日本一に育て上げた“負けずの恭やん”。三万両の身代を捨てて上京し、学歴も英語力もない中、不撓不屈の精神だけで大商社を築き上げた男の破天荒な生涯を描く壮大な大河小説。明日の一杯のビールがさらに美味しくなる、ビジネスパーソン必読のエンターテインメントです。

📍【究極・完全網羅版】馬越恭平の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

日本のビール産業の礎を築いた馬越恭平の足跡は、彼の生まれ故郷である岡山県井原市と、ビール文化を発信した東京、そして彼が文化支援を行った和歌山県に至るまで広範囲に残されています。 故郷の井原市では「まごし」ではなく「うまこし」と濁らずに呼ばれており、地元の史跡名もそれに準じています。

【岡山県井原市・笠岡市】 豪快な原点と深い郷土愛

  • 木之子公民館(馬越恭平生家跡・資料館)(岡山県井原市木之子町):
    • 「東洋のビール王」が生まれ育った生家の跡地は現在、木之子公民館となっており、施設内に「馬越恭平資料館」が併設されています。敷地内には、昭和10年に村人たちが感謝を込めて建てた「馬越恭平翁銅像」の跡(戦時中の金属供出で銅像は失われ、現在は記念碑となっています)が残されており、彼の原点を感じることができます。
  • 井原市立木之子小学校(馬越講堂跡)(岡山県井原市木之子町2256):
    • 馬越が私財を投じて建設を支援した「馬越講堂(当時の慎思尋常小学校)」があった場所です。建物は現存しませんが、当時の「講堂の避雷針」が現在も同校の校長室に大切に保管されており、郷土の偉人の遺志を今に伝えています。
  • 三光寺(さんこうじ)(岡山県井原市木之子町3196):
    • 馬越家の先祖が眠る菩提寺。恭平が東京で亡くなった後、遺骨の一部が故郷に帰り、この寺で盛大な埋骨式が行われました。境内には彼を偲ぶ碑などがあります。
  • 馬越橋(うまこしばし)(岡山県井原市 小田川):
    • 馬越が郷土の治水と交通のために多額の寄付をして架けられた橋。現在の橋は老朽化により架け替えられた新しいものですが、「うまこしばし」という名称はそのまま残されており、地元の人々に彼の功績を伝えています。
  • 県主神社(あがたぬしじんじゃ)(岡山県井原市木之子町3908):
    • 馬越の死後、彼が郷土に尽くした遺徳を偲んで、盛大な「感霊祭」が行われた地元の神社です。
  • 興譲館高等学校(旧・興譲館)(岡山県井原市西江原町2257-1):
    • 馬越が幼少期に片道40分かけて歩いて通い、阪谷朗廬のもとで学んだ私塾の系譜を継ぐ学校。彼は後に創立60周年式典で帰郷し、講演を行っています。
  • 井笠鉄道記念館(旧・新山駅)(岡山県笠岡市山口1457-8):
    • 馬越が初代社長を務め、強力な資金援助を行った「井原笠岡軽便鉄道(後の井笠鉄道)」の歴史を伝える記念館。郷土の交通インフラ整備にも尽力した彼の足跡の一つです。

【東京都】 ビール王の伝説と恵比寿の街

  • YEBISU BREWERY TOKYO(旧・ヱビスビール記念館)(東京都渋谷区恵比寿4-20-1 恵比寿ガーデンプレイス内):
    • 2024年4月にリニューアルオープンしたヱビスビールのブルワリー兼体験施設。かつて旧記念館に鎮座していたビール王・馬越恭平の銅像(胸像)は、現在も恵比寿の地でビールの歴史を見守っています。
  • JR恵比寿駅と「恵比寿」の街(東京都渋谷区恵比寿):
    • 馬越がビール輸送のために開設した「恵比寿停車場」が起源。駅の発車メロディにはヱビスビールのCMソング(映画「第三の男」のテーマ)が使われており、一企業のブランド名が街の名になった日本でも稀有な場所です。
  • 日本初のビヤホール発祥の地(銀座ライオンビル付近)(東京都中央区銀座8丁目):
    • 1899年、馬越が新橋際(現在の銀座8丁目付近)に「恵比寿ビヤホール」をオープンさせた地。現在、その精神を受け継ぐ「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」などが銀座のビール文化を守り続けています。
  • 池上本門寺(馬越恭平 墓所)(東京都大田区池上1-1-1):
    • 馬越恭平のメインの墓所は、関東を代表する名刹・池上本門寺にあります。生涯現役を貫いた大実業家はここで静かに眠っています。

【和歌山県】 国宝を守った文化事業

  • 高野山霊宝館(和歌山県伊都郡高野町高野山306):
    • 1888年の高野山大火の後、貴重な文化財を保護するための施設が必要だと考えた馬越は、益田孝らと共に中心となって資金を集め、この霊宝館を建設しました。彼の実業家以外のスケールの大きさを物語る重要なスポットです。

💬馬越恭平の遺産:現代社会へのメッセージ

「四気(元気、勇気、長生き、腹のおちつき)」

馬越恭平が好んで口にした、成功のための4つの要素です。 現代の私たちは、先が見えない社会情勢や日々のプレッシャーの中で、つい「心痛」を抱え、思い悩んで立ち止まってしまいがちです。しかし、馬越は「心配はしても、心を痛めるな」と説きました。 必要なのは、前を向く「元気」、新しいことに挑む「勇気」、それを継続する「長生き」、そして何が起きても動じない「腹のおちつき(覚悟)」です。

無一文から立ち上がり、手探りのビール事業を「ビヤホール」というエンターテインメントへと昇華させ、ライバルたちをも巻き込んで巨大企業を創り上げた彼の人生は、圧倒的な「陽のエネルギー」に満ちていました。 今夜、グラスに注がれたビールを味わうとき、ほんの少しだけ彼に思いを馳せてみてください。「くよくよせずに、笑って働け」。そんなビール王の豪快な声が、泡の向こうから聞こえてくるはずです。

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