岩手県の偉人:高野長英 — 開国を説き時代を駆け抜けた天才蘭学者、その壮絶なる知の闘争
プロフィール
高野 長英(たかの ちょうえい)
1804(文化元)年6月12日生│1850(嘉永3)年12月3日没(47歳)
「水沢の三偉人」「ドクトル(シーボルトより授与)」「シーボルト事件」
- 出身地:陸奥国胆沢郡水沢(現在の岩手県奥州市水沢)
- 職業・肩書き:蘭学者、蘭方医、思想家
- 代表作:『戊戌夢物語』『勧農備荒二物考』『医原枢要』『わすれがたみ』など
- 関連事件:シーボルト事件、モリソン号事件、蛮社の獄
- 遺産:西洋医学・兵学の翻訳と普及、日本初のビールの醸造法の紹介、近代化への思想的基盤の構築
「生涯草木とともに朽ち果てるは、丈夫の恥じる所。崋山は夢物語のために獄に下されし故なれば、人に罪を譲るは義にあらず」
(何もなさずに生涯を終えるのは男として恥ずべきことである。同志である渡辺崋山が私の書いた『夢物語』のために投獄されたというのなら、他人に罪を押し付けて逃げることは人間の道に反する)
幕末という新しい時代の足音が聞こえ始めた頃、日本が鎖国という長い眠りから覚めるために、自らの命と引き換えに西洋の「知」をもたらした男がいました。 岩手県(奥州水沢)が生んだ天才蘭学者・高野長英(たかの ちょうえい)です。 後藤新平、斎藤実とともに「水沢の三偉人」と称される彼は、シーボルト門下きっての俊才として名を馳せ、日本初の生理学書や、飢饉対策として「日本初のビールの醸造法(レシピ)」を記した『勧農備荒二物考(きゅうこうにぶつこう)』を著すなど、民衆を救うための実学を追求しました。
しかし、迫り来る欧米列強の脅威に対し、幕府の無謀な「異国船打払令」を痛烈に批判したことで、過酷な言論弾圧「蛮社の獄」に連座。終身刑を宣告されますが、牢屋に放火させて脱獄するという前代未聞の行動に出ます。 薬品で自らの顔を焼き、人相を変えてまで日本全国を逃亡・潜伏しながら、西洋兵学の翻訳や大砲の設計を行い、日本の近代化への道筋を示し続けた壮絶な人生。 ペリー来航のわずか4年前、幕吏の刃に倒れるまで「知のインフラ」を築き上げた高野長英の、波乱に満ちた47年の生涯に迫ります。
蘭学への目覚めと、江戸への出奔
1804年(文化元年)、陸奥国胆沢郡水沢(現在の岩手県奥州市水沢)に、仙台藩の一門である水沢伊達家の家臣、後藤実慶の三男として生まれました。幼名は悦三郎。 9歳の時に父を亡くし、母の実家である高野家で育ちます。叔父であり養父となった高野玄斎は、あの『解体新書』で知られる杉田玄白の弟子であり、家には多くの蘭学書(オランダ語の書物)がありました。祖父も漢方医であったことから、少年・長英は幼い頃から医学と新しい学問の息吹に触れて育ちます。
17歳の時、兄と共に江戸へ出る機会を得ます。養父の反対を押し切り、無尽講の当たりくじの金を持って江戸へ向かったとも言われるほど、彼の学問への渇望は強烈でした。 江戸では蘭方医・吉田長淑の内弟子となり、その類まれな語学力と情熱を認められ、師の「長」の一字をもらい受けて「長英」と名乗るようになります。
長崎・鳴滝塾の俊才、シーボルト事件を回避
1825年(文政8年)、22歳になった長英は、本場の蘭学を学ぶために長崎へ赴き、オランダ商館医として来日していたドイツ人医師・シーボルトの「鳴滝塾」に入門します。 彼の語学力は塾内でも群を抜いており、シーボルト門人たちが著したオランダ語論文集において、長英の論文が最も多く収録されているほどでした。わずか1年後にはシーボルトから「ドクトル(先生)」の称号を授与されます。
オランダ語に堪能すぎた長英には、こんな逸話があります。鳴滝塾の宴会で「オランダ語以外を話したら罰金」というルールが設けられた際、酔った門人たちが次々と日本語を話して罰金を取られる中、長英だけはオランダ語を話し続けました。それを妬んだ仲間が長英を階段から突き落としたところ、長英はとっさに「GEVAARLIJK!(オランダ語で『危ない!』)」と叫んだというのです。
1828年(文政11年)、国外持ち出し禁制品である日本地図などをシーボルトが持ち出そうとした「シーボルト事件」が発覚し、多くの門人が捕縛されますが、長英はたまたま長崎を離れて旅行中であったため、奇跡的に難を逃れました。これを機に彼は、「日本一の蘭学者になる」という志を胸に、郷里の高野家と義絶し、江戸へと戻ります。
町医者としての活躍と、日本初の「ビール・レシピ」
1830年(天保元年)、江戸の麹町で町医者として蘭学塾「大観堂」を開業した長英は、三河田原藩の重役・渡辺崋山らと出会い、洋学研究の結社「尚歯会(しょうしかい)」で中心的な役割を担います。 彼は医学のみならず、民衆の生活を救うための実学に力を注ぎました。
天保の大飢饉で人々が飢えと寒さに苦しむ中、1836年(天保7年)に著した『勧農備荒二物考』では、寒冷地でも育ちやすい早蕎麦(早生のソバ)とバレイショ(じゃがいも)の栽培・調理法を説きました。 驚くべきことに、この書物の中で早蕎麦の活用法として、日本語で初めて「ビール(ビイル)」の醸造法を紹介しています。「蘭人(オランダ人)はこれを用いてビールという少し苦味のある酒を造る」と記し、麦麹を用いた発酵の手順まで詳細に解説しました。長英は医学の枠を超え、西洋の知識を総動員して民衆を救おうとしたのです。
蛮社の獄と「夢物語」の代償
長英が政治の波に巻き込まれたのは、1837年の「モリソン号事件」が発端でした。日本人漂流民を乗せてやってきたアメリカ商船モリソン号を、幕府が「異国船打払令」に基づき砲撃して追い返したのです。
これに対し長英は、『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を著し、「相手の事情も聞かずに砲撃するのは国際的な仁義に反する」と幕府の無知と強硬策を痛烈に批判しました。渡辺崋山も『慎機論』で同様の危機感を訴えます。しかし、この開明的な意見は、保守派の幕府重臣・鳥居耀蔵らの逆鱗に触れました。1839年(天保10年)、蘭学者たちを一斉弾圧する「蛮社の獄」が勃発します。
身を隠すよう勧められた長英でしたが、同志である崋山が捕らえられたと知ると、「人に罪を譲るは義にあらず」と自首。町人身分として扱われた彼に下された判決は、無期禁固刑にあたる「永牢(えいろう)」でした。伝馬町牢屋敷に収監された長英ですが、劣悪な環境の牢内で囚人たちの医療に尽くし、次第に「牢名主」として祭り上げられていきます。
炎の脱獄と、顔を焼いた逃亡者
「いつまでもこんな所で朽ち果てるわけにはいかない。日本の危機を救うために、私にはまだやることがある」 獄中でそう決意した長英は、1844年(弘化元年)6月、牢の雑役夫(非人・栄蔵)を買収して放火させました。江戸の牢屋敷には、火災の際に囚人を一時的に解放する「切り放ち」という掟がありました。これに乗じて脱獄を果たした長英は、約束の3日後になっても戻ることはなく、決死の逃亡生活に入ります。
幕府の凄まじい追跡網をかいくぐり、さいたま、群馬、東北、そして故郷・水沢で老母との再会を果たした後、彼は四国の伊予宇和島藩(現在の愛媛県)へ向かいます。開明的な名君・伊達宗城に匿われた長英は、そこで兵学書の翻訳や、当時最高水準の「久良砲台(ひさよしほうだい)」の設計を行いました。
しかし、宇和島にも幕府の探索の手が迫ります。江戸に戻った長英は、手配書の人相書きから逃れるため、硝酸(硝石精)で自らの顔を焼き、人相を変えるという壮絶な手段に出ました。そこまでして彼が生き延びようとしたのは、迫り来る欧米列強から日本を守るための「西洋兵学の翻訳」を一日でも早く完成させるためでした。
「沢三伯」という偽名で青山に隠れ住み、町医者をしながら執念で翻訳を続けましたが、1850年(嘉永3年)10月30日、ついに密告により南町奉行所の捕方に踏み込まれます。 もはやこれまでと悟った長英は、十手で殴打されながらも隠し持っていた短刀で自らの喉を突き、壮絶な自刃を遂げました。享年47。
彼が命懸けで残した翻訳書や「敵を知らねば国は守れない」という思想は、佐久間象山や橋本左内、そして大村益次郎ら幕末の志士たちへと引き継がれ、明治維新という近代国家建設の強力な原動力となりました。
高野長英を深く知る「この一冊!」
吉村作品の歴史小説決定版!

長英逃亡(上) (新潮文庫) / 吉村 昭 (著)
文庫 – 1989/9/28

長英逃亡(下) (新潮文庫) / 吉村 昭 (著)
文庫 – 1989/9/28

蛮社の獄で終身禁固となった当代一の蘭学者・高野長英。小伝馬町の牢屋敷に放火させて脱獄を図り、薬品で顔を焼きながら日本全国を逃亡・潜伏する姿を描く。幕府の威信をかけた凄まじい追跡と、それに抗いながらも「知」を後世に残そうとした長英の執念を描いた、息を呑む歴史長編小説です。
📍【究極・完全網羅版】高野長英の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
幕末の闇を駆け抜けた高野長英の足跡は、生誕地の岩手県奥州市、蘭学を学んだ長崎、逃亡中に匿われた埼玉県・群馬県・愛媛県、そして最期を迎えた東京都から、遺骸が眠る茨城県に至るまで点在しています。
【岩手県 奥州市(旧・水沢市)】 生誕の地と三偉人の誇り
- 奥州市立高野長英記念館(岩手県奥州市水沢中上野町1-9):
- 長英の波乱に満ちた生涯と業績を伝える中心的な施設。国指定重要文化財である長英の肖像画(椿椿山 画)や、『勧農備荒二物考』の写本、自筆のオランダ語兵書などが展示されています。
- 国指定史跡 高野長英旧宅(生誕地)(岩手県奥州市水沢吉小路34):
- 彼が生まれ、江戸に出る17歳までを過ごした高野家の居宅跡。現在も建物の一部が保存されており、彼が幼少期に蘭学への興味を抱いた原空間を感じることができます。
- 大安寺(高野長英の墓・菩提寺)(岩手県奥州市水沢東町):
- 水沢伊達家の菩提寺。明治に入ってから高野家の累代墓地に長英の墓石が建てられ、彼の愛用品(垢つきの布など)が霊体として納められました。郷土の人々に最も親しまれ、守られている墓所です。
【茨城県】 密かに埋葬された遺骸の行方
- 浄真寺(高野長英 墓所)(茨城県土浦市立田町3-28):
- 青山で自刃し、罪人として扱われた長英の遺骸を、彼を支援していた同郷の薬種問屋・神崎屋(片岡家)が密かに引き取り、自らの墓地に埋葬しました。ここに長英の「真の遺骸」が眠っています。
【東京都】 蘭学塾、投獄、そして最期の地
- 蘭学塾「大観堂」跡(東京都千代田区麹町3・4丁目付近):
- 長英が江戸に戻り、町医者および蘭学者として開いた塾の跡地。ここで渡辺崋山らと交わり、『戊戌夢物語』を執筆しました。現在は「高野長英蘭学塾跡」の案内板が設置されています。
- 伝馬町牢屋敷跡(十思公園)(東京都中央区日本橋小伝馬町5-2):
- 蛮社の獄で長英が収監され、後に脱獄のために放火させた小伝馬町牢屋敷の跡地です。
- 高野長英先生隠れ家(最期の地)の碑(東京都港区南青山5丁目):
- 硝酸で顔を焼き「沢三伯」と名乗って潜伏・開業していた青山百人町(現在の南青山5丁目・スパイラルビル裏手付近)の隠れ家跡。ここで幕吏に踏み込まれ、壮絶な最期を遂げました。
【長崎県】 「ドクトル」の称号を得た蘭学の聖地
- シーボルト鳴滝塾跡(長崎県長崎市鳴滝2丁目):
- 長英が22歳で入門し、圧倒的な語学力で塾頭にまで上り詰めた日本蘭学の最高学府跡。ここでシーボルトから直接教えを受け、「ドクトル」の称号を得ました。
【埼玉県・群馬県】 脱獄後の隠れ家
- 旧高野家離座敷(埼玉県さいたま市緑区大間木):
- 牢屋敷を脱獄した長英が、門人であった大間木の医師・高野隆仙を頼り、約1か月半にわたって匿われた離れ座敷が現在も保存・公開されています。
- 高野長英宿泊の離れ(中之条町歴史と民俗の博物館「むせつ」内)(群馬県吾妻郡中之条町大字中之条町947-1):
- 逃亡中の長英が、門人であった高橋景作を頼って群馬県中之条に潜伏した際、実際に宿泊した「離れ」が博物館の敷地内に移築保存されています。
【愛媛県】 名君・伊達宗城の庇護と富国強兵
- 高野長英居住地跡(愛媛県宇和島市丸之内1丁目):
- 宇和島藩主・伊達宗城に密かに招かれた長英が、家老の屋敷内に潜伏し、藩士たちに蘭学や兵学を教え、翻訳作業に没頭した場所です。
- 高野長英の隠れ家(二宮敬作住居跡)(愛媛県西予市宇和町卯之町):
- 逃亡中の長英が宇和島藩に赴く際、鳴滝塾の同門であった二宮敬作を頼り、一時身を隠した住居跡周辺です。
- 久良砲台跡(ひさよしほうだいあと)(愛媛県南宇和郡愛南町久良):
- 宇和島藩に匿われた長英が、西洋兵学の知識を総動員して設計・構築を指導した砲台の跡。当時日本最高水準の海岸防備施設であり、彼の知識が実戦的な「国防」に直結したことを示す重要な史跡です。
💬高野長英の遺産:現代社会へのメッセージ
「国を守るためには、まず世界を知らねばならない」
高野長英が命を懸けて幕府に訴えたのは、極めてシンプルで現実的な真理でした。 相手の戦力や国際情勢を正確に把握することなく、ただ感情的に「打ち払え」と叫ぶことは、国を滅ぼす暴挙でしかありません。彼は、オランダ語という「情報収集ツール」を駆使して世界の現実を直視し、感情論ではなくファクト(事実)に基づいた国防と政治を求めました。
現代社会においても、私たちは見えない脅威や未知の事象に対し、時に感情的な拒絶や排除に走りがちです。 しかし、長英は投獄され、顔を焼いて逃亡する極限状態にあっても、決して思考を止めず、洋書の翻訳を続けました。知識と情報こそが、未来を切り開く唯一の武器だと信じていたからです。 彼が残した「知のインフラ」は、後に続く世代を動かし、やがて明治維新という近代日本の扉を開きました。フェイクニュースや偏見が飛び交う現代だからこそ、高野長英の「現実を直視し、知を以て世界に立ち向かう」という執念は、私たちに鋭い問いを突きつけています。
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