埼玉県の偉人:本多静六 — 「日本の公園の父」にして「蓄財の神様」、人生を森と未来に投資した男
プロフィール
本多 静六(ほんだ せいろく) / 旧姓:折原
1866(慶応2)年8月11日生│1952(昭和27)年1月29日没(85歳)
「日本の公園の父」「蓄財の神様」「伝説の億万長者」
- 出身地:武蔵国埼玉郡河原井村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町河原井)
- 職業・肩書き:林学者、造園家、投資家、東京帝国大学教授、林学博士
- 座右の銘:人生即努力、努力即幸福
- 代表的な実績:日比谷公園や明治神宮の森など全国の公園設計、日本初の林学博士、「月給4分の1天引き貯金」の実践、全財産の匿名寄付と育英基金の創設
- 著書:『私の財産告白』『人生計画の立て方』『処世の秘訣』など376冊
「人生即努力、努力即幸福」
(人生とは努力そのものであり、努力すること自体が幸福である)
現代の私たちが、コンクリートジャングルである大都会・東京の真ん中で「日比谷公園」の緑に癒され、「明治神宮」のうっそうとした森の静寂に包まれることができるのは、ある一人の林学者の執念と先見の明があったからです。 本多静六(ほんだ せいろく)。 日本初の林学博士として、全国数百に及ぶ公園の設計を手がけ「日本の公園の父」と呼ばれた人物です。
しかし、彼の偉大さは学問や造園の分野にとどまりません。 幼少期の極貧生活から抜け出すため、ドイツ留学時代に恩師から学んだ教えを元に「月給4分の1天引き貯金」を断行。その資金を元手に株式や山林へ投資し、現在の価値で数百億円とも言われる巨万の富を築き上げた「伝説の億万長者」「蓄財の神様」でもありました。 そして何より人々を驚かせたのは、60歳での定年退官を機に、その莫大な全財産を「子孫のためにならない」と教育機関や公共事業にポンと寄付してしまったことです。
極貧から這い上がり、学問を極め、巨富を築き、最後はすべてを社会に還元して簡素な生活に戻った男。 SDGsや投資教育が叫ばれる現代において、最も学ぶべき生き方を示した本多静六の、驚嘆すべき85年の生涯を紐解きます。
井戸の底から見上げた光:どん底からの猛勉強
1866年(慶応2年)、武蔵国埼玉郡河原井村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に、代々名主を務める裕福な農家・折原家の第六子として生まれました。 幼い頃は、勉強嫌いで学校の境内を遊び場にするようなガキ大将でした。しかし、9歳の時に父親が急死すると、家に多額の借金があることが判明し、一家はどん底の極貧生活へと転落します。
「人間は不足不遇の状態にあるとかえって求むる心が強くなり、奮発努力するものだ」。
この言葉通り、苦境に立たされた静六は猛烈な向学心を燃やします。14歳で上京して元岩槻藩塾長・島村泰の書生となり、農繁期は実家に帰って米搗きや農作業を手伝い、農閑期は上京して勉学に励むという過酷な「半農半学」の生活を続けました。
1884年(明治17年)、17歳で新設された東京山林学校(現在の東京大学農学部)に入学します。しかし、周囲は優秀なエリートばかり。基礎学力に劣る静六は、最初の期末試験でまさかの「落第」をしてしまいます。 絶望し、恩師や家族に申し訳が立たないと思い詰めた彼は、なんと井戸に身投げをして自殺を図ります。しかし、幸か不幸か井戸の途中で身体が引っかかり、奇跡的に一命を取り留めました。
暗い井戸の底で生への執着を取り戻した静六は、「努力しさえすれば人並み以上になれるのだ」と決死の覚悟で猛勉強を開始します。睡眠時間を極限まで削り、文字通り血を吐くような努力を重ねた結果、見事成績は急上昇。1890年(明治23年)には、東京農林学校を首席で卒業し、天皇から銀時計を授与されるまでに至ったのです。
傑物一家への入り婿と、ドイツ留学の危機
卒業直前、静六は本多家の婿養子となり、妻・銓子(せんこ)と結婚します。養父の「本多敏三郎(維新後に本多晋と改名)」は、上野戦争を戦った彰義隊の隊長であり、妻の銓子も後に「日本で4人目の公認女医」となるほどの傑物でした。
卒業と同時に、静六は念願であったドイツへの留学に旅立ちます。 しかし、ここで再び絶体絶命の危機が訪れます。養家の本多家が預金していた銀行が倒産し、静六への学費の仕送りが完全に途絶えてしまったのです。 手元にある資金を切り詰めても、2年分の生活費しかありません。静六は、通常4年かかる博士課程を「2年で修了する」という無謀な計画を立て、毎晩3〜4時間睡眠という超人的な猛勉強に打ち込みます。結果、見事にミュンヘン大学で国家経済学のドクトル(博士号)を取得し、日本へと帰国しました。
このドイツ留学時代、彼に生涯の指針を与える決定的な出会いがありました。ルヨ・ブレンターノ教授からの教えです。 「学者であっても、独立した生活ができるだけの財産をこしらえなければならない。そうしないと、金のために自由を奪われ、精神の独立も生活の独立もおぼつかないようになる」
「経済の自立なくして、自己の確立はない」。極貧の苦しみを知り尽くしていた静六は、この教えを胸に深く刻み込みました。
「4分の1天引き貯金」と「職業の道楽化」
1892年(明治25年)、26歳の若さで母校の助教授に就任した本多は、決意を実行に移します。それが、有名な「月給4分の1天引き貯金法」です。
当時の本多家は家族9人を養う大所帯でしたが、静六は容赦なく給料から先に4分の1を天引きして貯金し、残りの4分の3で生活するという極端な倹約生活を断行しました。臨時収入や印税は「全額貯金」です。ゴマメとご飯だけの弁当を持参し、周囲から「ケチん坊」と嘲笑されても、彼は決してルールを曲げませんでした。
やがて貯金がまとまると、それを元手に株式や鉄道事業、そして自身の専門知識を活かして山林への投資を開始します。「二割利食い、十割益半分手放し」「好景気には勤倹貯蓄、不景気には思い切った投資」という独自の実践的投資法により、彼の資産は雪だるま式に増え続け、やがて莫大な富を築き上げる「蓄財の神様」となったのです。
さらに彼は、成功の最大の秘訣として「職業の道楽化」を提唱しました。 「どんな仕事でも最初はつらいが、一生懸命に打ち込み、工夫を重ねていくうちに面白くてたまらなくなる。仕事が道楽になれば、その“カス”として金や名誉が自然とついてくる」。 彼はこの哲学を体現し、大学での研究や講義をこなしながら、毎日必ず1ページ原稿を執筆し、生涯で370冊以上もの著書を残しました。
日本の公園の父:日比谷公園と「首かけイチョウ」
本多の林学者・造園家としての業績は、日本の風景を根本から変えました。 1899年(明治32年)には、複数名と同時にではありますが最年少で学位を授与され、名実ともに「日本初の林学博士」となり、全国の公園設計や国立公園の創設に奔走します。
彼の名を一躍高めたのが、日本初の近代的な洋式公園である「日比谷公園」の設計です(1903年開園)。 建設中、道路拡張のために公園内の巨大なイチョウの木が伐採されようとしていました。本多はこれに猛反対し、「私の首を賭けても移植を成功させてみせる」と市議会や上司を説得。見事に移植を成功させました。この木は現在も日比谷公園の松本楼のそばにそびえ立ち、「首かけイチョウ」として親しまれています。
また、明治神宮の森の造営も彼の偉大な功績です。 「永遠に続く荘厳な森を作りたい」という構想に対し、当時の大隈重信首相らは成長の早いスギやヒノキを植えようとしました。しかし本多は「東京の気候や土壌では、最終的にはシイやカシなどの常緑広葉樹の森にしなければ長続きしない」と科学的根拠をもって反論し、100年後の自然遷移を見越した壮大な植林計画を立案・実行しました。現在、都心に広がるあの鬱蒼とした鎮守の杜は、本多の計算通りに完成した奇跡の「人工の森」なのです。
潔き大団円:全財産の寄付と晴耕雨読の最期
大正時代には関東大震災の復興院で後藤新平を支え、帝都復興の素案を不眠不休で書き上げるなど、国家のために尽力した本多。 そして1927年(昭和2年)、60歳で東京帝国大学を定年退官する時、彼は世間をアッと驚かせる行動に出ます。
「人並み外れた大財産は、子孫のためにならない。かえって子孫を不幸に陥れる」
そう悟った彼は、家族に最小限の生活費だけを残し、自らが築き上げた巨額の財産(株式、預金、広大な山林など)のほぼすべてを、匿名のまま教育機関や公共財団に寄付してしまったのです。 特に、1930年(昭和5年)に埼玉県へ寄付した秩父市(旧大滝村)の広大な山林(約2,600ヘクタール)から得られる収益は「本多静六博士奨学資金」として、現在に至るまで数千人の苦学生の学びを救い続けています。
すべてを手放し、再び無一文に近い簡素な生活に戻った本多は、晩年を静岡県伊東市の高台に建てた別荘「歓光荘」で過ごしました。自ら野菜を育てる「晴耕雨読」の生活を送り、亡くなる直前まで病床で執筆を続けました。
「現在に感謝し、日に新たなる努力を楽しむ」。
その言葉通りに生き抜いた巨人は、1952年(昭和27年)、85歳で静かにこの世を去りました。
本多静六を深く知る「この一冊!」
知られざる偉人の実像に迫る渾身の傑作評伝

本多静六 若者よ、人生に投資せよ / 北 康利 (著)
単行本 – 2022/9/20

わが国初の林学博士にして、「蓄財の神様」と呼ばれた大投資家。そして最後はその全財産を若者たちのために寄付した本多静六の、映画のように痛快でスケールの大きな生涯に迫る傑作評伝。「タイムマシーンがあるなら彼から直接教えを受けたかった」と現代のトップ投資家たちも絶賛する、究極のSDGsと人生の指南書です。
📍【究極・完全網羅版】本多静六の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
「日本の公園の父」が残した緑の遺産と、その生涯を称える史跡は、故郷である埼玉県や、彼が設計した東京の各所に残されています。
【埼玉県】 生誕の地と寄贈された「永遠の森」
- 本多静六記念館(久喜市菖蒲行政センター5階)(埼玉県久喜市菖蒲町新堀38):
- 本多静六の生涯、林学・造園学の業績、人生哲学、蓄財法に関する資料を網羅した国内最大の記念館。直筆の原稿や遺品、「首かけイチョウ」のエピソード、全国の公園の模型などが詳細に展示されています。(入場無料)
- 本多静六博士生誕地記念園(埼玉県久喜市菖蒲町河原井 県道12号川越栗橋線沿い):
- 彼が生まれた河原井村の生誕地近くに整備された記念園(道のオアシス)。園内には博士の堂々たる胸像が設置されており、日比谷公園の「首かけイチョウ」から接ぎ木されたイチョウやユリノキが植えられています。台座には彼が県に寄贈した秩父の石が使われています。
- 本多静六博士の森(三崎の森公園内)(埼玉県久喜市菖蒲町三箇63他):
- 博士が明治神宮の森を造営した際の「自然の力を生かした森づくり」の理念を取り入れ、平成20年度に生誕の地に整備された森です。
- 本多静六博士寄贈の県有林(旧大滝村中津川の山林)(埼玉県秩父市):
- 昭和5年に本多が埼玉県に寄贈した約2,600ヘクタールもの広大な山林。ここから得られる収益が「本多静六博士奨学資金」となり、現在も多くの学生の学びを支え続けています。
- 本多静六博士頌徳碑(埼玉県秩父市中津川 県道210号・中津峡沿い):
- 上記の広大な山林を埼玉県に寄付した本多静六の偉大な功績を永遠に称えるため、昭和7年(1932年)に県有林内である風光明媚な中津峡の岩肌に建立された記念碑です。
- 羊山公園(ひつじやまこうえん)(埼玉県秩父市大宮6360):
- 本多が設計に携わった秩父の代表的な公園。現在では美しい「芝桜の丘」として全国的に有名です。
- 武蔵嵐山(むさしらんざん)(埼玉県比企郡嵐山町):
- 昭和3年、この地を訪れた本多が、風景が京都の嵐山に似ていることから「武蔵嵐山」と命名。これが後に駅名や自治体名(嵐山町)の由来となりました。
【東京都】 緑のインフラと研究の拠点、そして終焉の地
- 日比谷公園(東京都千代田区日比谷公園):
- 本多が中心となって設計した日本初の近代的な洋式公園。松本楼の近くには、彼が自分の首を賭けて移植を成功させた有名な「首かけイチョウ」が、今も力強く天に向かってそびえ立っています。
- 明治神宮の杜(東京都渋谷区代代木神園町):
- 「100年後に永遠の森(極相林)になるように」という本多の緻密な計算と壮大なビジョンに基づき、全国からの献木によって造営された人工林。
- 東京大学農学部(旧東京農林学校・帝国大学農科大学)(東京都文京区弥生):
- 彼が井戸に身投げするほどの挫折を味わいながらも首席で卒業し、後に日本初の林学博士として教鞭をとった学問の拠点です。
- 東京駅 丸の内駅前広場・行幸通り(東京都千代田区):
- 公園だけでなく、日本の中心である東京駅の駅前広場や、皇居へと続く行幸通りの初期の設計・景観策定にも本多が深く関わっています。
- 青山霊園(本多家墓所)(東京都港区南青山):
- 国家と未来の若者たちのために全財産を捧げ、85歳で大往生を遂げた巨人は、この日本を代表する霊園内にある本多家の墓所で静かに眠っています。
【特別一覧:本多静六が設計・改良に携わった全国の主な公園・風景策】
「日本の公園の父」として彼が手がけた主な公園等は、北は北海道から南は九州・海外まで数百に及びます。
春採公園(北海道釧路市)、大沼公園風景利用策(北海道七飯町)、室蘭公園(北海道室蘭市)、松島公園経営(宮城県松島町)、金華山公園(宮城県石巻市)、温海温泉改良案(山形県鶴岡市)、鶴ケ城公園(若松公園設計案・福島県会津若松市)、偕楽園改良(茨城県水戸市)、常盤公園(茨城県水戸市)、日光風景利用策(栃木県日光市)、日光社寺境内改良案(栃木県日光市)、敷島公園改良設計(群馬県前橋市)、伊香保温泉の新経営(群馬県渋川市)、大宮公園(氷川公園・埼玉県さいたま市)、飯能遊覧地(埼玉県飯能市)、森林公園と奥秩父(埼玉県秩父市)、羊山公園(埼玉県秩父市)、清水公園(千葉県野田市)、南房総国定公園(千葉県鴨川市)、日比谷公園(東京都千代田区)、奥多摩風景利用策(東京都奥多摩町)、大磯公園(神奈川県大磯町)、箱根風景利用策(神奈川県箱根町)、舞鶴城公園改良設計(山梨県甲府市)、遊亀公園(山梨県甲府市)、軽井沢遊園地設計方針(長野県軽井沢町)、懐古園改良設計(小諸公園・長野県小諸市)、臥竜公園(須坂町公園・長野県須坂市)、山ノ内温泉風景利用策(長野県山ノ内町)、城山公園(長野県飯山市)、天竜峡風景利用策(長野県飯田市)、村杉温泉風景利用策(新潟県阿賀野市)、卯辰山公園(石川県金沢市)、芦山公園(福井県越前市)、中村公園(愛知県名古屋市)、鶴舞公園改良(愛知県名古屋市)、清洲公園(愛知県清須市)、定光寺公園(愛知県瀬戸市)、日本ライン風景利用策(愛知県犬山市)、岡崎公園改良設計(愛知県岡崎市)、天王川公園(愛知県津島市)、岐阜公園(岐阜県岐阜市)、養老公園(岐阜県養老郡養老町)、大津森林公園(滋賀県大津市)、琵琶湖風景利用策(滋賀県)、箕面公園(大阪府箕面市)、住吉公園(大阪府大阪市)、浜寺公園(大阪府堺市)、有馬温泉風景利用策(兵庫県神戸市)、城崎温泉改良(兵庫県豊岡市)、布引水源村(兵庫県神戸市)、六甲山公園設計(兵庫県神戸市)、奈良公園(奈良県奈良市)、和歌山公園(和歌山県和歌山市)、城山公園(島根県松江市)、広島市の風景利用策(広島県広島市)、宮島公園・厳島公園改良案(広島県廿日市市)、広島県佐伯郡桜尾城址公園(広島県廿日市市)、尾道公園(広島県尾道市)、帝釈峡風景利用策(広島県庄原市)、日和山公園(山口県下関市)、岩国風景利用策(山口県岩国市)、門司公園(福岡県北九州市)、大濠公園(福岡県福岡市)、東公園・西公園(福岡県福岡市)、帆柱公園(福岡県北九州市)、清滝公園(福岡県北九州市)、八幡市公園(福岡県北九州市)、由布院温泉発展策(大分県由布市)、青島保護利用策(宮崎県宮崎市)、霧島公園(鹿児島県霧島市)、南山公園(韓国ソウル)、壽山紀念公園(台湾高雄)、蔚山城址公園(韓国蔚山)、新馬山公園(韓国昌原市)
💬本多静六の遺産:現代社会へのメッセージ
「幸福は各自、自分自身の努力と修養によってかち得られ、感じられるもので、ただ教育とか財産さえ与えてやればそれで達成できるものではない」
本多静六の生涯は、どんな自己啓発本よりも圧倒的な説得力に満ちています。 貧困というマイナスをバネにし、血を吐くような努力で道を切り開き、天引き貯金と投資によって経済的自由を獲得する。そして、得た富への執着を鮮やかに捨て去り、未来の森と若者たちへすべてを託す。
私たちは彼から、お金の貯め方・増やし方だけでなく、「お金の美しく正しい使い方」を学ぶことができます。 人生の困難に直面したとき、あるいは日々の仕事に疲れ果てたとき、本多静六の「人生即努力、努力即幸福」という言葉を思い出してください。そして、彼が残した日比谷公園や大宮公園の木陰を歩いてみてください。 そこに広がる豊かな緑は、100年前の「公園の父」が私たち現代人のために遺してくれた、無償の愛と努力の結晶なのです。
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