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千葉県の偉人:福原有信 — 資生堂を創った男、美と健康で日本を豊かにしたパイオニア

プロフィール

福原 有信(ふくはら ありのぶ)

1848(嘉永元)年5月10日生│1924(大正13)年3月30日没(享年77/満75歳)
「資生堂」

  • 出身地:安房国安房郡松岡村(現在の千葉県館山市竜岡)
  • 職業・肩書き:実業家、薬剤師、株式会社資生堂 創業者、帝国生命保険(現・朝日生命)社長、日本薬剤師会 第3代会長
  • 主な功績
    • 日本初の民間洋風調剤薬局「資生堂」の創業(医薬分業の提唱)。
    • 日本初の練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」の開発・発売。
    • 日本初のビタミン剤とされる「脚気丸」の開発。
    • 日本初のソーダ・ファウンテン(現・資生堂パーラー)の開設。
    • 女性社員の積極登用と、西洋薬学に基づく化粧水「オイデルミン」の発売。
  • 店名「資生堂」の由来:『易経』の一節「至哉坤元 万物資生 乃順承天(地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている)」から。
  • 親族・後継者:長女は館山病院の初代院長に、次女は日本車輌製造社長に、三女は三井物産重役に、四女は渋沢栄一の次男に嫁ぐ。後継者は三男・福原信三(初代社長。意匠部を設け、花椿マークや資生堂ギャラリーを創設し、現在のブランドイメージを確立した。)

「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている(至哉坤元 万物資生 乃順承天)」

文明開化の足音が響く明治初期の東京。そこに、日本で初めてとなる「民間洋風調剤薬局」の看板が掲げられました。店の名は「資生堂」。 現在、日本を代表する世界的な化粧品メーカーとして知られる資生堂ですが、その始まりは、人々の命と健康を守るための小さな「薬局」でした。

この薬局を創業したのが、千葉県館山市出身の福原有信(ふくはら ありのぶ)です。

粗悪な薬が横行していた時代に「医薬分業」という近代的な理念を日本に持ち込み、高品質な医薬品を提供。日本初の練り歯磨きや「本邦初のビタミン剤」とも言われる脚気丸(かっけがん)の開発、そして現在も愛され続ける化粧水「オイデルミン」を世に送り出しました。

さらに、日本初のソーダ・ファウンテン(後の資生堂パーラー)を開設するなど、新しい西洋の文化を次々と日本に紹介しました。 また、生命保険会社(現・朝日生命)の設立や、当時としては極めて珍しい「女性社員の積極的な登用と戦力化」など、その先見の明は薬学や化粧品の枠をはるかに超えていました。 

「人々に健康的な生活を届けたい」という強い信念を持ち、西洋の科学と東洋の精神(和魂洋才)を見事に融合させた福原有信の、革新に満ちた生涯に迫ります。

安房の国から江戸へ、若き薬学者の志

福原有信は、1848年(嘉永元年)5月10日、安房国安房郡松岡村(現在の千葉県館山市竜岡)で生まれました。 福原家は、かつて安房国を治めた戦国大名・里見氏の家臣の系譜を引く名主の家柄でした。村の名の由来となったとされる「大きな松の木」がそびえる豊かな自然の中で、有信は育ちました。祖父の有斎は名主でありながら漢方医も務めており、有信は幼い頃からその背中を見て、医学への志を抱くようになります。

17歳となった1864年(元治元年)、徳川の世が揺らぐ激動の時代に、有信は医学を修めるために江戸へ出ます。蘭方医・織田研斎のもとで学び、その後、18歳で幕府医学所に入り本格的に西洋薬学を修めました。この医学所で、のちに陸軍軍医頭となる恩師・松本良順と出会います。 明治維新後は東京大病院(現在の東京大学医学部の前身)に勤め、わずか24歳で海軍病院の薬局長というエリートコースに上り詰めます。

しかし、有信の心には強い不満と危機感がありました。 当時の日本では、医師が診察と薬の処方の両方を行うのが一般的でしたが、中には粗悪な薬を売りつけて不当な利益を得る者も少なくありませんでした。有信は「欧米先進国のように、診察は医師が、薬の調剤は専門の薬剤師が行う『医薬分業』を確立しなければ、本当の意味で人々の命は守れない」と痛感していたのです。

資生堂の誕生と、数々の「日本初」

1872年(明治5年)、25歳となった有信は海軍病院の職をあっさりと辞し、自らの理想を形にするため行動に出ます。 同年6月、盟友である矢野義徹・前田清則とともに「三精社」を興し、東京の新橋出雲町(現在の銀座7丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局を開業しました。さらに同年8月、恩師である松本良順と三精社の共同経営により、東京本町1丁目に「西洋薬舗会社 資生堂」を開業します。その後、本町の店を売却したことに伴い、出雲町の調剤薬局が「資生堂」の屋号を単独で名乗るようになりました。

店名は、中国の古典『易経』の一節「至哉坤元 万物資生 乃順承天」から取られています。これには「大地の徳は素晴らしい。すべてのものはここから生まれる」という意味が込められており、西洋の最先端の薬学と、東洋の深い精神性を融合させるという有信の「和魂洋才」の理念が表れています。

開業当初は、扱う薬が高価であったため経営は苦労の連続でした。しかし、有信は決して品質を落とさず、次第にその高い品質が評価されるようになります。1884年(明治17年)には政府の協力のもと「大日本製薬会社」の設立にも尽力し、日本の製薬の近代化を推し進めました。 そして1888年(明治21年)、資生堂は日本初の練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」を発売します。当時の歯磨き粉は塩や房州砂を混ぜた粗悪な粉末が主流でしたが、有信の開発した練り歯磨きはその10倍の値段がしたにもかかわらず、歯石や口臭予防の確かな効能が支持され、大ヒット商品となりました。 さらに1893年(明治26年)には、海軍軍医総監の高木兼寛が唱えた「脚気(かっけ)の食物配合不良説」に基づき、『脚気丸』を発売します。これは本邦初のビタミン剤であったと推定されており、海軍病院出身の有信ならではの画期的な公衆衛生への貢献でした。

化粧水「オイデルミン」とソーダ水、そして女性の活躍

有信の目は、病気を治す「薬」から、人々の生活を美しく豊かにする「化粧品」や「食文化」へと広がっていきます。

1897年(明治30年)、資生堂は化粧品事業に本格参入し、西洋薬学の処方に基づいた高等化粧水「オイデルミン」を発売しました。実はこの商品は、有信の大学東校時代からの友人であり「日本近代薬学の父」と呼ばれる長井長義(東京帝大教授)の処方によるものでした。美しいガラス容器に入れられた赤い液体は「資生堂の赤い水」と呼ばれて女性たちの憧れの的となり、驚くべきことに、このオイデルミンは処方を変えながら現在でも販売されている「100年超の超ロングセラー商品」となっています。

さらに1900年(明治33年)の欧米視察の折、アメリカのドラッグストアで見た光景を日本に持ち込みます。1902年(明治35年)、薬局の一角に日本初となるソーダ水製造機を設置し、アイスクリームなどを提供する「ソーダ・ファウンテン」を開業したのです。 本物にこだわり、コップやストロー、シロップに至るまでアメリカから輸入したこの店は、銀座の最先端の社交場として大評判となりました。これが現在の「資生堂パーラー」のルーツです。 また、有信はこの時代から「女性の能力と戦力化」の重要性にいち早く着目し、当時としては珍しく多数の女性社員を採用・活用しました。この進歩的な哲学が、のちの資生堂の美容部員(ミス・シセイドウ)などの活躍へと繋がっていくのです。

郷土愛と社会への貢献、後継者・信三へのバトン

有信の活躍と人脈は薬学の枠を越え、日本経済の中枢にまで及びました。 長女(とり)が館山病院の初代院長に嫁いだほか、次女(ゆう)は「日本車輌製造」の社長(天野七三郎)に、三女(信子)は三井物産の重役(野依辰治)に、そして四女(美枝子)は「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の次男(武之助)に嫁いでいることからも、財界における福原家のスケールの大きさが窺えます。 

「相互扶助」の精神に基づき、1888年(明治21年)には帝国生命保険会社(現在の朝日生命保険)の設立発起人となり、のちに社長として日本の生命保険事業の普及に大きく貢献しました。また、故郷である安房地域(千葉県)の経済振興のために、安房銀行(千葉銀行の前身)の設立にも関わっています。長女が嫁いだ館山病院が関東大震災で倒壊した際には、私財を投じて療養型サナトリウムとしての再建を強力に支援し、故郷の医療を守り抜きました。

大正時代に入ると、有信は三男の福原信三に事業を引き継ぎます。 信三はアメリカの大学で薬学を学んだだけでなく、写真家や芸術家としての顔も持つモダンボーイでした。信三は、父・有信が築いた確かな薬学の基礎の上に、「花椿マーク」のデザインや意匠部の創設など、「美」と「芸術」の要素を大きく花開かせていきました。

しかし1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。銀座の資生堂店舗も、有信のために信三が世界的建築家フランク・ロイド・ライトに設計を依頼して箱根に建てた豪壮な山荘も、すべて灰燼に帰すという壊滅的な打撃を受けました。 有信が蒔いた強靭な精神の種は社員たちに受け継がれ、すぐにバラック店舗での営業再開へと向かいましたが、創業者である有信自身は、資生堂と銀座の完全な復興を目にすることなく、翌1924年(大正13年)3月30日、77歳の生涯を静かに閉じました。

Information

福原有信を深く知る「この一冊!」

近代日本史の第一級の傑作

本のご紹介

開花の人―福原有信の資生堂物語 / 山崎 光夫 (著)

単行本 – 2013/2/1

幕末の動乱期に安房国から江戸へ出て、医薬分業という近代的な理念のもとに「資生堂」を創業した福原有信の生涯を描いた渾身の評伝小説。数々の苦難を乗り越え、良質な薬と美で日本の近代化を支えた実業家の情熱とドラマに触れることができる一冊です。

📍【完全網羅版】福原有信の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

日本初の洋風調剤薬局を開き、資生堂の礎を築いた福原有信の足跡は、彼のルーツであり医療と経済の両面で支援を続けた千葉県館山市、そして文明開化の象徴である東京・銀座に色濃く残されています。

【千葉県】 有信のルーツ、館山・松岡の地

  • 松岡八幡宮の鳥居と記念碑(千葉県館山市竜岡(旧・松岡村)):
    • 有信が生まれ育った旧松岡村の鎮守です。明治44年(1911年)に有信自身が奉納した石造りの鳥居が現在も建っており、柱には彼の名が刻まれています。また、境内には1995年に資生堂によって寄贈された、有信の功績を称える立派な記念碑があります。
    • 【現在の絆】 近年、神社の裏山では「椿の森づくり事業」が行われ、資生堂のシンボルである椿が植樹されています。令和元年の房総半島台風で甚大な被害を受けましたが、地元の人々の手によって復旧・維持されており、現在も交流が続いています。
  • 福原家跡(千葉県館山市竜岡):
    • 名主を務めていた福原家の屋敷跡。現在の松岡八幡宮のすぐ近く(正見院跡の隣)に位置しており、彼が幼少期を過ごした原点の場所です。
  • 小塚大師(遍智院) 福原家之墓(千葉県館山市大神宮):
    • 関東厄除け三大師の一つとして知られる古刹。明治時代に福原家が菩提寺をここ(松岡の正見院から)に移しており、有信が奉納した幕が伝わっているほか、故郷における福原家のお墓があります。
  • 医療法人社団 邦友理至会 館山病院(千葉県館山市長須賀):
    • 有信の長女・とりが初代院長(川名博夫)に嫁いだ病院です。大正12年(1923年)の関東大震災で病院が倒壊した際、有信および福原家は私財を投じて再建を強力に支援し、館山の地域医療を守り抜きました。
  • 館山市立博物館(千葉県館山市館山351-2 城山公園内):
    • 館山城の麓にある博物館。常設展示で安房の歴史を学べるほか、令和7年(2025年)には没後100年を記念して企画展「資生堂創業者 福原有信と館山」が開催されるなど、郷土の偉人としての彼の功績を詳しく紹介しています。
  • 福原有信グラウンド館山 / 福原有信パーク館山(千葉県館山市):
    • 地元・館山市において、有信の曾孫である福原有一氏が代表を務める「株式会社福原コーポレーション」がネーミングライツを取得。館山市営市民グラウンドおよび館山市コミュニティセンター前庭が、彼の名を冠した施設として現代の市民に親しまれています(2025年8月より愛称使用開始)。

【東京都】 銀座モダン文化の発信地と、静かに眠る地

  • 資生堂 銀座本店(SHISEIDO THE STORE / 東京銀座資生堂ビル)(東京都中央区銀座7-8-10):
    • 1872年(明治5年)に有信が日本初の民間洋風調剤薬局「資生堂」(当時の出雲町)を創業したまさにその系譜を継ぐ場所です。現在もこの地には資生堂のフラッグシップストアがあり、隣接する東京銀座資生堂ビルには、彼が始めたソーダ・ファウンテンのDNAを受け継ぐ「資生堂パーラー」や、若手芸術家を支援する「資生堂ギャラリー」が入っており、美と食の文化を発信し続けています。
  • 西光寺 墓所(東京都台東区谷中6-2-33):
    • 東京における有信のお墓がある日蓮宗の寺院です(※谷中霊園のすぐ近くですが、厳密には西光寺の墓地となります)。有信は館山の小塚大師とともに、この谷中の地にも静かに眠っています。

【神奈川県・静岡県】 幻の名建築と、受け継がれるDNA

  • 箱根・福原山荘跡(神奈川県足柄下郡箱根町強羅):
    • 1920年(大正9年)に完成した有信の大規模な山荘跡です。三男の信三が、帝国ホテルなどの設計で知られる世界的建築家フランク・ロイド・ライトに設計を依頼したものでした。1923年の関東大震災で倒壊したため現存しませんが、日本の近代建築史において「幻の名建築」として今も語り継がれています。
  • 資生堂企業資料館(静岡県掛川市下俣751-1):
    • 資生堂の歴史と文化を体系的に保存・展示している資料館です。有信が創業した当時の薬局の様子や、日本初の練り歯磨き、初期の「オイデルミン」のボトルなど、貴重な史料が多数展示されており、有信から信三へと受け継がれたブランドの軌跡を深く知ることができます。(※資生堂アートハウスに隣接)

💬福原有信の遺産:現代社会へのメッセージ

「美しく、健やかに生きる喜びをすべての人に」

福原有信が創業した資生堂は、現在では「化粧品」のイメージが強いですが、その根底にあるのは「命を守り、健康的な生活を提供する」という薬学者としての強い使命感でした。 利益を優先して粗悪な薬を売るのではなく、本当に良いものを適正な価格で提供する。そして、薬で身体の健康を守るだけでなく、美味しいソーダ水や質の高い化粧品を通じて、人々の「心の豊かさ」や「美しさ」をも引き出そうとしました。

彼の「和魂洋才」の精神は、単に西洋の技術を真似るのではなく、日本人の感性や真心と掛け合わせることで、全く新しい価値を生み出すことの重要性を教えてくれます。 変化の激しい現代社会において、私たちが本当に大切にすべきものは何か。それは有信が実践したように、人々の健康と幸福を願い、女性を含めた多様な人材の力を信じ、常に本質的な価値(品質本位)を追求し続ける誠実な姿勢に他なりません。 彼が銀座の街角に掲げた「資生」という二文字の理念は、150年の時を超えて、今も私たちの生活を豊かに彩り続けています。

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