福井県の偉人:由利公正(三岡八郎) — 坂本龍馬が惚れ込んだ「維新の金庫番」、近代日本のグランドデザイナー
プロフィール
由利 公正(ゆり きみまさ / ゆり こうせい) │旧名:三岡 八郎(みつおか はちろう)
1829(文政12)年12月6日生│1909(明治42)年4月28日没(81/満79歳)
「武士/政治家/実業家」
- 出身地:越前国足羽郡福井城下 毛矢町(現在の福井県福井市毛矢)
- 職業・肩書き:福井藩士、明治新政府官僚(徴士参与・御用金穀取締)、初代 東京府知事、元老院議官、貴族院議員、子爵
- 名前の読みについて:長年「こうせい」か「きみまさ」かで議論があったが、2014年に本人が「Yuri Kimimasa」とローマ字署名した公文書が発見され、現在は「きみまさ」が公式見解とされている。
- 主な功績:
- 殖産興業による福井藩の財政再建と、福井繊維産業の礎の構築
- 『五箇条の御誓文』の原案(議事之体大意)起草
- 日本初の全国通用紙幣「太政官札」の発行
- 銀座大火後の「銀座煉瓦街」の建設推進
- 深い交流があった人物:横井小楠(恩師)、松平春嶽(主君)、坂本龍馬(盟友)
- その他:武芸(剣術・槍術・砲術)の達人であり、高い保温力を誇る「三岡へっつい(竈)」の発明者でもある。
「天下の人物といえば、西郷隆盛と三岡八郎(由利公正)をおいて他にいない」― 坂本龍馬
明治維新という未曾有の国家変革期。西郷隆盛や木戸孝允ら「武力や政治力」で時代を切り拓いた英傑たちの陰で、新政府最大の弱点であった「カネ(財政)」の問題を一身に引き受け、日本を崩壊の危機から救った一人の男がいました。 福井藩出身の武士、由利公正(ゆり きみまさ / こうせい、旧名:三岡八郎)です。
彼は、坂本龍馬から「新政府の財政は彼に任せるしかない」と強烈に推挙され、明治政府の基本方針である『五箇条の御誓文』の原案を起草し、日本初の全国通用紙幣「太政官札」を発行して維新の戦費と国家運営費を捻出しました。さらには初代東京府知事として、あの「銀座煉瓦街」を造り上げ、帝都・東京の近代都市計画の礎を築いた人物でもあります。
「民富めば国富む」という経済思想を掲げ、現代にも通じる持続可能なビジネスモデルで福井藩を立て直し、渋沢栄一にも先駆けて経世済民を実践した「稀代の財政家」。 波乱万丈の幕末・明治を、類まれなる経済センスと不屈の闘志で駆け抜けた由利公正の、スケールの大きな生涯に迫ります。
福井の「毛矢侍」から、文武両道の秀才へ
文政12年(1829年)、由利公正は越前国福井城下の毛矢町(現在の福井県福井市毛矢)で、福井藩士・三岡義知の長男として生まれました。当時の名は三岡八郎。毛矢町は旧松岡藩から移住した禄高の低い中下級武士が多く住む地域で、彼らは「毛矢侍」と呼ばれていました。
賢母に育てられた公正は、幼少期から家の修繕や畑仕事、馬の世話を手伝う働き者でした。同時に武芸にも秀で、剣道(真影流)、槍(無辺流)、西洋流の新式砲術のすべてで免許皆伝の腕前を誇りました。 19歳の時には、青年藩士が馬で疾走し、町民が鐘や太鼓でその行く手を阻む福井藩の荒々しい名物行事「馬威し(うまおどし)」で見事優勝を果たし、上級武士から妬まれて斬りかかられた際も竹竿で撃退するほどの豪傑ぶりを見せ、名君・松平春嶽(慶永)の目に留まります。 また、ペリー艦隊が再来航した際には、福井から江戸までの全道程を昼夜兼行、わずか3日間で踏破するという超人的な健脚と体力を持ち合わせていました。さらに、幕末を代表する歌人・橘曙覧(たちばな あけみ)のもとで短歌を学ぶなど、まさに文武両道を地で行く青年でした。
横井小楠との出会いと、借金まみれの藩財政再建
そんな豪傑肌の公正の人生を変えたのが、安政5年(1858年)に福井藩の政治顧問として招かれた熊本藩出身の稀代の思想家・横井小楠(よこい しょうなん)でした。 小楠が唱えた「民富めば国の富む理である」という富国策(殖産興業)に深く感銘を受けた公正は、彼から財政学を徹底的に学びます。周囲から「武士のくせに銭勘定ばかりしている」と嘲笑されても意に介さず、藩主・松平春嶽の抜擢を受けて福井藩の財政改革に乗り出しました。
公正は机上の空論を嫌い、自ら小楠とともに西国各地へ出張します。小楠が弟の死で熊本へ一時帰国した際には、公正も熊本まで同行し、毎夜酒を酌み交わしながら激しい議論を戦わせました(この3年後にも再び熊本の小楠を訪ねるほど心酔していました)。
現場主義を貫く公正は、長崎の浪ノ平に自藩の「越前蔵屋敷」を建設し、唐物商・小曽根乾堂の協力を得てオランダ商館と生糸販売の特約を結びました。さらには江戸町にアンテナショップ「福井屋」を開設し、横浜にも出店を設けて販路を開拓。藩札の発行と専売制(産物会所)を組み合わせた画期的な経済政策を実行し、借金漬けだった福井藩の財政をあっという間に黒字化させてしまったのです。
蟄居謹慎と「三岡へっつい」、そして坂本龍馬との絆
藩の要職にまで出世した公正でしたが、長州征伐への反対と雄藩連合(挙藩上洛計画)を主張したことで藩内の保守派と対立し、文久3年(1863年)から4年4ヶ月に及ぶ蟄居・謹慎処分を受けてしまいます。 しかし、ただでは転ばないのが公正です。謹慎中、かつて韮山反射炉で学んだ知識を応用し、土の中に埋めることで熱を逃がさず燃料を劇的に節約できる新しい竈(かまど)を考案します。これは「三岡へっつい」と呼ばれ、昭和10年頃まで福井県下で広く愛用されました。
そして慶応3年(1867年)11月、歴史的な会見が実現します。 新政府の構想を練っていた坂本龍馬が、かつて勝海舟から「財政の天才」として名を聞かされていた公正に会うため、はるばる福井へやってきたのです。 二人は足羽川近くの「莨屋(たばこや)旅館」で、早朝から深夜まで延々と日本の将来や経済政策について語り合いました。監視役の藩士がいるにもかかわらず、龍馬は「三岡、話すことが山ほどあるぜよ!」と叫び、すっかり意気投合します。 龍馬はその後、盟友の後藤象二郎に宛てた手紙の中で「新政府の財政担当には由利を推す」と強烈に推挙しました。しかし、龍馬が福井を離れてから10日後、家老の家から帰る道すがら、公正は懐中に忍ばせていた龍馬の写真が無くなっていることに気付きます。強い胸騒ぎを覚えたその2日後、公正は龍馬暗殺の悲報を知ることになったのです。
※ちなみに、強面で頑固者として知られた公正ですが、私生活では8歳年下の妻「タカ」と49年間も連れ添う愛妻家であり、また、坂本龍馬と会談した旅館の娘「なみ」とは、幼馴染として生涯の付き合いを続けるなど、非常に情に厚い人物でもありました。
維新の金庫番:『五箇条の御誓文』と太政官札の発行
龍馬の遺志を継ぐ形で、明治新政府の「徴士参与」として迎えられた公正は、新生日本のグランドデザインに着手します。 まず、国家の基本方針を示す『五箇条の御誓文』の原案(議事之体大意)を起草しました。最終版の第一条は「広く会議を興し…」となっていますが、公正が起草した原案の第一条は「庶民が志を遂げ、希望を持てるようにすること(庶民志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ欲ス)」でした。国家の基本方針の筆頭に「民の幸福」を据えた事実に、彼の「民富論」の深い思想が表れています。
最大の課題は、戊辰戦争の戦費と新政府の運営資金の調達でした。「錦の御旗」を作る金すらなかった貧弱な新政府を救うため、公正は京都と大坂の大商人からそれぞれ5万両、計10万両もの御親征費(軍資金)を即座に調達するとともに、日本初の全国通用紙幣である「太政官札(だじょうかんさつ)」の発行を建議します。 「古くから金貨通用の地である東京で不換紙幣など流通しない」と大反対する江藤新平に対し、公正は「議論を拒否したら負け」というルールを設けて連日朝から夕刻まで論戦に挑みました。結果、8日目に江藤が会場に姿を現さず、公正の勝ちとなります。それでも反対する者には「もし流通しなければ、二条城に保管してある金札に火を放ち、その場で自刃する!」と壮絶な覚悟を示して発行を断行しました。この3000万両にのぼる太政官札の発行がなければ、明治政府は政治的・軍事的ではなく「経済的理由」で崩壊していたと言われています。
銀座煉瓦街と福井繊維産業への貢献、そして晩年
明治4年(1871年)、公正は初代・東京府知事に就任します。 翌年、銀座一帯を焼き尽くす大火災(銀座大火)が発生すると、公正はピンチをチャンスに変え、帝都を不燃化都市に改造する壮大な計画を打ち立てます。ロンドンやニューヨークの目抜き通りに匹敵する幅広のメインストリートを敷き、建物をすべて煉瓦造りにするという「銀座煉瓦街」構想です。
この予算を巡って大蔵省と対立しますが、公正は大久保利通の一時帰国のタイミングで岩倉使節団に途中参加し、欧米の近代都市を視察して確信を深めました(※視察中に大蔵省に事業を奪われ知事を解任される憂き目にも遭いますが、銀座煉瓦街は無事に完成し、文明開化の象徴となりました)。 さらにこの欧米視察において、公正は絹布の見本を数種持ち帰り、廃藩置県後に機業に関わっていた旧福井藩士に渡して「越前奉書紬」の品質改良を促しました。これが、のちに福井が「繊維王国」として隆盛を誇る最大の原動力となったのです。
官職を退いた後も、公正の起業家精神は衰えません。「有隣生命保険会社」の初代社長を務めたり、明治12年(1879年)には東京・神田の昌平橋架設において秋田県産の天然アスファルトを用いた「日本初のアスファルト舗装」を実現したりと、多岐にわたるビジネスを展開しました。さらには板垣退助らと「民撰議院設立建白書」を提出し、日本の議会政治の扉も叩きました。
明治42年(1909年)、近代日本の礎を「カネと制度」の両面から築き上げた稀代の財政家は、81歳(満79歳)で静かにこの世を去りました。
由利公正を深く知る「この一冊!」
コミックですが、侮るなかれ。由利公正の生き様!

猛き黄金の国 由利公正 (ヤングジャンプコミックス) / 本宮 ひろ志 (著)
コミック – 2022/12/19

「サラリーマン金太郎」などで知られる巨匠・本宮ひろ志が描く、由利公正の激動の半生。坂本龍馬に愛され、新政府の金庫番を務めた男がいかにして日本の原型を築き上げたのか。ダイナミックな描写で歴史の裏側の熱き人間ドラマを堪能できる歴史コミックです。
📍【完全網羅版】由利公正(三岡八郎)の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
政治・経済の両面で日本を牽引した由利公正の足跡は、生誕の地・福井、ビジネスの最前線であった長崎や熊本、帝都改造の舞台となった東京、そして彼のルーツである秋田県に至るまで広範囲に残されています。
【福井県】 「毛矢侍」の誇りと、龍馬との熱き語らいの地
- 由利公正生誕地(福井県福井市毛矢1-6):
- 下級武士「毛矢侍」として生を受けた場所です。
- 由利公正宅跡 & 坂本龍馬歌碑(福井県福井市毛矢2丁目 / 幸橋南詰下流側):
- 公正の居宅があった場所。ここで横井小楠や坂本龍馬と国の将来について熱く語り合いました。石碑の隣には、龍馬が詠んだとされる「君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末」の歌碑(坂本家9代目の揮毫、高知県産の石を使用)が建っています。
- 由利公正広場 & 由利公正像(福井県福井市毛矢1丁目 / 幸橋南詰上流側):
- 公正の尽力によって架けられた「幸橋」のたもとに整備された広場。堂々たる由利公正の銅像が建っており、その視線は対岸の恩師・横井小楠の寄留宅跡へ向けられています。
- 横井小楠寄留宅跡(福井県福井市中央3-11 / 幸橋北詰):
- 恩師である横井小楠が滞在した場所。足羽川を挟んで公正の家と向かい合っていました。
- 内堀公園「旅立ちの像」(三岡八郎・横井小楠像)(福井県福井市大手3丁目):
- 福井県庁(福井城址)のお堀に面した公園。安政5年(1858年)、藩財政再建のために公正が恩師・横井小楠とともに長崎へ旅立つ姿を表現した銅像が建っています。
- 莨屋(たばこや)旅館跡(福井県福井市照手1-14-3):
- 慶応3年(1867年)、福井を訪れた坂本龍馬が宿泊し、謹慎中の公正を呼び出して夜更けまで新政府の構想を語り明かした歴史的会談の舞台であり、幼馴染の「なみ」の生家でもあります。現在は懐石料理店「開花亭」の敷地近くに石碑が建っています。
- 福井城址 & 福井神社(福井県福井市大手3-17-1 ほか):
- 公正が仕えた越前松平家の居城跡。近くの福井神社には、彼を抜擢した名君・松平春嶽公が祀られています。
- 養浩館(ようこうかん)庭園(福井県福井市宝永3-11-36):
- 福井藩主・越前松平家の別邸であり、江戸時代中期を代表する名園。由利が辣腕を振るった福井藩の中枢の息遣いを今に伝える美しい回遊式庭園です。
- 火薬局跡(福井県福井市照手2丁目周辺):
- 藩の火薬や鉄砲を製造する部署の代表も務めた公正の足跡。過去に爆発事故が起きた場所でもあります。
- 福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市宝永3-12-1):
- 郷土福井に関する資料の収集拠点。「春嶽公記念文庫」をはじめとする福井藩や越前松平家に関する資料が極めて充実しており、由利の発明品「三岡へっつい」の実物大模型なども所蔵・展示され、彼が活躍した幕末福井藩の全貌を知ることができます。
- 福井県立歴史博物館(福井県福井市大宮2-19-15):
- 東京府知事任命の辞令など、由利公正に関する貴重な実物史料を多数所蔵・展示しています。
- 福井県立図書館(福井県福井市下馬51-11):
- 公正が執筆した『五箇条の御誓文』の原案である「議事之体大意」を所蔵しています。
- 福井県立こども歴史文化館(福井県福井市城東1-18-21):
- 公正の生涯を映像やジオラマで楽しく学べるほか、彼が発行した「太政官札」の実物を所蔵しています。
- 和紙の里通り(福井県越前市):
- 公正が発行を提唱した日本初の全国通用紙幣「太政官札」には、偽造防止のために地元が誇る最高品質の越前和紙が採用されました。この地域はその製造拠点としての歴史を持っています。
【熊本県・長崎県】 殖産興業の思想と最前線基地
- 横井小楠記念館(四時軒)(熊本県熊本市東区沼山津1-25-91):
- 恩師である横井小楠の旧居。小楠が弟の死により熊本へ一時帰国した際、公正も熊本まで同行し、毎夜酒を酌み交わしながら激しい議論を交わしました。その3年後にも再びこの地を訪れており、公正の経済思想が形成された重要なゆかりの地です。
- 越前蔵屋敷跡 および 福井屋跡(長崎県長崎市南山手町 浪ノ平周辺 / 江戸町周辺):
- 福井藩の財政を立て直すため、公正が小楠とともに長崎へ赴き、実際に設置したアンテナショップや蔵屋敷があったエリアです。この地を拠点にオランダ商館等と貿易を行い、莫大な利益を藩にもたらしました。
【東京都】 帝都のグランドデザイナーの足跡と、静かに眠る地
- 煉瓦銀座之碑(東京都中央区銀座1-11-2):
- 明治の大火後、東京府知事であった公正が推進した「銀座煉瓦街」の完成を記念する碑。碑文にある「経倫(世の中を治め、秩序を整えること)」の文字は、公正自身の揮毫によるものです。
- 神田・昌平橋跡(日本初のアスファルト舗装地)(東京都千代田区):
- 明治12年(1879年)、実業界に身を投じていた公正が架設した橋。秋田・豊川産の土瀝青(天然アスファルト)を用いて橋面を舗装し、これが「日本初のアスファルト舗装」となりました。
- 東京都江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1):
- 公正が尽力した「銀座煉瓦街」の街並みが、実物大に近いスケールで精巧に復元展示されており、当時の文明開化の空気感を肌で感じることができます。(※現在、大規模改修工事のため長期休館中)
- 海晏寺(かいあんじ) 由利公正 墓所(東京都品川区南品川5-16-22):
- 晩年を東京・高輪で過ごした公正が眠る曹洞宗の名刹。ここにはかつての主君・松平春嶽や、明治の元勲・岩倉具視らも眠っており、維新の立役者たちが共に安らかに休息しています。
【秋田県】 「由利」姓のルーツと誇り
- 五箇条の御誓文有縁の地(由利政春の墓)(秋田県由利本荘市川西奉行免):
- 維新後に彼が名乗った「由利」という姓は、出羽国(秋田県)の豪族・由利十二頭に連なる家伝に由来します。この地には祖先とされる由利政春の墓があり、公正の功績を称える標柱が建てられています。
- 滝沢城跡 & 西滝沢水辺プラザ(秋田県由利本荘市前郷 / 西滝沢):
- 由利氏の流れをくむ滝沢氏の居城跡。近くの「西滝沢水辺プラザ」には、由利公正と『五箇条の御誓文』や坂本龍馬との関わりを紹介する展示パネルが設置され、遠く離れた秋田の地でも彼の偉業が顕彰されています。
💬由利公正の遺産:現代社会へのメッセージ
「民富めば、国の富む理(ことわり)である」
由利公正の生涯と思想は、現代を生きる私たちに「持続可能な経済」の真髄を教えてくれます。 武士でありながら「カネを稼ぐこと」を卑しいこととせず、藩札を発行し、特産品を売り込んで利益を生み出す。それは単なる金儲けではなく、「領民の暮らし(民)が豊かにならなければ、藩や国(公)が豊かになるはずがない」という、極めて合理的で血の通った経済哲学に基づくものでした。
彼が経世済民の実践者として高く評価される所以は、机上の空論を振りかざすのではなく、自ら現場(長崎や大坂)に足を運び、反対派の矢面に立って泥臭く実務を完遂した点にあります。太政官札の発行に際し「ダメなら腹を切る」とまで言い切った圧倒的な覚悟は、自分の利益ではなく「国家の存亡」を背負っていたからこそ生まれたものでした。
「新しい時代を創るには、理想を語るだけでなく、それを支える『経済的基盤』が必要である」。 理想と現実(算盤)のバランスを取りながら、前例のない事業(全国紙幣、銀座煉瓦街、繊維産業の振興)を次々と形にしていった由利公正の実行力は、閉塞感漂う現代日本において、真のリーダーシップとは何かを強烈に問いかけています。
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