山口県の偉人:高杉晋作 — 奇兵隊を創設し、激動の幕末を駆け抜けた「維新の風雲児」
プロフィール
高杉 晋作(たかすぎ しんさく) │別名:谷 潜蔵(たに せんぞう) │号:東行(とうぎょう)
1839(天保10)年9月27日生│1867(慶応3)年5月17日※実際の逝去は18日深夜)(享年29・満27歳8ヶ月)
「長州藩士」「奇兵隊」
- 出身地:長門国萩城下 菊屋横丁(現在の山口県萩市南古萩町)
- 職業・肩書き:長州藩士、奇兵隊初代総督、海軍総督
- 主な功績:
- 身分を問わない志願兵部隊「奇兵隊」の創設。
- 下関戦争後の四国連合艦隊との講和交渉(古事記暗誦による彦島租借の阻止)。
- 「功山寺挙兵」による長州藩の倒幕への意思統一。
- 第二次長州征討(四境戦争)小倉口での歴史的勝利。
- 親族・交友:父・小忠太、母・ミチ、妻・雅。妹(武、栄、光)。長男・東一(梅之進)。恩師・吉田松陰、無二の親友・久坂玄瑞、弟分・伊藤博文、庇護者・野村望東尼、愛妾・おうの(のちの梅処尼)
- 辞世の句:「おもしろき こともなき世に(を) おもしろく」(下の句:すみなすものは 心なりけり ※野村望東尼が詠み添えたとされる)
「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」
明治維新という未曾有の国家変革期。西郷隆盛や木戸孝允ら名だたる英傑たちが躍動する中、わずか27年8ヶ月という短い生涯でありながら、彼らに勝るとも劣らない強烈な光を放ち、長州藩を倒幕へと導いた一人の若者がいました。 高杉晋作(たかすぎ しんさく)です。
身分にとらわれない日本初の軍隊「奇兵隊」を創設し、欧米列強との絶望的な講和交渉をまとめ上げ、さらには「功山寺挙兵」という奇跡的なクーデターで長州藩の藩論をひっくり返しました。 伊藤博文をして「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と言わしめたその圧倒的な行動力と、師・吉田松陰から受け継いだ熱き「志」。三味線を弾き、都々逸を唄いながら、死の淵にあっても最期まで「おもしろく」生きようとした高杉晋作の、雷光のような生涯に迫ります。
萩の御曹司、吉田松陰が授けた「究極の死生観」
天保10年(1839年)、高杉晋作は長門国萩城下の菊屋横丁(現・山口県萩市南古萩町)で、長州藩士・高杉小忠太の長男として生まれました。代々毛利家に仕える重臣の跡取りであり、厳しく育てられました。 10歳の頃に重い天然痘を患いますが、蘭学医・青木周弼の懸命な治療により一命を取り留めます。あばたが残ったことから「あずき餅」と呼ばれ、気の弱さを治すために近所の円政寺にある「天狗の面」を見せられて度胸試しをさせられたという逸話も残っています。
藩校・明倫館で学ぶ一方で、柳生新陰流の剣術で免許皆伝を得ていた晋作ですが、形式的な学問には退屈していました。そんな19歳の時、幼馴染の久坂玄瑞に誘われ、吉田松陰が主宰する「松下村塾」へと足を踏み入れます。 松陰は、晋作の「プライドが高く負けず嫌い」という性格を見抜いて、あえて久坂ばかりを褒めることで晋作の心に火をつけました。猛烈に学問に打ち込んだ晋作はやがて、久坂とともに「松門の双璧」と称されるようになります。 晋作が「男子の死ぬべき所はどこか」と問うた際、松陰はこう答えています。
「死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ」
この教えこそが、のちに幾度も死線を潜り抜ける晋作の生き方の、絶対的な指針となりました。 安政5年(1858年)には江戸へ遊学し、幕府の最高学府である「昌平黌(昌平坂学問所)」で学ぶとともに、神道無念流の「練兵館」で剣術の腕を磨きました。さらに文久元年(1861年)には海軍修練のため軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」で再び江戸へ渡り、東北遊学で佐久間象山や横井小楠と交友を深めるなど見聞を広め、藩主世子・毛利定広の小姓役に抜擢されるなど、藩の若きエリートとして頭角を現していきます。
長崎・上海での衝撃と「奇兵隊」の創設
安政6年(1859年)、師である松陰が安政の大獄で処刑されると、晋作たちはその遺志を継ぐべく尊王攘夷運動へと身を投じます。 文久2年(1862年)、幕府の貿易視察団(千歳丸)に随行し、上海へ渡航することになった晋作は、準備のため滞在した長崎の崇福寺で、米国人宣教師チャニング・ウィリアムズらから大統領制などの政治制度や最新の世界情勢を熱心に学びました。
そして渡った上海。そこには、華やかな西洋建築の裏で、アヘン戦争に敗れて英仏の植民地(半植民地)と化し、外国人にこき使われる清国人の悲惨な姿がありました。 「このままでは、日本も中国の轍を踏む」。猛烈な危機感を抱いた晋作は、旧態依然とした幕府や長州藩の軍備の遅れに絶望し、真の独立と富国強兵の必要性を痛感して帰国します。
帰国直後の文久2年12月、晋作は同志たちと品川宿の妓楼「土蔵相模」で密議を交わし、建設中であった品川御殿山の英国公使館焼き討ちを敢行します。 さらに翌年、長州藩が外国船を砲撃した「下関戦争」において、欧米列強の圧倒的な武力の前に長州藩は惨敗。この危機的状況下で下関の防衛を任された晋作は、身分制度という武士の常識を覆し、農民や町民など「国を守る志」を持つ者であれば誰でも入隊できる新しい軍隊、「奇兵隊」を創設したのです。
絶望の講和、長崎での転換、そして「功山寺挙兵」
元治元年(1864年)、「禁門の変」で敗れて朝敵となった長州藩は、幕府からの第一次長州征討と、下関での四国連合艦隊による報復攻撃という絶体絶命の危機に陥ります。 この絶望的な状況で講和使節に抜擢されたのが、脱藩の罪で野山獄に入れられていた晋作でした。彼は烏帽子に直垂という古式ゆかしい正装で談判に臨み、法外な賠償金請求については「幕府に払わせる」と突っぱねました。さらに「彦島の租借」という要求に対しては、古事記を暗唱して時間を稼ぎ、有耶無耶にして絶対に首を縦に振りませんでした。
しかし、藩内では幕府に恭順しようとする保守派(俗論派)が実権を握ります。晋作は福岡の野村望東尼のもとへ脱出したのち、下関へ舞い戻り、元治元年12月15日(1865年1月)、大雪の降る功山寺にて伊藤俊輔らわずか80名ほどの同志とともに決起します。 「これよりは、長州男児の腕前お目にかけ申すべし!」 萩藩の新地会所を急襲して了円寺に陣を構え、その後の大田・絵堂の戦いで勝利したこの奇跡的なクーデターにより、長州藩は「武備恭順(実質的な倒幕)」へと統一されました。
さらに1865年、晋作は伊藤俊輔とともにイギリス渡航を目指して長崎へ向かいますが、トーマス・グラバーらから「いま洋行すべきではない。下関を開港して富国強兵を図れ」と諭され、渡航を断念。これが長州藩の開国路線と薩長同盟への決定的な足掛かりとなりました。
丙寅丸での勝利と、風流なる「名残の雪見」
幕府からの追及を逃れ、累が本家に及ぶのを防ぐため、晋作は高杉家を「廃嫡」され、藩命により「谷潜蔵(たに せんぞう)」と改名する孤独も味わいました。 しかし慶応2年(1866年)、幕府が再び長州へ攻め込む「第二次長州征討(四境戦争)」が開戦すると、海軍総督として長崎で購入した蒸気船「丙寅丸(へいいんまる)」に乗船。小倉口の戦闘を指揮し、奇兵隊らを率いて幕府軍を次々と撃破します。この勝利により幕府の権威は完全に失墜しました。
「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」 そんな粋な都々逸を唄い、父親から教えられた「困ったと言う時は死ぬ時である」という言葉を実践し続けた晋作でしたが、小倉戦争の直後、当時は不治の病であった肺結核に深く侵されていました。
下関の桜山や新地町で療養生活を送る中、見舞いに来た三浦梧楼の前で、晋作は新潟名物である日本三大銘菓「越乃雪」を松の盆栽に振りかけ、風流な「名残の雪見」を楽しんだと伝わっています。また、献身的に看病してくれた愛妾・おうのには、自ら削った茶杓に「梅處」と記して贈り、彼女への深い愛情を示しました。
「おもしろき こともなき世に(を) おもしろく」
彼の辞世として有名なこの句に、看病していた野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を添えました。 慶応3年4月13日の深夜、高杉晋作は新しい時代(明治)の幕開けを見ることなく、その生涯を閉じました。満27歳8ヶ月でした。なお、公式な命日が「14日」とされているのは、長男の梅之進に谷家を確実に相続させるための手続きの時間が必要だったからだと言われています。
高杉晋作を深く知る「この一冊!」
第一回の人間国宝の生涯と人間像に迫る

遊清五録 現代語訳 (講談社学術文庫 2902) / 高杉 晋作 (著), 一坂 太郎 (編集, 翻訳)
文庫 – 2025/12/11

24歳の晋作が幕府使節団として上海へ渡航した際につづった貴重な日記の現代語訳。西洋列強に侵食される清国の惨状を目の当たりにし、「このままでは日本も同じ運命をたどる」という強烈な危機感を抱いた彼の心情が、生々しい感性で描かれています。彼がなぜ奇兵隊を創設し、革命へと突き進んだのか、その原点がわかる一冊です。
📍【完全網羅版】高杉晋作と維新の同志の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト
幕末の風雲児・高杉晋作の足跡は、生まれ育った萩、決断を下した下関、激闘の舞台となった山口県内、彼の思想と命を繋いだ長崎・福岡・香川・岡山、さらに英霊として眠る京都・東京に至るまで全国に広範囲に残されています。
【萩エリア】 誕生から松下村塾、若き日の原点
- 高杉晋作誕生地(山口県萩市南古萩町23):
- 菊屋横町にある、晋作が生まれ育った家。産湯の井戸や自作の句碑が残されています。
- 高杉晋作立志像(晋作広場)(山口県萩市南古萩町):
- 誕生地のそばにある広場。まげを結い、羽織袴姿で凛々しく立つ20歳頃の晋作の銅像が建立されています。
- 松下村塾(松陰神社境内)(山口県萩市椿東1537):
- 晋作の人生を変えた恩師・吉田松陰が主宰した私塾。ここから久坂玄瑞や伊藤博文ら明治維新の原動力となる幾多の人材が輩出されました(世界遺産)。
- 吉田松陰の墓および墓所(晋作の遺髪墓)(山口県萩市椿東 団子岩):
- 松陰神社から少し離れた団子岩にある松陰の墓。その背後に、晋作の「遺髪とへその緒」が埋葬された墓が静かに寄り添うように建てられています。
- 高杉晋作銅像(道の駅 萩往還)(山口県萩市大字椿字鹿背ケ坂1258):
- 維新の志士たちが駆け抜けた歴史の道「萩往還」の観光拠点。吉田松陰や久坂玄瑞らとともに、堂々たる高杉晋作の銅像が訪れる人々を出迎えます。
- 旧萩藩校明倫館 & 有備館(萩・明倫学舎)(山口県萩市江向602):
- 晋作が幼少期から学んだ藩校の跡地。現在は観光拠点になっており、剣術や槍術の道場であった有備館も残されています。
- 青木周弼(しゅうすけ)旧宅(山口県萩市南古萩町):
- 晋作が10歳の時に重い天然痘を患った際、彼を救った蘭学医の旧宅です。
- 金毘羅社 円政寺(山口県萩市南古萩町):
- 幼少期、病弱で気が弱かった晋作が、度胸試しのために見せられたという巨大な「天狗の面」が現在も軒下に掛けられています。
- 野山獄跡(山口県萩市今古萩町):
- 脱藩の罪で晋作が投獄された牢獄の跡。かつて師の松陰もここに投獄されており、晋作は「先生を慕うてようやく野山獄」という句を詠みました。
- 萩博物館 高杉晋作資料室(山口県萩市堀内355):
- 【重要事実】 晋作の産着から最晩年の書、愛用した品々など、晋作の曾孫である高杉勝氏から寄託された貴重な実物資料が常設展示されています。
- 涙松跡 & 吉田松陰防長路惜別の地(山口県萩市椿):
- 師である松陰が安政の大獄で江戸へ護送される際、故郷との永遠の別れを覚悟して涙を流し、歌を詠んだとされる記念碑です。
【下関エリア】 奇兵隊創設から功山寺挙兵、そして終焉の地
- 白石正一郎旧宅跡(奇兵隊結成の地)(山口県下関市竹崎町3丁目):
- 文久3年(1863年)、晋作が豪商・白石正一郎の後ろ盾を得て、身分を問わない新しい軍隊「奇兵隊」を結成した記念すべき場所です。
- 赤間神宮(旧・阿弥陀寺 / 奇兵隊陣屋跡)(山口県下関市阿弥陀寺町4-1):
- 白石正一郎邸で結成された奇兵隊が、直後に最初の本拠地(陣屋)として定めたのが、平家ゆかりのこの阿弥陀寺(現在の赤間神宮)です。
- 功山寺(高杉晋作回天義挙像)(山口県下関市長府川端1-2-3):
- 元治元年(1864年)12月、長州藩の命運をかけて晋作がわずか80名で挙兵したクーデターの舞台(国宝の仏殿)。境内には、馬に跨り刀を掲げる大迫力の「高杉晋作回天義挙像」が建っています。
- 萩藩新地会所跡(山口県下関市観音崎町):
- 功山寺で挙兵した晋作たちが、真っ先に急襲し占拠した長州藩の出先機関の跡地です。
- 了円寺(山口県下関市阿弥陀寺町):
- 新地会所を襲撃したのち、晋作たちがクーデターの本陣として立てこもった寺院です。
- 東行庵(高杉晋作 墓所) & 下関市立東行記念館(山口県下関市大字吉田1184):
- 晋作が死の直前に「吉田へ…」と呟いた遺言により、遺体が埋葬された場所です。この庵の前身は、奇兵隊で共に戦った山縣有朋が所有していた「無隣庵」であり、それを譲り受けた愛妾・おうの(出家して梅処尼)が庵を結び生涯を守りました。
- 桜山神社(招魂場)(山口県下関市上新地町2-6-22):
- 晋作の発案により、身分に関係なく国のために殉じた志士たちを平等に祀るために創建された日本初の招魂場(靖国神社のルーツ)。晋作自身の霊標もここに並んでいます。
- 厳島神社(小倉城の大太鼓)(山口県下関市上新地町1-1-1):
- 四境戦争(小倉戦争)の際、戦利品として持ち帰った小倉城の大太鼓が奉納・設置されています。
- 高杉晋作療養の地(山口県下関市桜山町):
- 結核が悪化した晋作が、野村望東尼やおうのの看病を受けながら療養生活を送った桜山神社近くの家の跡地です。
- 高杉晋作終焉の地(山口県下関市新地町):
- 正妻の雅子が看病に訪れたことを機に移り住んだ林算九郎宅の跡。この地で27歳8ヶ月の生涯を閉じました。
- みもすそ川公園(長州砲レプリカ)(山口県下関市みもすそ川町):
- 下関戦争の舞台となった関門海峡に面した公園。四国連合艦隊に向けて火を噴いた長州砲のレプリカが設置されています。
- 日和山公園(山口県下関市丸山町5丁目):
- 四境戦争の舞台となった関門海峡を一望できる公園。ここにも高杉晋作の陶像が立っています。
【山口県内および全国の激闘と潜伏の地、英霊の社】
- 大田・絵堂戦跡記念碑(山口県美祢市美東町):
- 功山寺で挙兵した晋作率いる諸隊が、藩政府軍(俗論派)と激突し、勝利を収めて藩論を統一した歴史的な激戦地です。
- 三田尻御舟倉跡(山口県防府市お茶屋町):
- 功山寺挙兵の直後、晋作たちが海軍局を急襲し、軍艦を奪取した場所の跡地です。
- 防府天満宮(山口県防府市松崎町14-1):
- 境内に高杉晋作の辞世の句碑が建てられています。(※こちらの碑では「おもしろきこともなき世『を』」の文字が採用されています)。
- 土蔵相模(相模屋)跡(東京都品川区北品川1丁目):
- 文久2年末、晋作や久坂玄瑞らが密議を交わし、英国公使館焼き討ちへと出撃した品川宿の妓楼跡です。
- 崇福寺(長崎県長崎市鍛冶屋町7-5):
- 上海渡航前、晋作が米国人宣教師チャニング・ウィリアムズと出会い、世界情勢や大統領制などの最新知識を吸収した寺院です。
- グラバー園(旧グラバー住宅など)(長崎県長崎市南山手町8-1):
- 1865年、晋作と伊藤俊輔がイギリスへの密航を計画した際に頼ったトーマス・グラバーの邸宅跡。ここで開国の重要性を説かれました。
- 平尾山荘跡(福岡県福岡市中央区平尾5-2-28):
- 俗論派に命を狙われた晋作が下関を脱出し、身を隠した野村望東尼の山荘跡。ここで匿われながらエネルギーを蓄えたからこそ、その後の「功山寺挙兵」が実現しました。
- 小倉城跡(福岡県北九州市小倉北区城内2-1):
- 四境戦争の際、海軍総督の晋作が奇兵隊を率いて幕府側と激突し、陥落させた城の跡地です。
- 呑象楼(日柳燕石 居宅跡)(香川県仲多度郡琴平町243):
- 功山寺挙兵後、攘夷派から命を狙われ愛妾・おうのを連れて四国へ逃れた際に頼った日柳燕石の居宅です。
- 阿智神社(岡山県倉敷市本町12-1):
- 晋作が四国逃亡の途上、追っ手を逃れるために一時身を隠したとされる倉敷の神社です。
- 京都霊山護国神社(京都府京都市東山区清閑寺霊山町1):
- 西の英霊の聖地。坂本龍馬や中岡慎太郎、久坂玄瑞らとともに、高杉晋作の招魂碑(墓)が建てられています。
- 靖国神社(旧・東京招魂社)(東京都千代田区九段北3-1-1):
- 東の英霊の聖地。維新後、木戸孝允や大村益次郎らによって、恩師の吉田松陰らとともに近代日本建国の英霊として祀られています。
💬高杉晋作の遺産:現代社会へのメッセージ
「苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても言わないでおこうじゃないか」
高杉晋作の生涯は、まさに「常識の破壊」と「絶望的な状況からの大逆転」の連続でした。 身分制度が絶対だった時代に、能力と志だけを基準にした「奇兵隊」を創設する。四国連合艦隊という巨大な敵を前にしても、決して領土の租借(植民地化)だけは許さない。そして、藩全体が幕府にひれ伏そうとする中、たった80人でクーデター(功山寺挙兵)を起こし、歴史をひっくり返す。
彼がなぜこれほどまでに無謀な挑戦を成功させることができたのか。それは、彼が父親から教えられ生涯の信条とした「困ったと言う時は死ぬ時である」という強烈な自負心と、困難な状況を「おもしろく」捉えようとする圧倒的なポジティブさがあったからです。
現代もまた、先行きの見えない変化の時代です。私たちはつい「難しい」「前例がない」と立ち止まってしまいがちです。しかし、高杉晋作の生き様は、状況が絶望的であればあるほど、生死を度外視した「志(心)」次第で世界は面白く変えられるということを、雷鳴のように私たちに教えてくれています。
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