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大分県の偉人:井上準之助 — 「男子の本懐」を胸に金解禁に命を賭け、日本経済に殉じた悲劇の財政家

プロフィール

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ) │ 号:清渓(せいけい)

1869(明治2)年5月6日生│1932(昭和7)年2月9日没(享年64・満62歳没)
「政治家」「財政家」

  • 出身地:日田県日田郡中島村(現在の大分県日田市大鶴町)
  • 学歴:帝国大学法科大学英法科(現・東京大学法学部)卒
  • 職業・肩書き:政治家、大蔵大臣、日本銀行総裁(第9代・11代)、横浜正金銀行頭取、貴族院議員
  • 栄典:従二位、勲一等瑞宝章、旭日重光章、フランス・レジオンドヌール勲章、支那共和国三等嘉禾章など
  • 主な功績
    • 関東大震災時の大蔵大臣としてモラトリアムを断行し、経済的パニックを収拾。
    • 昭和金融恐慌において日銀総裁として高橋是清とともに事態を鎮静化し、モラルハザードを防止。手形割引市場の育成にも尽力。
    • 濱口内閣の大蔵大臣として、財政緊縮と「金解禁(金本位制復帰)」を断行。
    • 重要産業統制法(1931年)の制定。
    • 日本経済聯盟会の結成、東洋文庫の創設、太平洋問題調査会理事長など多方面で活躍。
    • 東京ゴルフ倶楽部の創設、JGA(日本ゴルフ協会)創立総会の開催地提供など、日本のゴルフ普及に大きく貢献。
  • 最期:血盟団事件により、駒井重次候補の選挙応援演説会場に到着した直後に暗殺される。
  • 家族・親族:妻は毛利重輔男爵の長女・チヨ。息子に井上四郎(アジア開発銀行総裁)、井上五郎(妻は木戸幸一の三女・和子)。娘婿に三宅重光(東海銀行頭取)。
  • 交友・関係の深い人物:濱口雄幸(盟友)、高橋是清(恩人であり政敵)、山本達雄(日銀入行の恩人)、三土忠造(政敵)、新井領一郎(ゴルフの師)、井上日召(暗殺の黒幕)
  • 関連作品:映画『日本暗殺秘録』(演:野村鬼笑)、NHKドラマ『男子の本懐』(1981年 / 演:近藤正臣)

「名を成すには常に窮苦の日にあり。事の破るるは多くは得意の時による」

1929年(昭和4年)秋、日本中が深刻な不況にあえぐ中、新しく首相となる濱口雄幸は「中道で斃れるようなことがあっても、もとより男子として本懐である」と妻子に決死の覚悟を告げました。時を同じくして、大蔵大臣への就任を請われた一人の男も、妻・千代子(チヨ)に密かに財産目録と関係書類を手渡していました。「自分にもしものことがあったとき、後に残ったおまえが、まごつくようではみっともない」。 己の宿命に殉じる覚悟を決めていたその男こそ、井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)です。

日本銀行生え抜きとして初の総裁を務め、関東大震災の未曾有の混乱期にはモラトリアム(支払い猶予令)を断行して日本経済の崩壊を防ぎ「第二の渋沢」と称されました。そして、濱口内閣の大蔵大臣として、日本経済の体質改善と国際信用回復のために「金輸出解禁(金本位制復帰)」という大手術に挑みます。 「金解禁」の裏には、大戦後から続く官民の放漫財政(無駄遣い)を根本から是正し、「軍事予算の無制限の膨張を抑え、日本を戦争に巻き込ませない」という、平和への強い祈りが秘められていました。

日本にゴルフを普及させたスポーツマンであり、東洋文庫の創設など文化事業にも尽力しながら、最後は凶弾に倒れた「悲劇の財政家」。国家の難局に文字通り「命」をかけて立ち向かった井上準之助の激動の生涯に迫ります。

日田の造り酒屋、少年期の「窮苦」から日銀の若きエリートへ

1869年(明治2年)、井上準之助は大分県日田郡中島村(現在の大分県日田市大鶴町)で、1804年創業の造り酒屋「井上酒造」を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれました。 彼の少年期は決して平坦なものではありませんでした。7歳の時に叔父の井上簡一の養子に出され、養父の病没によりわずか11歳で家督を相続、その後実家に復籍するという複雑で苦労に満ちた経験をしています。この原体験が、「名を成すには常に窮苦の日にあり」という彼の揺るぎない人生哲学を形作りました。

勉学において圧倒的な才能を発揮した準之助は、日田教英中学を中退後に上京して成立学舎に学び、仙台の第二高等中学校予科に入学します。ここで思想家となる高山樗牛と同級になり、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合うほどの秀才ぶりを見せました。 1896年(明治29年)、帝国大学法科大学英法科(のちの東京帝国大学)を卒業した準之助は、山本達雄の勧めで日本銀行に入行します。翌明治30年には英国およびベルギーへ留学し、国際的な金融感覚を磨きました。 帰国後は高橋是清の知遇を得て頭角を現し、大阪支店長を経て、わずか37歳という若さで職員のトップである営業局長に大抜擢されます。しかし、持ち前の直言直行の性格から財界の大物たちと次々に衝突。その結果、事実上の「左遷(ところ払い)」としてニューヨークへの駐在を命じられてしまいます。

ニューヨークでの出会いと「東京ゴルフ倶楽部」の創設

気鬱な思いを抱えて赴任したニューヨークでしたが、この左遷が準之助の人生に思わぬ彩りをもたらしました。日米生糸貿易を開拓した実業家・新井領一郎から「ゴルフ」という未知のスポーツを教えられたのです。 どんなに思い通りにいかなくても、広々とした野原を無心で走り回り、疲れてぐっすりと眠ることができるゴルフの魅力と効能に、準之助はすっかり心を奪われました。

1911年(明治44年)に帰国し、横浜正金銀行の副頭取(のちに頭取)に就任した準之助は、「日本人の手による、日本人のためのゴルフ場」を造ることを決意します。実業家の樺山愛輔らとともに奔走し、地主との借地契約を準之助個人の名義で結ぶとともに、別途倶楽部基金で神戸市の水道公債を購入し、年6分の利子で借地代を払えるよう財務体制を整えるなど、金融マンとしての手腕を遺憾なく発揮しました。

こうして1914年(大正3年)、東京・駒沢の地に東京で最初のゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」が開場します。 彼は激務の合間を縫って早朝からコースへ通い、1924年(大正13年)にはこのクラブハウスで「JGA(日本ゴルフ協会)」の創立総会が開かれるなど、同倶楽部は日本ゴルフ黎明期の中心舞台となりました。その後、倶楽部は朝霞を経て現在の埼玉県狭山市へと移転しながら、日本オープンを開催するなど、彼が蒔いた種は現在も日本ゴルフ界の最高峰として受け継がれています。

震災復興、「第二の渋沢」、そして「金解禁」への茨の道

大正8年(1919年)、準之助は高橋是清の推挙により日銀生え抜きとして初の第9代総裁に就任。翌大正9年(1920年)の金融恐慌を収拾し、手形割引市場の育成に果敢に取り組みます。大正12年(1923年)、関東大震災発生の翌日には第2次山本内閣の大蔵大臣に就任。直ちにモラトリアムを実施して大混乱を収拾し、その辣腕から「第二の渋沢」と称されました。 さらに昭和2年(1927年)、昭和金融恐慌が発生すると第11代日銀総裁として再登板し、高橋是清蔵相とともに事態を鎮静化。救済融資の条件を厳しく設定してモラルハザードを防ぐなど、冷徹かつ的確な手腕を発揮します。また、日本経済聯盟会(現・経団連)の結成や「東洋文庫」の創設、太平洋問題調査会の理事長就任など、財界・文化・国際外交の多方面でも活躍しました。

もともと準之助は政友会に近い人物と目されていましたが、田中義一内閣の中国政策や銀行政策に不満を抱いていました。そのため昭和4年(1929年)、金本位制復帰を目指す立憲民政党の濱口雄幸首相から熱烈な要請を受けると、党員ではないにもかかわらず大蔵大臣として入閣します。最大の使命は「金輸出の解禁(金本位制への復帰)」でした。 準之助はかつて金解禁を「肺病患者にマラソンをさせるようなもの」と危惧していましたが、日本経済の軟弱な体質(官民の放漫財政)を根本から是正するためには、痛みを伴う緊縮財政と金解禁しかないと決断します。彼は全国を遊説し、著書『世界不景気と我國民の覚悟』を出版するなど、当時としては異例のPR活動を行って国民に協力を求めました。

昭和5年(1930年)1月、ついに金解禁が断行されます。 しかし、歴史の歯車は残酷でした。金解禁の直前、アメリカで株価が大暴落し、世界恐慌が勃発していたのです。

統制経済への道、ドル買い事件、そして凶弾に散る

世界的な不況と、旧平価(円高水準)での金解禁が重なったことで、日本の輸出は激減し、深刻なデフレーション(昭和恐慌)に陥りました。不況を乗り切るため、準之助は昭和6年(1931年)に「重要産業統制法」を制定。これが皮肉にも、1930年代後半の日本の統制経済への道を拓くことになります。

また、準之助の緊縮財政は「海軍予算の大幅削減」を伴うものでした。日銀時代に秘書として仕えた一万田登によれば、彼には「軍事予算の膨張を阻止し、日本を戦争に巻き込ませない」という真意がありましたが、軍部や右翼からは「統帥権干犯」として強烈な恨みを買います。 同年、満州事変が勃発すると、準之助は同郷の南次郎陸相と親しいこともあり不拡大方針を期待されましたが、内相・安達謙蔵の協力内閣運動に反対し、若槻内閣は総辞職します。直後、政友会の犬養内閣(高橋蔵相)が金輸出を再禁止すると、それを見越して三井銀行などが巨額の利益を得た「ドル買い事件」が発生。これが国民の資本家や政治家への憎悪を決定的なものにしました。

世間の非難が渦巻く中、雑誌『GOLFDOM』(昭和6年1月号)には「金解禁一周年記念カップ」の様子が掲載されています。現職の大蔵大臣でありながら、準之助はグロス121、ネット97で最下位。どんな逆風の中でも、彼はゴルフを愛する人間味を失っていませんでした。

野党に転落した民政党の総務として次期選挙の陣頭指揮を執り続けていた準之助ですが、昭和7年(1932年)2月9日夜。民政党公認候補・駒井重次の選挙応援演説のため、東京市本郷区の駒本小学校裏門前に到着した直後、日蓮宗僧侶・井上日召に感化され「一人一殺」を掲げる右翼テロ組織「血盟団」の青年・小沼正の放った拳銃の凶弾が準之助を貫きました。直ちに東京帝国大学病院青山外科へと搬送されましたが、午後8時15分、帰らぬ人となりました。享年64(満62歳)。

盟友であった濱口雄幸も前年にテロの傷が元で世を去っており、準之助もまた自身の宿命に殉じました。そして彼の死の約1ヶ月後には三井合名の団琢磨も暗殺され、時代は「五・一五事件」、そして泥沼の戦争へと転がり落ちていくことになります。 葬儀の日、棺の中には白楽天の詩集、端渓の硯とともに、アメリカに注文して届いたばかりの最新式「スチールシャフトのドライバー」がそっと納められました。

Information

井上準之助を深く知る「この一冊!」

城山文学の頂点を示す、政治・経済小説の傑作

本のご紹介

男子の本懐 (新潮文庫) / 城山 三郎 (著)

文庫 – 1983/11/25

昭和初期、慢性的不況を脱するために「金解禁」という劇薬に政治生命と己の命を賭けた二人の政治家、濱口雄幸と井上準之助。性格も境遇も対照的な二人が、激しい非難とテロの影に晒されながらも、国家の将来のために己の信念を貫き通す姿を描いた、城山文学の頂点とも言える歴史経済小説の傑作です。

📍【完全網羅版】井上準之助の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

日本経済の土台を築き、文化やゴルフの発展に多大な貢献を残した井上準之助の足跡は、生誕の地である大分県日田市と、金融・政治の舞台となった東京・横浜、そして彼が愛したゴルフの系譜の地に色濃く残されています。

【大分県】 生誕の地と、受け継がれる造り酒屋

  • 井上準之助 生家・清渓文庫(大分県日田市大鶴町2299):
    • 準之助が生まれ育った生家。彼の号である「清渓(せいけい)」から名付けられた「清渓文庫」が敷地内に設けられており、彼が遺した書簡や愛用した品々などが大切に保管されています。また、敷地内には彼の功績を称える胸像も建立されています(※見学等については要事前確認)。
  • 井上酒造(大分県日田市大字大鶴町2718 ※提供資料旧表記:日田市大肥大鶴町2220-1):
    • 準之助の実家であり、文化元年(1804年)の創業から現在まで続く老舗の造り酒屋。「角の井(かくのい)」などの銘酒で知られ、大分・日田の美しい水と気候を活かした酒造りを現在も受け継いでいます。

【東京都・神奈川県・埼玉県】 財政家としての激闘と、悲劇の舞台

  • 日本銀行 本店(東京都中央区日本橋本石町2-1-1):
    • 準之助が若き日に入行し、のちに生え抜きとして初の総裁(第9代・第11代)を務めた日本経済の中枢。辰野金吾設計の旧館内には、歴代総裁の肖像や胸像が飾られ、彼が昭和金融恐慌などの難局に立ち向かった当時の威厳を今に伝えています。
  • 旧横浜正金銀行 本店本館(現・神奈川県立歴史博物館)(神奈川県横浜市中区南仲通5-60):
    • 準之助が副頭取、そして頭取を務め、国際金融の最前線で辣腕を振るった旧横浜正金銀行の本店です。国の重要文化財に指定されている壮麗な建築物は、彼が世界を相手に戦った軌跡を証明しています。
  • 東洋文庫(東京都文京区本駒込2-28-21):
    • アジア全域の歴史と文化を研究する世界的な東洋学専門図書館。準之助は三菱第3代当主・岩崎久弥を説得して「モリソン文庫」の購入を実現させるなど、この世界的施設の創設に多大な尽力を果たしました。
  • 麻布三河台町の旧邸宅跡周辺(東京都港区六本木4丁目周辺):
    • 準之助が構えていた広大な本邸があった場所。東京ゴルフ倶楽部の借地契約を交わす際、地主たちが「個人の信用力」を確かめるためにこの大邸宅を検分に訪れ、見事に契約をまとめたという逸話が残る歴史的エリアです。
  • 旧東京ゴルフ倶楽部 駒沢コース跡地(現・駒沢オリンピック公園周辺)(東京都世田谷区駒沢公園):
    • 準之助らが中心となって設立した「日本人の手による最初のゴルフ場」があった場所です。かつてここで、準之助は激務の疲れを癒やし、JGAの創立総会が開かれるなど歴史の舞台となりました。
  • 東京ゴルフ倶楽部(埼玉県狭山市柏原1984):
    • 駒沢から朝霞を経て、現在狭山市に移転して存続している名門ゴルフ倶楽部。準之助が蒔いた日本のゴルフ文化の種は、現在もこの地で脈々と受け継がれています。
  • 井上準之助 暗殺現場(文京区立駒本小学校 裏門周辺)(東京都文京区向丘2-37-5):
    • 昭和7年(1932年)2月9日、駒井重次の選挙応援演説に駆けつけた準之助が「血盟団事件」の凶刃に倒れた悲劇の場所です。明確な記念碑等はありませんが、日本の歴史が軍国主義へと暗転していく歴史的転換点となった現場です。
  • 東京大学医学部附属病院(旧・東京帝国大学病院青山外科)(東京都文京区本郷7-3-1):
    • 駒本小学校で銃撃された準之助が搬送され、最期を迎えた病院です。母校である帝国大学の敷地内で、その激動の生涯を閉じました。
  • 青山霊園 井上準之助 墓所(東京都港区南青山2-32-2):
    • 日本経済に殉じた準之助が静かに眠る墓所(1種イ1号15側)。不思議な縁に導かれるように、彼の盟友であり、同じくテロの犠牲となった元首相・濱口雄幸の墓と隣り合うように配置されています。

💬井上準之助の遺産:現代社会へのメッセージ

「大震災の後始末をするのには、非常に速く復興を図るということが必要であり、これを永く放ったらかして、この回復を図らずにおったならば、大都会は復興の機会を永久に失うであろう」

これは関東大震災後、大蔵大臣として直ちにモラトリアムを断行した準之助の言葉です。彼は常に「国家百年の計」を見据え、目の前の批判や痛みを恐れずに、迅速かつ本質的な決断を下す人物でした。

「金解禁」という政策自体は、不運な世界恐慌のタイミングと重なり、結果として国民に甚大な苦痛を強いる「失敗」と歴史に刻まれることになりました。しかし、彼の底流にあったのは「官民の無駄遣いと軍事費の膨張を抑え、日本を健全な国際社会の一員にとどめる」という、真の愛国心でした。 自己の保身や選挙の票を気にして問題を先送りする政治家が多い中、暗殺される危険を承知の上で、己の信じる「正道」に命を投げ出した井上準之助。

彼が妻に財産目録を渡した夜の静かな覚悟は、現代のリーダーたちに対して「あなたは、己の身を削ってでも守るべき理念を持っているか?」という、鋭く重い問いを突きつけています。

©【歴史キング】

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