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長野県の偉人:臥雲辰致 — 長野産業・工業の発明の父たち。「ガラ紡の父」と呼ばれた無欲の天才

プロフィール

臥雲 辰致(がうん たつむね / たっち / ときむね)

※名前の読み方には諸説あり、研究者の間でも論争があります。親族や地元の間では「たっち」、第一回内国勧業博覧会の公式カタログのローマ字表記(Official Catalogue of the National Exhibition of Japan 1877, Dept. 4, pp. 5:GAUN TOKIMUNE)に基づき「ときむね」とする説のほか、文献により「たつむね」「しんち」「たつとも」など多岐にわたります。なお、明治9年5月19日の「信飛新聞」では「フスモ タツチ」とルビが振られていました。本名は横山 栄弥(よこやま えいや)。僧侶時代の名は智恵(ちけい)。

1842(天保13)年9月19日生│1900(明治33)年6月29日没(享年58歳)
「発明家」「ガラ紡の父」「元・僧侶(臥雲山孤峰院 住持)」

  • 出身地:信濃国安曇郡小田多井新田村(現・長野県安曇野市堀金三田)
  • 主な功績:1873年(明治6年)、日本初の産業用自動機とも言える木製・水車動力の太糸綿糸紡績機「臥雲式紡績機(ガラ紡)」を発明(※JIS-L繊維用語では「がら紡」と表記)。│1876年(明治9年)、細糸用の機械改造に成功。松本開産社の一部を借りて、松本北深志町に「連綿社」を設立。│1877年(明治10年)、第1回内国勧業博覧会にてガラ紡を出品し、最高賞「鳳紋賞牌」を受賞。│外国製綿糸に圧迫されていた明治初期の日本において、安価に導入できるガラ紡を普及させ、日本の第一次産業革命(紡績業の自立)を根底から支えた。│1890年(明治23年)、もじり網織機(蚕網織機)を発明し、第3回内国勧業博覧会で3等有功賞を受賞(1899年に特許取得)。│その他、七桁計算機、土地測量機などの発明・考案。
  • 称号・受章
    • 藍綬褒章(1882年、審査長・佐野常民の支援と8回の改良を経て受章)
    • 第2回内国勧業博覧会 進歩二等賞(1881年)
    • 愛知県岡崎市 名誉市民(1961年、没後追贈)
  • 家族・親族:父・儀十郎(足袋底織業)。妻・川澄たけ(波田の豪農・川澄東左の長女。1878年結婚)。長男が川澄家を継ぎ、四男の紫朗が臥雲姓を継承(のちに松本で臥雲商会を継ぎ、1914年頃に臥雲式回転稲抜機を発明)。
  • 歴史的影響:彼の発明が特許制度未整備ゆえに模倣され、本人が困窮した歴史的事実は、のちの日本の専売特許制度(1885年創設の専売特許条例)制定の大きな契機として語り継がれている。│戦前の文部省編纂『高等小学校修身教科書』(1892年)、『日本修身書』(1893年・金港堂)、『実業修身教科書』(1915年)にその偉大な事績が掲載され、無欲の発明家として教育の模範とされた。

「唯擬造効用ヲ誤ルモノアルヲ恐ル(ただ、粗悪な偽造品が効用を誤らせてしまうことだけを恐れる)」

※模造品が横行した際、臥雲が「自らの利益」ではなく「品質の低下」を危惧して広告に記した文言より

明治維新を迎え、怒涛のように押し寄せる西洋の近代文明。明治元年からの10年間、日本の輸入総額の36%を外国産綿糸布が占め、莫大な国富が海外へ流出していました。 そんな国家の存亡の危機を救ったのは、政府の高官でも、海外留学帰りのエリートでもありません。長野県の山奥で、お寺を追い出された「元・お坊さん」でした。

日本の産業・工業の発明の父たちの中でも、極めて異彩を放つ臥雲辰致(がうん たつむね / たっち)。 彼が発明した「臥雲式紡績機(通称:ガラ紡)」は、最新鋭の鉄の機械ではなく、なんと「木製」でした。しかし、この木と水車でできた日本初の産業用自動機こそが、当時の日本の国力に完璧に合致し、西洋列強に呑み込まれそうになっていた日本の産業を根底から支え抜いたのです。

特許制度がない時代、自分の発明を丸パクリされて会社が倒産しても決して怒らず、ただひたすらに日本の未来のために発明を続けた男。まるでエジソンのような執念と、仏のようなどこまでも無欲な心を持った「ガラ紡の父」の生涯に迫ります。

廃仏毀釈で寺を追われた僧侶が、国を救う発明家へ

天保13年(1842年)、臥雲辰致は信濃国安曇郡(現在の長野県安曇野市)で生まれました。生家は没落した元・豪農で、足袋の底を織る内職で細々と生計を立てていました。少年時代からその手伝いをしていた彼は、「どうすればもっと効率よく糸を紡げるだろうか」と、常に機械の改良を考えるような子供でした。

20歳になった文久元年(1861年)、彼は近隣の法降山安楽寺で出家して「智恵(ちけい)」と名乗り、仏道に入ります。 厳しい修行を重ね、末寺である臥雲山孤峰院の住職にまでなりました。しかし明治4年(1871年)、彼の運命を激変させる事件が起きます。明治政府による「廃仏毀釈(仏教弾圧)」の嵐が吹き荒れ、彼のお寺が強制的に廃寺にされてしまったのです。

行き場を失い、還俗(僧侶から一般人に戻ること)を余儀なくされた彼は、お寺の山号をとって「臥雲」と名乗りました。お経を読む日々を奪われた彼は、再び「糸を紡ぐ」という少年の頃の情熱を取り戻します。 

「仏の教えで人を救うことはできなくなった。ならば、私の発明でこの国の産業を救おう」 

元住職の、執念の発明生活が幕を開けました。

西洋の「鉄」に挑んだ「木と水車」の奇跡

明治6年(1873年)、辰致はついに独自の太糸綿糸紡績機を発明します。 それは、巨大で高価な鉄製紡績機とは全く異なるアプローチでした。直径4cm、深さ20cmくらいのブリキの筒の中に綿を入れ、水車の動力を利用して回転させ、引き出した綿にすぐ撚(より)をかけるという極めてシンプルな構造。部品のほとんどが「木製」で安価に作れる日本初の産業用自動機でありながら、従来の手作業に比べて数十倍の能率を誇りました。回転する際に「ガラガラ」と大きな音を立てることから、のちに「ガラ紡(がらぼう)」と呼ばれるようになります。

明治8年に専売特許を申請するものの、当時は特許法がなく「公売」を許されたのみでした。しかし翌年、細糸用への改造に成功すると、筑摩県庁の斡旋で官営松本開産社に出品し、その一部を借りて松本北深志町に「連綿社」を設立。 そして明治10年(1877年)、東京で開催された第1回内国勧業博覧会に出品すると、博覧会を指導していたお雇い外国人のG・ワグネルが「本会中で第一の好発明である!」と大絶賛。辰致は最高賞の「鳳紋賞牌」を受賞し、一躍時の人となりました。

ガラ紡の凄さは、その「適正技術」としての価値にあります。巨大な西洋式工場を建てる資金力がなかった当時の日本において、安価で設置できるガラ紡は愛知県の三河地方を中心に爆発的に普及しました。ガラ紡が紡ぐ糸は太くて不均一でしたが、それがかえって柔らかく吸湿性に優れ、足袋の底などの需要にピタリとはまったのです。

発明をパクられて会社が倒産。それでも彼は怒らなかった

連綿社は東京や山梨、石川にも支社を設け、585台ものガラ紡機を販売しました。しかし、すぐに大きな悲劇が襲いかかります。 特許制度がない時代、構造がシンプルだったガラ紡はあっという間に真似され、粗悪な模造品が大量に出回ってしまったのです。辰致は対抗策として、広告に「唯擬造効用ヲ誤ルモノアルヲ恐ル世人宜ク上ノ焼印ヲ証トシテ弁識スヘシ(粗悪な偽物が効用を落とすことだけが恐ろしい。この焼印を本物の証としてくれ)」と記しました。自らの利益の損失ではなく、「粗悪品で日本の綿業の品質が落ちること」を危惧した、元僧侶らしい広告でした。

偽物に押され、連綿社は明治13年(1880年)に東京支店を閉鎖、同年12月には事実上解散に追い込まれます。 しかし、彼を支える人々もいました。明治14年の第2回内国勧業博覧会で進歩二等賞を受賞した辰致は、審査長の佐野常民から多大な支援を受け、8回もの改良を重ねて優秀な紡機を完成させ、翌年に藍綬褒章を受章します。

この倒産の悲劇は、のちに日本の「専売特許条例(明治18年)」が創設される最大の契機となりました。

生涯を「実学」に捧げた無欲の天才

彼は松本市の波多村の豪農・川澄東左の援助を受け、土蔵を工房として移り住み、明治11年に川澄家の長女・たけと結婚します。その後、ガラ紡が一大産業となった三河地方へ一時身を寄せていましたが、明治24年(1891年)に再び波田村へ定住しました。

ガラ紡にとどまらず、明治23年(1890年)には従来より15倍の能率で蚕網(かいこあみ)を織る「もじり網織機」を発明して第3回博覧会で3等有功賞を獲得。特許制度の恩恵を受けられなかった若き日の悲劇を乗り越え、1899年(明治32年)にはこの織機で正式に特許を取得し、自ら工場を建てて製造に乗り出しました。

七桁計算機や土地測量機まで考案し、最期まで新しいものを生み出し続けた辰致は、明治33年(1900年)、58歳でこの世を去ります。彼の「発明の遺伝子」は、のちに「臥雲式回転稲抜機」を発明した四男・紫朗へと受け継がれました。

彼が産み落とした「ガラ紡」は、明治30年(1897年)に日本の綿製品の輸出額が輸入額を上回る「歴史的逆転」を果たすまでの間、軽工業国・日本が世界へ羽ばたくための「命綱」となりました。 富や名声のためではなく、ただひたすらに世のため人のために知恵を絞り続けたガラ紡の父・臥雲辰致。彼の無欲な魂は、今も「ものづくり日本」の原点として光り輝いています。

Information

臥雲辰致を深く知る「この一冊!」

現代にまで受け継がれる「ガラ紡」の温かみと技術の遺伝子

本のご紹介

臥雲辰致・日本独創のガラ紡: その遺伝子を受け継ぐ / ガラ紡を学ぶ会 (編集)

単行本 – 2017/10/1

繊維業界に衝撃を与えたガラ紡機を発明するも、特許制度がないために不遇の生活を送りながら、ひたむきに開発をつづけたガラ紡の父・臥雲辰致。彼の波乱の生涯や、木と水車で作られた日本初の産業用自動機の驚異のメカニズム、そして現代にまで受け継がれる「ガラ紡」の温かみと技術の遺伝子を詳細に紹介した決定版の一冊です。

📍【完全網羅版】臥雲辰致の足跡を辿る — ゆかりの地・史跡リスト

  • 安曇野市堀金歴史民俗資料館(長野県安曇野市堀金烏川2753-1):
    • 辰致の生まれ故郷にある資料館。ガラ紡機に関する資料や、彼の偉業を称える常設展示が行われています(※月曜休館)。
  • 安曇野市豊科郷土博物館(長野県安曇野市豊科4289-8):
    • 安曇野ゆかりの先人として辰致を顕彰しており、2014年8月には夏季特別展「安曇野のエジソンたち」で中心的に取り上げ、ガラ紡の稼働工場(岡崎市)や顕彰碑を巡る現地見学会などを実施しました。
  • 法降山安楽寺 および 臥雲山孤峰院跡(長野県安曇野市堀金岩原):
    • 辰致が若き日に修行した「安楽寺」と、のちに彼が住職を務め、廃仏毀釈で廃寺となった隠居寺「臥雲山孤峰院」の跡地。孤峰院は、安楽寺と地続きの白池堤の南にあったとされています。
  • 臥雲辰致居住跡・土蔵 および 川澄家の墓所(長野県松本市波田):
    • 連綿社倒産後、彼が援助を受けて移り住み、晩年まで過ごした地。現在もひ孫にあたる川澄家の方々が家を管理されており、敷地内には彼が工房として使った「土蔵の外観」と、「臥雲辰致翁頌徳碑(しょうとくひ)」が残されています。また、近くの波多神社周辺にある川澄家の墓地には、臥雲辰致と妻・たけの墓碑が静かに並んで建っています。
  • 臥雲辰致顕彰碑(せきれいホール敷地内)(愛知県岡崎市朝日町3丁目):
    • ガラ紡によって多大な恩恵を受け、一大産業地帯となった三河地方の人々(三河紡績同業組合)が、大正10年(1921年)に建立した高さ約4mの立派な記念碑です。題額には篆書で「澤永存(偉人の恩沢、永遠に)」、碑文には「発明益世 其業大慈」と刻まれています。岡崎市は彼の功績を称え、没後の1961年に名誉市民の称号を贈っています(※旧・岡崎市郷土館前にありましたが、現在はせきれいホール敷地となっています)。
  • トヨタ産業技術記念館(愛知県名古屋市西区則武新町4-1-35):
    • 日本の繊維機械と自動車の歴史を展示する世界的にも有名な記念館。「繊維機械館」のエリアにおいて、臥雲辰致が発明したガラ紡績機(復元機)が「動態展示(実際に動く様子が見られる状態)」されており、木と水車を組み合わせた日本独自の独創的なメカニズムとガラガラという音を間近で体感できます。
  • 博物館 明治村(愛知県犬山市字内山1番地):
    • 明治時代の貴重な建築物や産業遺産を保存・展示する野外博物館。村内の「鉄道寮新橋工場(機械館)」の建物内において、当時実際に使われていた初期のガラ紡機(日本に2台しか残っていない貴重な1台であり、経産省の『近代化産業遺産』に認定)が展示されており、日本の産業革命の息遣いを感じることができます。

臥雲辰致の遺産:現代社会へのメッセージ

「利益を奪われても腐るな。あなたの生み出した価値は、確実に世界を良くしている」

臥雲辰致の生涯は、現代を生きる私たちに「本当のイノベーションとは何か」を教えてくれます。 現代は「いかに特許を取り、いかにビジネスとして独占して稼ぐか」が重視される時代です。もちろんそれは資本主義において重要ですが、辰致は自分のアイデアが盗まれ、会社が倒産しても、決して他者を恨んだり世の中を呪ったりしませんでした。彼の目的は「自分が儲けること」ではなく、「日本の産業を救うこと」だったからです。 結果として、彼が蒔いた種は三河地方の人々を豊かにし、日本の近代化を何十年も早めました。さらに驚くべきことに、ガラ紡が生み出す太くて柔らかい糸の風合いは現代でも高く評価されており、現在も愛知県の数社でガラ紡機が稼働し、極上のオーガニックコットン製品として人々に愛され続けています。

私たちが仕事や日々の生活で「正当に評価されない」「手柄を横取りされた」と不満を抱いた時、この元お坊さんの生き様を思い出してみてください。あなたが真摯に生み出した仕事やアイデアの「価値」そのものは、誰にも奪うことはできません。損得勘定を超えて、世の中のために知恵を絞り続ける姿勢こそが、最も尊く、歴史に永遠に刻まれるのだと彼は教えてくれています。

©【歴史キング】

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